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太陽の塔

アポロ11号が月に降り立ち宇宙飛行士が歩く様子を、私たち家族は小さな白黒テレビの前にかじりついて観た。

その翌年、大阪万国博覧会は開催された。

夏休み。小学校低学年の私は地区の子供会で大阪万博に行くことになった。アメリカ館で月の石が見れると想像しただけでワクワクしていた。

麦わら帽子にピンクのリボンをつけて夜行バスに乗り高松港まで行き、そこから船に乗り換え、海を越えて大阪へと渡った。翌朝大阪の港に着き、またバスに乗り換え、そのまま万博会場へ向かい、万博会場の前で門が開くのを待った。

「人が多いので、家族は手を離さないように」と、注意を受けた。
開門と同時に一斉に人々が走り出した。私たちも走った。いったいどこへ向かって走っているのか分からない。
「みんなが走って行く先にアメリカ館はあるんだよ」と母親が言った。
「ここは凄い行列だからここがアメリカ館だ」と、行列に並んだ。3時間ほど並んで建物の中に入った。並んでいたのはソ連館だった。

生まれて初めてエスカレーターを見た。
足を置くタイミングが難しくて怖かった。足が吸い込まれるようで「乗るのは嫌だ」とエスカレーターの前で泣いた。母親と手をつないで「せえの」と言ってエスカレーターに足を載せた。ソ連館で急勾配の長いエスカレーターを幾つも乗った。
宇宙服を見たような気がするが、あまり覚えていない。
ソ連館を出て、少し歩くと、また長い行列があった。
「ここがアメリカ館だ」と言って私たちは並んだ。

ガイジンというだけの一般人にサインを求めている人を何人も見た。
途中でここはみどり館だという事に気がつき、2時間くらい並んで中に入った。
映像が回りだした。上を見たり前後左右を見たりした。どこを見れば良いのかわからない。映像の中で人々が泣いていて怖かった。森の木々と鳥のさえずりがあり、「もう怖くないよ」と兄が言った。

私たちはお祭り広場に行き、パンの中にソーセージが挟まっていてケチャップがかかっているホットドッグというものを初めて食べた。
不味かったのを覚えている。
ソーセージはソースをかけてご飯と一緒に食べるもので、パンと食べるものではないし、ケチャップは間違っていると思った。

お祭り広場から太陽の塔が見えた。遠く高く青い空と共に小さな金色の顔があった。

アルバムに収められた大阪万博のモノクロ写真に父親はいない。父親はモーレツに働いていた。

やがて、私は大人になり、新たな家族を持ち、瀬戸大橋を渡って大阪に遊びに行った。
モノレールを降りるとすぐに太陽の塔が見えた。
クレヨンしんちゃんの映画で得た知識があったせいか、当時の私くらいの歳の娘が走って行った。
「太陽の塔の後ろに顔があるんや。兄ちゃん知らんかったやろ。うしろに顔があるんや」と、目を丸くして叫んだ。兄はアニメでしか知らなかった太陽の塔をじっと見上げていた。
夫は子供に向けてカメラのシャッターを切った。

難波から堀江に行こうとして、ビッグカメラの前から地下街に入り15分くらい歩いて外に出ると、何故かまたビッグカメラの前に出てきた。もう一度地下に入り10分くらい歩いて上に上がるとまたビッグカメラの前に出た。
「堀江に行きたいんです。どう行ったらいいんですか」
道を歩いている女子大生風の二人組に道を聞いた。
「私たちも堀江に行くんです。一緒に行きましょう」と言ってくれたあと、「どこから来たんですか」と尋ねられた。「香川県です」と応えると、「出たぁ、香川県」と言って笑い、「私たちの友達に香川出身の子がいるんですよ」と話しかけてくれたうえ堀江まで連れて行ってくれた。
またある日、「13(じゅうさん)で待ち合わせをしているんです。どう行けばいいんですか」と新大阪駅の前で、誰かと再会していた人に家族から来たメールを見せて尋ねた。
「あぁ、じゅうそう。大阪駅のほうがいいと思うけど」
「今から私鉄の駅に行ってくるからちょっと待っとって」
と連れの人に言って、
「うちも娘が帰ってきて、今迎えにいっとたんや」
と私に話かけ、私は彼女の後ろについて行った。

天王寺駅で、カードで切符を買うのに戸惑い、駅員さんに尋ねると、説明の最後に「旦那さんは分かってますよね。旦那さんは天才です。パスワードの番号も知っているし、奥さんはさっぱりわかってませんから」と言われても、駅員さんの表情や言い方からなぜか嫌な気は全くしなくて、可笑しくなって駅員さん共々みんなで笑った。

空気を入れながら見事な手さばきで混ぜ、絶妙なタイミングでひっくり返す職人技を見たあと、日本一美味しいお好み焼きを食べた。
うどん屋で「ハックショーン、ちくしょー」というおじさんを見た。
そんな大阪の人々との出会いや光景は、大都会でありながら、人間性豊かな大阪という雰囲気を与えていた。

平成31年4月30日。偶然にもその日、私は大阪にいた。居酒屋の前で何人もが「良いお年を」と言って言葉を交わしていた。

翌年、外国人観光客であふれていた街から人が消えた。

リモートワークをし、スマホで電話や支払いをし、地図アプリで行きたい場所へ行く生活を、今から50年前に誰が想像しただろう。
50年という年月が流れるなか、私は大きな選択を誤り、数多くの失敗をした。もうどうにもならない、と思ってもどうにか生きてきた。様々な人との出会いと別れを繰り返し、幾人かの大切な人を失った。

木々のシンフォニー、焼けつくような夏の暑さ、雪、天災、季節は幾度も移りゆき、人々の悲しみ、喜び、不安、怒り、笑い、みどり館と同じような全天全周映像を眺めながら太陽の塔は「大阪のおっちゃん」となり、威容を誇って立っている姿は、いつの時代も私の憧れだった。

2025年、再び大阪万博が開催される。
夢や希望に胸を膨らませながら未来の姿を想像し、ワクワクしながらゲートをくぐるのだ。
走っていく先にはいったい何があるのだろう。

いつの間にか還暦を過ぎてしまった私は、暗闇に浮かぶ雲の隙間から皎皎と輝く月を眺めた。

#創作大賞2024 #エッセイ部門


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