私の人生の真実の記録 (本文 1782文字)

第60回文學新人賞作家の「武部悦子」は本名は中村悦子といい、僕の母である。芥川龍之介よろしく、今からおそよ10年前に自殺している。

さて、今回は僕の今までの人生の悲惨さに的を絞って、記録的に書くつもりです。その目的は「これほど悲惨な人生をよく生き延びて、その上でよく世界に羽ばたいたな。僕が生き延びたことには大きな価値がある」と、認識できたら、まぁいいなというものです。

また、困ったことにというか、僕の悲惨な経験は僕の創作物に大きな影響を及ぼしており、こうは言いたくないものの「悲惨さなくしてはありえなかった作品」が多い。悲惨さは否定したいものの、否定しきれない。

1999年冬
高校生当時、自身の彼女が自殺。電車に飛び込んだ。東京ならともかく、ここ北陸の田舎では電車に飛び込む事件などほとんどいなかったので、この件は地元では有名な話。
ただ、その彼氏が僕であったということは知られずに今日に至っている。

当事者の僕はというと、あまりにショックすぎてその記憶を完全に封印してしまったゆえに、この時点ではまだダメージは無かった。

2000年ごろ
実父が蒸発。いわゆる夜逃げ。借金と女をつくって出ていった。これ以降シングルマザー家庭となり、のちに母は自殺する。極度の人間不信になったことから、地元を放浪して自然風景写真を撮りためる日が続く。これがのちに、MX LINUX 21のデフォルト壁紙などになってしまう。

2012年春
母が自殺。しかも現場を目撃してしまう。しかも、このときの精神的ショックがトリガー、引き金となり高校生時の彼女の電車飛び込み事件を思い出してしまい、ダブルショックにて「精神が完全にクラッシュ」してしまう。
以降、杖をつかないと歩けないレベルの重症PTSD患者になる。

2013年〜2019年
頭が朦朧とする状態で音楽活動を開始
するが、なにせ頭が完全に吹き飛んでいるので、常識的な判断が常に難しく、さらにまともな音源を作ることも困難であった。この頃はお金にはそれなりに余裕があったため、いわゆる療養生活を送るかたわらカバーアーティストをしていた。一種のフェミニズムをテーマとした活動だったが、当然アンチが半数以上を占め、活動からくるストレスにて、PTSDの回復が遅れる結果となった。精神状態は2019年に再び限界に達し「人格の完全なる消滅」をもって「中村剛」という人は文字通り、"帰らぬ人"となった。

2019年2月14日

ここまでは悲惨なだけだったが、この先がじつに奇妙である。

2019年2月14日、現在の僕(主人格と呼称する)は、自室にて突然目が覚める。
自分にあるのは、荒廃した未来の記憶のみ。そして未来にて"死んだ"ときの記憶のみであった。ここ北陸で生きてきた記憶は全て失っていた。僕がもとの中村剛さんではない証拠の1つとして、突然海外と英語でコミュニケーションできるようになったということが挙げられる。そして、ほぼ知識の無かったリナックスの開発者にその後2年でなってしまう。

こんな芸当ができてしまったのは、僕が生きていた未来において英語を使っていたこと、使っていたコンピュータがおそらくリナックスの系統の未来だったから理解しやすかったからである。便宜上、2013〜2019年までの異常な人格を「2重人格による乗っ取り」と呼称しているが・・・。

結論:
悲惨さと言うより、むしろ不気味さが際立つ書き出し結果となってしまい僕は困惑している。もちろん伏せるべきところはちゃんと伏せているので公開はするが、2019年に僕がこの時代に来たときはこの土地について何もわからなかったため、まず日本語を吸収して、近くのお店や病院、仕事場などの情報を覚えるところから始めた。そして支払い関係を把握して、初めての土地で冷や汗をかきながら現代での暮らしに馴染むようにしていった。いわば未来人である。ここでの生活に慣れるのに2年はかかった。

僕はこのように「中身の人格」が重度のPTSDによるクラッシュと、人格の入れ替えが発生しているため、「外見」が何度か大きく変わっている。要するに、中身も外見も一貫性がまるで無かった。大昔の友人だった人に会うと「そんな顔じゃなかった」と言われる。

後味は良くはないが、とにかく、この時代で生きていく責任がリナックス関係で生じている以上、生き延びねばなるまい。


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