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平野啓一郎「決壊」感想

崇くんと友達になりたかったが、ホームに飛び込んで死んでしまったのだろうか。
崇くんは知的で有能で、女にモテる男だったが、ついでに180あってイケメンだったが、彼なりの地獄を抱えていた。
宇垣美里の「それぞれの地獄」発言があったそうだが、崇くんくらいリア充でもやはり地獄はあったのだ。
というか悪魔の犯行によって、不幸者たちの抱えていた地獄が解放されて、崇くんにもおすそ分けされたのかもしれない。
でも冒頭の方でも崇くんのちょっとした懊悩シーンがあった気がするので、元々地獄の萌芽みたいなものはやはり崇くんの中にもあったと思う。

この小説は、08年に発売された。
作品世界はもう少し前で、9.11のちょっと後くらいだと思う。
だからインターネッツの発達も今ほどじゃない。
個人のブログとかがまだネット上の主要な発信手段であった時代の話だ。
だけど作者はインターネットを通じて拡散した悪意が世界に何をもたらすのかを見事に描いている。
悪魔たちのばらまく悪意がウイルスのように人々に伝染し、人々の中にあった憎悪を喚起し、行動を動機づけていく。
ツイッターやyoutubeを通じて今まさに我々が目撃しているそれは、この作品の中で起きたことの加速版に過ぎないという気がする。
質的には同じだ。

正直自分は平野啓一郎のことをナメていた。
youtubeなどで彼のインタビューや講演動画を視聴し、ツイッターでの発言を見ていて、なんか穏当なリベラルっぽいことを言うだけのつまらん人間だと思っていた。
ていうか評論家だと思っていた。
だから「三島由紀夫vs東大全共闘」を観て、平野さんの肩書に「小説家」と書いてあるのを見て驚いた。
えっ、こいつ小説家なの?
こんなつまらんやつが?!
と思っていた。
それでこんなつまらんやつがどんなつまらん小説を書くんだろうという思いでオーディブルで「決壊」を聴いた。
マジでやられた。
クソおもしろい。
この人ハンパない。
マジですごいわ。
自分の人を見る目のなさを恥じた。

講演とかSNSで見せる姿は、パンピー、マスメディア向けの無難な分人なのかもしれない。

そんなわけですっかりファンになってしまい、オーディブルで
「ある男」
「ドーン
「かたちだけの愛」
「空白を満たしなさい」
「マチネの終わりに」
「本心」
「息吹」
紙の本で
「私とは何か 「個人」から「分人」へ』
「日蝕」
を読んだ。
わりと読んだな。
好きになると一気に読みたくなってしまうんだ。

平野さんの小説は、ところどころに登場人物同士のインテリ会話シーンがあるのが好きだ。
社会情勢のこととか、資本主義がどうとか。
そういう話を、評論本で話されるより、物語の中で挿話的に展開された方が、頭にすっと入ってくる。
僕はバカだから。
ありがたい。
かっこいいしね。
マネしたい。

【追記1 良介が山口に帰省する新幹線のシーン】
 良介が乗っているのは「こだま」である。
 少し調べたら、「のぞみ」や「ひかり」に比して遅いらしい。
 実際に作中でも、のぞみに追い抜かれるために停車する描写がある。
 こだまの車体を傾けるような突風を吹かせながら、追い抜いていくのぞみ。
 通過後にはこだまの車体を律儀に元の位置に戻していくのぞみ。
 この時点ですでに、生まれた時からなんでもできて、全てを手にしている崇と、決して馬鹿でも無能でもないが、凡庸な良介との対比がすでに暗示されているように思う。
 同時に、車内では飛び込み自殺によるものかもしれないダイヤの乱れについての情報が流れ、作品の結末を暗示するものにもなっている。
 崇くんが飛び込んだのは新幹線ではなかった気がするが、自殺による列車の遅延というモチーフが冒頭と結末で繰り返されることで、なんとなく作品全体が円環構造をなしているようにも見える。
 冒頭の車内で、良介の耳に聞こえてくるセリフは誰のものなのだろうか。
 「幸福格差」の下流に位置する自身の声だろうか?
 それとも悪魔の声だろうか?
 内容の示されないこのささやきが、「小さな子どもを連れての帰省」という幸福のテンプレート的場面に不吉な影を落とす。

【追記2 悪魔の所業】
崇くんは、自分の人格のどこを切り取れば人に愛されるか知っていた。
だからそれを実行し、分人主義的に、関わる人によってdivを変え、相手に最適化した自分を差し出していた。
それに対して良介は、常に全人格的に、個人主義的に他人と関わっていた。
崇くんはそれゆえに良介を愛していた。
しかし、そんな良介も、結局は家族には言えない「スー(オーディブルで聴いたから表記わかんない)」としての人格を作り出してしまう。
そこを悪魔に利用された。
悪魔は、「言葉がお前自身と完全に一致するように責任を持て」と言葉と人格の完全一致を迫ったうえで、お前は幸福(良介)なのか、不幸(スー)なのかという二者択一を突きつける。
しかし、幸福だと言えばスーの日記はウソだということになって殺され、不幸だと言えばその映像を家族に送りつけられて良介としての日常は破壊されるだろう。良介にとってはいずれにしろ破滅で、これは実質的に一択なのである。

まさに悪魔的一択なのである。

しかし、「言葉がお前自身と完全に一致するように責任を持て」というのは、特別なことでもなんでもなく、近代社会が我々に日常的に突き付けている規範である。

学校でもそのように教えられる。
毎月のめあてを立てさせられ、それを達成できなければ、言葉を裏切ったとして叱責を受けたり、罰を受けたりする。

学校に限らず、恋愛、結婚、仕事、人間関係のあらゆる場面において、人格の一貫性は、近代社会を根底から支える基盤となっている。

人格の一貫性がなければ、犯人を同定できず、罪を問うことができない。

悪魔は近代社会が個人に対して強いていることを先鋭化させただけであり、質的な違いはない。

人を個人として、人格の一貫性を前提として社会を組み立てることには、こうした致命的なエラーが発生しうる。

平野啓一郎は、小説の中でそれを見事に描いてみせた。

一人ひとりがより柔軟に、幸福な生活を送るためには、分人主義の導入が必要だと僕は思うが、そのことと、近代社会の接続、あるいは分人主義時代のアタラシイ社会秩序のあり方も、同時に考察されねばならない。

平野は、「私とは何か 個人から分人へ」という本の中で、それについても考えている。

一般向けの新書であり、ごくざっくりとしたものではあるが、紹介してくれている。

これのもうちょい難しいバージョンがほしいが、まだない。

平野の考察を元に、自分で考えるしかない。

これは大変なことだ。

マジヤバイって。
疲れるよ。

 
 

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