君たちは「なぜ」生きるか

吉野源三郎先生の著名な本とは何も関係はないが、最近、ふとした瞬間に、「なんで自分は生きているのだろう。」と考えてしまう。別に死にたいわけではないし、できるならば人より長生きしたい。でも、なんで長生きしたいのか、そもそもなんで生きているのか、その理由が分からない。

学生時代には考えもしなかった。きっと当時は何も考えずに生きていたのだろうが、その時代が羨ましく感じる。

数年前、仕事もプライベートも、何もかもうまく行かず、仕事を休んでいた時期があった。

仕事では、未処理の課題が溜まりに溜まり、上司への報告が遅れ、遅れた分だけ、「もっとクオリティの高い成果物を提出しなければ…」、「今提出したらきっと怒られる…」という謎のプレッシャーが積み重なり、しまいには自分の許容量を超えてしまった。

そんな状態だったので、ネガティブな発言が増えてしまい、長年付き合っていた彼女にも愛想をつかされてしまった。とある日、近所のセブンイレブンに呼び出されて、「あなたには付いていけない」的な事を言われて、振られてしまった。学生時代は、「将来はこんな家に住んで~」とか「犬と猫を飼って~」とか、二人で甘い空想を語り合っていたのに、最後は、コンビニの前で終わってしまった。人生は虚しいと思った。

仕事が忙しいとか、恋人に振られるとか、誰しもが経験する、至ってふつうの事だ。世の中には、本当に過酷な不幸に遭いつつも、それらを乗り越えて、前向きに生きている人たちがたくさんいる。そのような人たちと比べれば、自分の置かれている境遇なんて大したことないはずなのに、自分は圧倒的に耐久力がなかったのだろう、精神的に機能不全となり、しばらく仕事を休むことになった。

休職中は、ひたすら寝たり、YouTubeを見たりしていた。ありがたいことに傷病手当金を貰っていたので、食うに困ることはなかった。素晴らしい国に生まれて良かったと心底思ったし、今でもそう思っている。

ダラダラ過ごしていたおかげで、体調はほぼ完全に回復した。元気になってくると、あれほど嫌だった仕事に復帰したいという気持ちが芽生えてきた。

そんなこんなで、いろいろと省くが、現在は、休職前と同じ仕事を続けている。相変わらずストレスはたまるものの、別に辞めたいとも思わない、平凡な日々を過ごしている。

そのような日々の、ふとした瞬間に、冒頭に話した「なんで生きているのだろう」と考えこむようになった。仕事をこなして、その業務執行の対価として給与をもらい、細々と生きているわけだが、仮に今、体調を崩して休職したとしても、しばらくの間は傷病手当金をもらいながら生きていける。だったら、今仕事をする意味ってなんだろう、そもそも、なんで生きているんだろう、そんな意味のない事を考えこむようになった。

映画を観たり、レジャーランドで遊んでいる間、とても楽しい気分になるのだが、ふとした瞬間に、上記の疑問が頭をよぎる。「今、映画を観ていてとても楽しいけれど、一体それがどうしたというのか?」と余計なツッコミを入れてしまう。気持ち悪い奴だと思う。

幸せに生きることをテーマとした書籍はたくさん出版されているし、その手の本は休職中に手当たり次第に読んだが、「なぜ幸せに生きるのか」、「そもそもなぜ生きるのか」という疑問を、ドストライクで解消してくれる本にはなかなか出会えない。そんなこと考えても意味ないから、誰も書かないのかもしれないし、あるいは、誰かが書いているかもしれないが、私の探索能力の問題で見つけられないのだろう。だったら、自分で答えを探すしかないが、納得のできる答えは見つかっていない。

一つの仮説として『そもそも「生きる意味」なんてものはない』、という考えがあるかもしれない。そう考えると、「じゃあ、もう余計なことは考えずに、すこしでも不安や痛みのない人生を謳歌できれば良いじゃないか」と、すこし楽観的な気持ちになることができる。でもしばらくすると、「本当に生きる意味はないのか?」、「不安や痛みがない人生が目標であれば、今消えてしまえば、これから味わうはずの不安や痛みを味あわずに済むじゃないか」と、余計なことを考えてしまう。

納得できる答えを見つけるために、もうしばらく考えてみたいし、いろいろな人の生きる意味を聞いてみたい。それで、納得のできる答えを見つけたら「君たちはなぜ生きるか」、という、誰も興味を抱かないであろう本を出版してみたい(さし当たりは、その本を出版することを自分の生きる意味として設定しておくことにしようか...)。



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