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映画「ウーマン・トーキング 私たちの選択」感想

アマゾンプライムで観た。
好きな映画だ。

★好きなポイント

1 映像
 映像がきれいだ。どこか(たぶんアメリカ)の自然豊かな地域で外の世界と隔絶された状態で、自給自足的に生活する宗教コミュニディが舞台の映画なので、風になびく草原や光、闇の描写とかがとても美しい。
 画面の色づかいのことはよくわからないけど、特定の色を強調したり抜いたりしてると思う。その演出がすごくいい味を出している。
 僕は基本的に「ブレードランナー」とか「スパイダー・バース」みたいなルックが好きなので、自然の美しさにそこまで心奪われないのだが、この映画に関してはそこに強く惹かれた。

2 議論モリモリ
 僕は議論シーンが好きなので、女性たちが集まって信仰や正しい行いについて延々議論するのを見るのがとても面白かった。
 コミュニティの方針で読字能力を奪われている女性たちだが、文字なしでここまで深く鋭い思考ができるようになるのかと驚いた。
 だって文字がないってことは記録に頼れないってことでしょ?
 ということは過去のできごとはすべて記憶に基づいて議論している。
 正直ここは少し疑問を差し挟みたくなる部分でもあった。個々人が正確な記憶を持っていることと、全員が起きたことについて同じ記憶を共有しているというのが、若干リアリティを欠いているように思えたからだ。 
 この議論に参加している女性たちが、コミュニティ内でも最も賢い人たちなのかもしれないが、普通だったら記憶力の差などがあって、起きたことについて「いや、あの時はこうだった」「そんなことはされてない」とか意見が食い違い、議論がぜんぜん前に進まないということが起こり得ると思うが、まぁそれは尺やテーマの都合もあるので、仕方ないのかもしれない。

★モヤモヤポイント

1 謎の配慮セリフ
 議論の最中、「問題は男じゃなく、男たちの頭に根付いた女性や世界への誤解なのかも」とかいったセリフが出てくる。
 出たよ。
 こういうセリフは、フェミニズムのあり方を真摯に考えるうえで、必要な留保として出てくるのかもしれないが、その可能性があるからと言って「すばらしいバランス感覚だ!」などと手放しで歓迎することもできない。

1フェミニズムとミサンドリーを二項対立的に切り分けられるとどこかで信じているフェミニズムの楽観性
2悪いのは男じゃないってちゃんとわかってるんです、という冷静アピ

 のようなものを感じる。

北原みのりが香山リカとの対談本で、「フェミニズムは万能のイズムではない」と書いていた。
まぁそうだろう。そんなイズムないだろう。
だったら別にフェミニズムの「欠点」として、男性嫌悪的な部分があってもかまわないと思うし、そういう欠点をフェミニズムの退けがたい一部分として、引き受けてもいいのではないかと思う。
youtubeとかアベマtvに出てくるフェミニストが、よく冒頭で「あなたは○○に賛成しますか、○○はどうですか、賛成するんだったらみなさんは全員フェミニストですね」とか言って、フェミニストの定義をぐわっと広げ、その場の全員を抱き込もうとすることがある。
でも実際に議論が始まって、フェミニストの過激な言動の事例などが紹介されると、「そういうのはフェミニストじゃないんですよ」とか言って切り捨てにかかったりする。
えっ、どっち?
と僕は思う。
フェミニストの定義とは、頭数が欲しいときは広義に、自分たちを守りたいときは狭義に、自由に伸び縮みするものなのだろうか。
伸縮自在の愛だね。
別にそれならそれでいいけどさ。
そういうのはフェミニストだけがやってるわけじゃないと思う。
ムスリムだってオタクだってサッカーファンだってやってるかもしれない。
ただ自覚をもってやってほしいとは思うけど。
自分たちは今、力を得るために思想を道具にしてるってことを、自覚しながらやってほしいとは思うけど。

もしかしたら1みたいな配慮セリフを入れないと、映画がアカデミー賞とか取れないのかなという気もした。
それだけ映画界は(映画界も)男性による支配が行き届いており、審査員である男性の機嫌(それプラス観客の男性の機嫌)を損ねないように、こういうセリフを入れているのかもしれない。
そうだとすれば、これは冷静アピとかじゃなくて冷静アピの形をとった現実世界の男性優位社会を告発する意味を持っているのかもしれない。

