岸田國士戯曲の紙風船の退屈さ

仲間内で集まり、週1回ワークショップだの持ち寄った戯曲を読んだりだのといった稽古をしています。
本番がなく、見知った仲間内だからこそできるストレスフリーな稽古場での発見というのは刺激的なものです。
久しぶりに、岸田國士の戯曲の紙風船をやりました。
ただなんとなく、台本を持って立ちながら読む俳優さんとの稽古の中で、ひとつ大きな発見がありましてメモとしてnoteに綴ります。
紙風船の夫婦が終始感じているエネルギーというものを言葉にすると「退屈さ」なのではないだろうか?
いや、今日の稽古で、役として退屈なふたりというものが見えたというのが正しいのかもしれませんが、実はこれがこの戯曲を支配しているエネルギーなのかもしれません。
なぜ今回こんな風にありありと退屈さを感じられたのか?
その答えはまだありませんが、兎にも角にも、紙風船では退屈というエネルギーを感じるからこそ退屈を紛らわせようというエネルギーに変換させている気がします。
退屈というエネルギーが起こすドラマ。
言葉でラベリングすると簡単ですが、なかなか感じられることない貴重で贅沢な時間を味わえたのは感慨深いものです。
はい、酔ってます。半年ぶりの飲酒です。支離滅裂です。ピンターの話まとまったら書きます。タイトルアレですが岸田國士すげーって話です。

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