連載小説 介護ごっこ(6)

「ばあちゃん、まだもどらないのよ」
 母のしおれた声が耳に触れた。
「もう少し待ってみたら?」と恵美は言った。
「ちょっと遅すぎるわ。何かあったのかも……」
 母は、起こりうる最悪の事態を推測して、自ら不安に陥っていくようなところがあった。
「ねえ、恵美ちゃん。今からその男の人のマンションに行ってみようと思うの」
 時計を見ると4時半を回っている。もう少しでバイトが終わる。
「バイト終わったら、あたしが行ってみようか?」と恵美は言った。一人でそんなことをする勇気はなかった。母は無理をしてでも出てくるだろうと思っていたのだ。
 バスターミナルで、恵美は母が来るのを待った。乗客がすべて降りたあとで、母が降車口に現れた。バスから降りる母を少し離れたところから見るのは辛かった。学生時代は陸上の中距離選手だったと知っていれば、なおさらだった。
「恵美ちゃん、ごめんね。じっとしてると落ち着かなくて」
「しょうがないよ」
 恵美は笑って母に腕を貸した。ゆっくりと足を進めると、母はひたむきに杖を道路に突き立てた。
 マンションのエントランスにたどり着き、集合ポストを見ると、3階の端の部屋は、318号だった。数字の下には〝田辺〟と書いてある。
 エレベーターで3階に上がる。玄関口のナンバープレートを見ながら、足音を忍ばせて歩くと、西日が照りつける廊下には、杖の音だけが消せずに残った。318の前で足を止める。
「ここで間違いないよ」
 笑みが母の顔を見ると、母はうなずいて、インターホンのボタンに指を伸ばした。
「はい」
 男性の声だった。
「あの……、松永といいます。お尋ねしたいことがございまして」と母が言った。
 ドアを開けたのは80歳ぐらいの男性だった。一週間前に遠目に見た中折れ帽の印象が重なった。
「恐れ入ります。私、松永康江の家の者なんですが……」
 男性がいぶかしげに母を眺めた。
「康江さんの?」
「ええ、嫁です。こっちは孫でして」
「ああ、そうでしたか。それは失礼しました。私は田辺です。康江さんにはお世話になってまして……」
「こちらこそお世話になります。あの……、母がお邪魔してませんでしょうか。まだ家にもどってなくて……」
「え」と言ったきり、田辺さんは黙った。そのとき、
「どなた?」と奥の方から女性の声が言った。
「康江さんのお嫁さんとお孫さんだよ」
 田辺さんは奥へ向いて答えた。
「まあ、入ってもらってちょうだい」
 断る母の前に、田辺さんはスリッパを並べた。
「妻もああ言ってますし……」
 田辺さんの奥さんは、車椅子に座っていた。ふわっとパーマのかかった白髪が、ほっそりした顔によく似合っている。藍色の長袖ブラウスに、膝かけをかけている。膝かけは車椅子用に工夫されており、ずり落ちを防止するために、背もたれの下方に共布のリボンで結わえてある。膝の横には、小物を入れるためのポケットもついていた。中でも恵美の興味を引いたのは、裾の模様だった。見事な単色の刺繍があしらわれていたのだ。リネンのように見えるやや厚手のベージュの生地に、デザイン化されたつる植物が、車椅子の奥さんの足元を飾っていた。
「康江さん、まだ家にもどられてないらしいよ」と田辺さんが言うと、奥さんの顔から笑みが消えた。
「どうしよう……。私が康江さんを誘ったもんだから」
 奥さんは声を曇らせた。奥さんは、大腿骨を折ってやめるまで、祖母と同じフラダンス教室に通っていたそうだ。夫のほうは、そこで南画を習っていて、教室が終わってから、祖母を連れて弁当を買い、奥さんが待つ家へ向かったようだ。三人で昼食を食べてから、祖母がフラダンスを披露したり、盆踊りを踊ったり、奥さんも歌ったり手拍子したりと、大はしゃぎだったらしい。
「康江さんが来てくれると、ぱっと花が咲いたみたいに明るくなりましてね」田辺さんは静かに笑った。「妻は私と二人じゃ元気が出ないみたいで。康江さんには本当に感謝してるんです」
「そうだったんですか……」
 母はこの件の大部分が解決したと感じたようだった。くつろいだ表情になり、出された冷たいお茶を飲む余裕も見せていた。
「安江さん、メモを見つけて、お嫁さんと待ち合わせしてるから急がないとって。あ、そうだ、康江さん、手提げを忘れていかれて」
 田辺さんは祖母の手さげ袋を持ってきた。中から白いレイがのぞいている。
「実は康江さんに断られたんだけど、どこかほかへ行ってしまわれないかと心配になって、離れてついて行ったんですよ。そしたらちょうどバス停で、浴衣姿の婦人とお話されてて。一緒にバスに乗られたんですよ。四時半ぐらいだったかな。あの浴衣の方がお嫁さんだと思ったんだけど、違ってたんだ……」

 田辺さんの家で少し足を休めたが、母はかえって疲れをため込んでしまったようだった。足を進めるときの左右の肩の揺れが大きくなっていた。
「えらい誤解やったね」
 母の声がわずかにかすれた。恵美は祖母と田辺さんを見かけた日、二人の関係について、母に疑惑を持たせるような話し方をしてしまったことを悔やんだ。
 エントランスを出る前に、母は祖母の手さげの中からメモを取り出した。一枚目には〝とよちゃんにでんわ イセエビ〟、二枚目には〝あわび でんわする〟と祖母の字で書かれていた。三枚目の〝エレベーター前で待つ 容子〟は、母の筆跡だった。
「浴衣の女の人って、だれやろうね」
 母はメモを手さげにしまって言った。恵美は祖母のバッグに入っていた和服店〝こてまり〟のパンフレットのことを思い出した。確か夏祭りのレンタル浴衣と着付けの割引券がホチキスでとめてあった。
「もしかしたら〝こてまり〟の人かも……」と恵美は言った。
 バスターミナルへ向かう途中で、母は二度ハンカチを出して額の汗をぬぐった。ただそれだけのために、立ち止まらねばならなかった。立ち止まり、ハンカチを取り出し、それを額へと運び、汗をぬぐってから、ハンカチをしまい、杖を握り直す。一つの目的に達するのに、人はこんなに多くのことをしなければならない。当たり前のことに、恵美は母を見て、はっとなった。同時に恵美の頭の中に一つの考えがひらめいた。帽子のへりの内側に、吸湿性のいい、例えばガーゼやタオルのような素材を当てておけば、汗が流れ落ちるのを防げるんじゃないだろうか。マジックテープをつけて取り換えられるようにしておけば、洗ってまた使える。わざと少しのぞかせたり、つばの形を工夫したりして、デザインに組みこんでもいい。色や柄の組み合わせも無限にある。田辺さんの奥さんの膝かけだって、車椅子用に工夫されていた。裾の刺繍も、車いすの足元だからこそ、美しさが際立つんじゃないだろうか。そんなアイデアが恵美の頭の中に次々に浮かんだ。恵美は自分の道の先に、かすかな灯が見えたような気がした。

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