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うかれ女の離婚始末記 後編

(登場人物)
・和泉式部(いずみしきぶ)
  25歳 女流歌人。中古三十六歌仙
  藤原道長から尻軽女と言われる
・橘道貞(たちばなのみちさだ)
  生年不明の為、だいたい30歳くらい?
  和泉守、陸奥守。
・藤原保昌(ぶじわらのやすまさ)
  45歳 藤原道長の家司、摂津守
・敦道親王(帥宮)
 (あつみちしんのう(そちのみや))
  22歳 冷泉天皇第四皇子
・為尊親王(ためたかしんのう)
  26歳 冷泉天皇第三皇子。この年に死亡
・赤染衛門(あかぞめえもん)
  47歳 女流歌人。中古三十六歌仙。
  和泉式部とも親交有り。
・藤原道長(ふじわらのみちなが)
  37歳 左大臣。時の権力者。
・藤原彰子(ふじらわらしょうし)
  15歳 藤原道長の長女。一条天皇の皇后。



棄てられたのはどっち❓

道貞-和泉式部-敦道親王

この三角関係について、道長の娘の彰子に仕えていた赤染衛門がこう伝えている。

「いずみしきぶとみちさだとなかたがひて、そちのみやにまひると聞いて」

そちのみやは敦道親王のことである。

和泉式部と橘道貞が夫婦喧嘩したのは事実である。
敦道親王との大恋愛で喧嘩して別れたのか?
橘道貞と喧嘩して、敦道親王の所へ行ったのかは不明である。
どっちがどっちかはわからない。

ただ本当は別れたかったくせに、うまく相手を操って、別れ話を切り出させる。
百戦錬磨の恋愛の名手の和泉式部にとってはこれくらい朝飯前かもしれない。

「棄てらてたの、私😢。道貞様に棄てらたのよぅ😭」
などと女友達や周りに言いふらしいながら、
裏では、

「あー、せいせいした。あんな男と❗️」
などと舌を出してたかもしれない。

その証拠に『和泉式部日記』という文献があります。
敦道親王とのラブストーリーを書き綴ったこの物語に橘道貞の名前は1行も出ていないのです。

和泉式部は当時の男たちにチヤホヤされていてるはずなのに、男は心変わりをするとか無意識によそよそしくするとか歌にしていますが、心変わりしているのはどっちなの?彼女自身じゃないのと思いたくもあります。

橘道貞もドライで計算高い男ですが、和泉式部も恋愛は凄腕なので、どっちもどっちかと思います。

この後、和泉式部は一条天皇の中宮(皇后)藤原彰子に仕えることになり、この時に藤原保昌と再婚することになる。

藤原保昌。橘道貞と同じ中流官僚貴族で、この時は藤原道長の家司、道長の家の事や事務を取り仕切る役人であった。

藤原保昌は武勇にも優れていた人で、有名な話に大盗人 袴垂(はかまだれ)を震え上がらせた事件がある。


ある日、袴垂という大盗人が夜の都大路を笛を吹いて歩いてくる人がいたので、追いはぎをしてやろうとして、襲おうとするが、一部の隙もない。思い切って近づくと相手は「誰か?」と聞かれ、その言葉で聞いて、袴垂はびびって、名前を名乗り、追いはぎをしようとしていことを告白した。
笛の人は「俺について来い。」と言って、また笛を吹きながら歩いていく。
袴垂はまるで鬼に出会ったかのように恐る恐るついて行き、笛の人の家まで着くとその人は袴垂に着物をめぐみ、「要る時はまた来い。」と言ったとのことです。


この豪胆な人が藤原保昌です。藤原道長に近く、道長の家の周りのお世話をしていたので、大和守、摂津守、丹後守を歴任しています。
中央政府でも左馬頭という交通や運輸の長官の役割をしていたので、橘道貞よりは一段と格が良い。

藤原保昌が56歳、和泉式部が36歳で結婚し、丹後守の時に、一緒に任地に行っています。
ただこの結婚生活もうまく行かず、別れています。

和泉式部は、恋人には最高の女性かもしれませんが、奥様としては失格だったのでしょうか?
藤原道長から浮かれ女、尻軽女と言われたのですから。


和泉式部の晩年は孤独に過ごしていたようです。


あらざらむ このよのほかの おもひでに
いまひとたびの あふこともがな

(わたしはもうすぐ死んでしまうでしょう。
この世から離れる思い出に もう一度、あなたと一夜を共に過ごしたいです)


山奥である白髪の老婆が亡くなっていました。
何故かその顔はにっこり微笑んでいたという…

(おわり)








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