私はこれからどうすればいいの

こんにちは。
今回は先日お話を聞かせてもらった、いつまでも大人になりきれない女子。ワタクシが選びます代表的な子供おばさんに、思いつくまま話をしてもらいました

お母さんが亡くなった。
亡くなってしまった。
2年ほど前から慢性の腎臓病が悪化して、透析の治療を始めたお母さん。
私と同じように医者嫌いで食べると胸が、苦しくなるといいつつ、限界までのらりくらりと耐えていたようだけど、いよいよ長年付き合いのある隣の不動産屋のおばちゃんが見かねて、一緒に付き添いで近所の病院に向かったらしい。そこで、透析治療決定。
3、4日、入院。
透析って私、それまで知らなくて。
漢字すら読めなくて初めて知ったの。
そんな治療方法。
腎臓病が怖い病気だってこと。
透析始めると、わずかでも動いてた腎臓が働かなくなる印象を、私は勝手に持ったんだ。だってお手洗いに何回かは行ってた彼女が透析治療を始めてからトイレに行くのを見ることがなくなったから。
週3回の透析の治療を本当に嫌がっていて、よく死にたい・・って仏壇のお祖母ちゃんの遺影に向かって言ってたっけ


私はお母さんが四十超えてから初めて産まれた、一人娘。
名前は、めぐみ。
小さい頃から、やることなすことトロくて、もじもじしてて自分の意見がないような、そんな子で
三者面談とかでも
私より先にお母さんがしゃしゃり出て、先に喋ってる、
そんな感じ、だったの
自分の意見がないものだから
着るものも持ち物も習い事も、全て自主的じゃなくお母さんの采配任せだったなぁー。と懐かしそうに話すめぐみさん。
あ!お小遣いもね、ずっと毎月いくら、でなく必要になった時にその都度もらってたんだ、高校生(正確には中学3年生)からバイトしてたときから、成人してからも、いつもその都度、もらってた、1回でもらえる限度があって、千円とか。参加費がそれ以上の金額のときは何回か理由つけてもらって見つからないとこに折りたたんで入れて貯めてたなぁ、(余った分は回収されるか、全部で千円になるようにしかもらってなかったんだ)
と話すめぐみさんは、とても無邪気に見えました。
小さい頃は、お母さんが決めた習い事にほぼ毎日行ってたかな、
水泳教室でしょ
書道、英数教室。まだあるのかな。めばえ教室。ピアノ教室。珠算教室。お母さんと顔なじみのおばさんが開いてた和裁教室。。まぁどれもすごく出来るようになったわけじゃないんだけど。
ウフフ、と卑屈ぽく笑うめぐみさんが印象的でした
あと、私小さい頃から、ずっといじめられっ子体質で、小学校6年の時も小学校1年〜3年の子たちから石をよく投げつけられてたの、信じられないでしょ、1度私の後ろの電話ボックスに石が当たって割れたことがあって、
担任の先生がホームルームでその話題を取り上げた時ボロボロ泣いてたの、覚えてるなぁー
と人ごとのように彼女はケラケラ笑いながら話してくれました。

と、急に無表情になり、語り始めた顔が、無表情すぎてワタクシは聞いていて怖かった
私ね、ずっと自分と向き合ってこなかったの
着るものも食べたい者も行きたいところも、欲求というものが芽生えなくて
朝着るものはお母さんが何から何まで用意してくれてたし
ご飯も望まなくても出てきたし
小さい頃は毎日のように何かしらの習い事に行っていたのも自分で行きたいってせがんだところはないの。
この日はこの習い事に行くんだって何の疑問も持たず通ってたの
売り言葉に買い言葉で中学3年からスーパーの品出しのバイト始めたけれど
お給料振り込まれるカードは、全部お母さんに持っててもらって満足してたの。ただただ1ヶ月でこれだけ稼げるんだって計算するのが嬉しくて夏休みの間はずっとバイトしに行っちゃってたな 
高校からも送り迎えしなきゃいけない中学からの縁を切りたいためにバイトを始めたのがきっかけだけど、
毎日バイトがないと嫌でうまい具合に掛け持ちして1週間4つくらいバイト行ってたなあー
部活なんか珠算部だったけど送り迎えしてた頃からほぼ幽霊部員だったし
とにかくバイトバイトで学校とバイトのみで終わってしまって  全然立ち止まって、自分を見つめてこなかったの卒業してからもそう、
ただただ働き詰めでこれからのこと、何も考えてこなくて今に至るの、
お母さんが嬉しそうだったから
ただただ働いてきたの

亡くなって、しばらく生活に不自由しない保険金も入るようで、
これからあたしは何をすればいいかわからないの、
卒業してから勤めに出た会社も、ずっと馴染めていなくて、働きに行くのツライし

と、うなだれるめぐみさん

私は、何を言って差し上げればよかったのでしょう

いまでもうまい回答がみつかりません


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?