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映画「リトル・ガール」感想

アマゾンプライムで観た。
ドキュメンタリーなのだそうだ。
たぶんフランスの話。
ボディはオスで、性自認は女性という人(サシャ、7歳)と、その家族の話。
サシャはけっこう明確な女性としての意識を持っていて、社会からも自分を女性として扱ってほしいと願っているが、学校や通っているバレエ教室でなかなか希望をかなえてもらえず、苦悩する。

何年の話なのかわからないけど、フランスってこんなもんなんだなぁというくらい学校やバレエ教室が頑迷である。
サシャや家族がずっと働きかけ、医師の意見書とかもあるのに、なかなかサシャを女子として扱うことに同意しない。
怒りというより、なんでそこまで頑ななの?と不思議になってくる。
こいつら炎上が怖くないんか、炎上してでも生物学的な性に従って児童を扱う、というなんか信念でもあるのか、と思うくらい態度を変えない。
宗教的な理由かな?
サシャの問題より学校の問題のほうが興味出てきてしまう。

サシャはすごい大人。
7歳の子ってこんなにいろんなこと考えてるんか?
俺7歳の時こんなに周りに気を遣ってたか?と思う。
それくらいいろいろ忖度してる。
つらいことがあっても医師に促されるまでなかなか自分の希望を言わない。
でも言うときはちゃんと言う。
大雑把な希望じゃなくて、繊細に伝える。
自分の希望のあり方について、繊細に把握している。
ように見える。

サシャはボディはオスだということだが、見た目が美しすぎてどっからどう見ても女性にしか見えない。
説明されなかったら普通に女子だと思うと思う。
これだけ美しいと悩んでる姿も画になるなと思った。だから映画になるのかもしれない。
サシャはこの先どういう風に成長するか、ホルモン治療の結果がどういう風に肉体に作用するかわからない。
でも美貌を維持することができれば、ある軸においては強者としてふるまうことができるだろうなと思った。
なんというか、同じような苦悩を抱えながらどうしてもキワモノ扱いの感が漂い、趣味が高じて配偶者と離婚することになったキャンディ・H・ミルキィさんのことを思った。
https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/documentary/entry/202305/13340.html

まぁキャンディさんでも映画は撮れると思うけど。

サシャが女性用の水着やバレエ衣装を着たいのに着られないことは「深刻な悩み」で、キャンディさんが大っぴらに女装できず、女装クラブに通い詰めて女装していることは「変な趣味」なのだ。
もちろんサシャとキャンディさんでは生きてきた時代が違う。
周りの目が変わったのだ。
正義の基準が変わったのだ。
キャンディさんが20~30代の頃だったら、「変な趣味やめなよ」「家族が悲しむと思わないのか!」とか言うことが正義だったのだろう。
サシャの生きている時代においては、自分が選択した性に基づいて生きられないように抑圧する社会に抗うことが正義になる。

僕はなんとなく、キャンディさんを非難した人たちも、サシャを抑圧する学校に怒る人も、同じ種類の人たちなんじゃないかなと思う。

正義のトレンドに敏感な人たちだ。
この辺のマイノリティをめぐる問題については、朝井リョウ「正欲」の感想で書いた。ような気がする。
https://note.com/nice_mango188/n/ndd08c2a5ffc9?from=notice

マイノリティの問題、差別の問題は本当に難しい。
差別は基本的に、正義の名の下に行われる。
差別の定義にもよるのだが、社会は差別そのものではないかという気持ちもある。その辺は以下の記事に書いた。
https://note.com/nice_mango188/n/n40955b797453

学校側の正義とサシャ側の正義がぶつかるからこの映画が生まれる。
ある種の機械的なフラットさをもって眺めれば、サシャの正義も学校の正義も等価値になる。
僕は、社会制度は基本的に個々人というリアルをできるだけ柔軟に包摂できるようにアップデートすべきと考えるから、実際には両者を等価値には扱わない。
制度の正義は個人の正義に合わせて変革せよ、と思う。
だからこの映画は、僕の中ではわりとどちら側に味方するかが簡単に決まってしまって、それほどの葛藤は生じなかった。

でもこれが、個人の正義同士の対立になったらどうなるかなぁという気はした。
「みんな違ってみんないい」という安直な相対主義は、行き詰まりが見えている。
「人を殺すことでしか生きる実感を得られない人」と、「人を救うことでしか生きる実感を得られない人」が、お互いに尊重しあえるとは思えない。
社会としてはどこかで価値の序列をつけ、「これが正義です」という普遍主義的な言い切りをせざるを得なくなる。

真っ白な世界から切り捨てられるものは、多くの人が共感できず、眉をひそめる要素を抱えている。
そういうものをどのように擁護しうるのかを考えるのが本当のマイノリティ問題だと思う。

LGBTについては、もちろん当事者からすれば社会的な受容(という上から目線がすでに当事者をイラっとさせるわけだが)が十分でないとはいえ、大っぴらに彼らを差別してはいけないという空気は少しずつ醸成されつつある。
だから誰にも見向きもされないマイノリティとは違う。
その意味でこの映画はマイノリティ問題の一番エグイところを扱っているとは言えない気もした。
それでもサシャにとっては固有の痛みだ。
サシャはこの先どうなるだろう。
自分のマイノリティ性が包摂されたとしたら、その後自分以外のマイノリティに対してどのように彼女が接するか、というのは気になる。
そこから第二幕が始まるという気がする。


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