★もしかしたら

ラストシーンで、登場人物(女性)の一人が13歳くらいの息子の顔によくわからんスプレーみたいのをかけて気絶させ、半ば強引に自分たちのコミュニティ離脱に同行させる描写がある。
このシーンを観て、もしかしてこの映画ってフェミ映画じゃないんじゃ?という気がした。
女性たちは、離脱の際に誰を連れていくかということについても議論する。
その際に、女性でなくても、コミュニティの教育に染まっていない子どもは連れていくことにする。
何歳まで?
という話で、書記をやっているオーガスト(男。コミュニティで少年たちの教育をしている)に意見を求める。
オーガストは「13~14歳の少年はもうけっこう男になっちゃってるけど、辛抱強い教育があれば再洗脳可能だと思うよ」みたいな感じで答える(実際のセリフはこんなんじゃない)。
そんなわけで件の子どもはちょうど13歳くらいだったんだけど、「気絶させて連れていく」っていう行為が、「寝てる間にレイプする」と本質的に同じ行為じゃないですか?という投げかけになってると思うんだよね。

わざわざこんな描写を入れることには明らかに意図があると思うし、ただ単に男性による女性への暴力、差別を告発して、女性の自立をたくましく描く、みたいな映画だったら必要ないと思う。

議論の中でも、女性の一人が書記をつとめているオーガストに対して、「所詮、農民崩れの教師」とか「男なんだから男らしく話したら?」みたいな差別発言をするシーンが執拗に出てくる。

こういう描写は全部一本の線でつながってると思う。
すなわち、このコミュニティ内では被差別者として抑圧され、男から性暴力を振るわれている女性たちだが、いったんマジョリティとして場に君臨すれば、マイノリティ(一人だけ男として参加しているオーガスト)に対してすぐに差別的にふるまう。
また、自分より弱く、「愛してる」「守りたい」という欲望の対象である子どもたちについては、彼らの意思など無視して、暴力を用いて目的を果たす。
といった現実を、かなりアイロニカルに提示しているのではないか。
その意味で、この映画が告発したいのは女性差別ではなく差別そのもの、人間のうちに避けがたく存在している差別感情を描き出すことなんじゃないかという気がした。

★西洋映画感

あとは、信仰が規則より強く、より信仰に厳密に沿って行動するためなら、間違った(都合の悪い)規則には抵抗する、ということが体感として人々に備わっているという点において、すごく西洋的な映画だなと思った。
要するに政教分離(道徳的正義と法的正義の分離)が徹底されているということだ。
これがあるから、西洋の組織は内部から改善ができるのかな(少なくともそのための思想的なとっかかりがある)という気がした。
規則自体が信仰にまで高められていくことが多い日本に住んでいる自分としてはこういうところは少しうらやましいような気もした。違うか。
まぁでも議論の最中で、タバコを吸っている(喫煙しないといられないくらい傷ついているとアピールしている、と思われている)女性に対して、「暴行なんてみんなされてる!一人だけ特別つらいみたいな顔すんな」という謎マウントもあり、そういう同調圧力は東西を問わずあるのかなぁと思った。

★全能者のパラドックス

あと、「全能の神がいるならなぜ私たちを助けない」という問いかけは、ポピュラーなものだが好きなのでまた出てきてうれしかった。
遠藤周作の「沈黙」とその映画版でも出てきてたと思う。
こういう全能者のパラドックスみたいのってワクワクするよね。
要するに無量空処ってことでしょ?
完璧に理性的で、全知全能の神は、あらゆることを見通しているがゆえに、ここでこいつを助けたらこいつが死んでしまう、とかここで地震を止めたら2000年後にここで台風が起きてしまう、みたいなことがわかってしまって、結局なんの行動もとれないんだと思う。
丸山真男が何かの本で、「決断とは、無限の認識過程を、文字通り断ち切ることによってのみ可能となる」と書いていた。
決断を遅らせればそれだけより多くの情報に接して、より正しい判断ができる可能性が上がるかもしれないが、それにより決断すべきタイミングを失するかもしれない。
すべての決断は誤りだが、「決断しない」という決断が、「決断する」という決断より大きな誤りかもしれない。
もちろん何が「大きな」なのかはよくわからないが。
コミュニティを去る決断をした女性たちと、誘拐された子どもたちが、その外で女性たちによる支配の王国を作るのか、それとも外界にあるまた違った種類の男性優位社会に接して苦しむことになるのか、未来はわからない。

男たちによるレイプも、女たちの離脱も、愚かさを原動力にした決断が基盤になっている。
賢いが何もできない神
愚かだが行動できる人間
という対比は、映画全体を貫いており、この意味でも単にフェミ映画として以外の側面も持っており、そこがこの映画の深みであるように感じた。
これを1時間45分という尺にまとめてくれているのはすごいと思った。





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