天神さまの悩み 4回目
怨霊
自分の受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりなどをする死霊または生霊。
道真は失意の中いた。
「わしは位が上がることを望んでなかったのに、周りがわしのことを持ち上げて、政治の世界に引きずりこまれた。
ただただ!学問がしたかった。位の高い人の役に立てれば良かった。
なのに、権力闘争に巻き込まれて、都から遠い太宰府まで追いやられるとは、挙げ句の果てに家族はばらばらにされた!
皆、わしのことを忘れてしまっている!
誰がこんな目に合わせたのか!
藤原菅根(当時蔵人頭)が許せない‼️
まずはあいつから罰を与えよう!」
都で異変が起こっていました。
政治の中枢の人々が謎の死を遂げていました。
延喜八年(908年) 参議の藤原菅根が亡くなりました。まだ怨霊で殺されたとは誰も思っていません。
延喜九年(909年) 左大臣の藤原時平が早世しました。39歳です。時平の死辺りから道真の怨霊かと意識し始めました。
「藤原時平めにも罰を与えてやったわ!あやつの体にわしが入り、呪い殺しやったわ‼️
さて次は誰を殺そうか‼️」
延喜二十三年(923年) 醍醐天皇の皇太子の保明親王が亡くなりました。皇太子の母は時平の妹でした。
醍醐天皇自身も自らの決断が道真を怨霊とさせたことは認めたく無かったが、近い人々が亡くなり、道真の怨霊との噂が広まると認めざるを得なくなりました。
醍醐天皇は道真の左遷を取り消し、右大臣に復し、名誉回復に務めます。年号も延喜から延長への改元も行われた。
しかし。
「名誉回復、右大臣⁉️そんなものはいらんわ。まだまだ怒りは収まってないぞーー‼️
次は誰を呪おうかー❗️」
延長三年(925年) 保明親王の子の慶頼王がわずか5歳で夭折した。
延長八年(930年) 内裏への大きな落雷が起こり、人々を震撼させた。
大納言 藤原清貫 服に火がつき、死亡
右中弁 平 希世 顔が焼きただれ死亡
右兵衛佐 美努忠包 髪が焼けて死亡
紀陰連 腹部が焼ける
安曇宗仁 膝を焼かれる
この落雷に衝撃を受けた醍醐天皇は体調を崩し、寛明親王へ譲位したが、まもなく崩御されました。
「とうとうミカドまでも地獄に落としてしまった。
人々はわしのことを畏れているようだ。」
道真は倒れ込んだ。
何かに呪われたように、怨霊となり、力尽きたのか❓
その後、道真の気は二人にのりうつった。
一人はあやこさんという女性で天慶五年(942年)に右近の馬場の北野に祠を建てて祭るようにつげた。しかし、女子の力ではとてもできなく、自宅に仮の祠を作ってお祀りした。今の京都府下京区の文子天満宮である。
もう一人は7歳の子どもで天暦元祖年(947年)にもう一度右近の馬場に祠を建てるように告げた。
ようやく北野の地に移建することとなった。
現在の北野天満宮である。
あやこさんの託宣の時に天神と称されるようになるが、いつから言われたかはわからない。
でも天の神と言われることから、人々がいかに畏れいたかがわかる気がします。
993年には道真には、左大臣、更に太政大臣の位を贈られた。これはたたりを鎮めるというより、道真への罪滅ぼしと思います。
これ以降、鎮魂と守護神として天神信仰が始まります。
その後、多くの変化をしながら、現在の学問の神様、受験の神様として崇められている。
怨霊の道真は眠ったままですが…
おわり
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