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組曲Ⅳ~冬の日のおとぎ話10

 還暦にほとんど手が届きかけたある秋の事だった。秋は突然に訪れた。その年の夏は狂ったように暑かった。お湯が沸騰するように大気が沸騰し、目の前の風景はいつもぐらぐらと揺れていた。木も、草も、いや、石も、土も、コンクリートも、ありとあらゆるものが煮立った薬缶のように蒸気を噴き上げていた。そんな夏がいきなり逃げるように過ぎ去り、すとんと秋が落っこちて来たんだ。いきなり空気が冷え込み、季節が分からなくなった生き物たちがそこいらを右往左往、大騒ぎしていた。渡り鳥たちは大慌てではるか遠くに飛び去り、満開の花々は散り時を迎えた寒椿のように、ぼとぼとと音を立てて落下した。

 その秋、私は急に咳き込むようになった。風邪?いやいや、特に熱が出るなんて事も、喉が痛むなんて事もなかったし、鼻水がずるずるなんて無様な姿を晒す事もなかった。それでも咳き込みは日々ひどくなってゆく。そうしてある時から、蜂の大群が襲ってくるかのように、咳の大群が突然押し寄せてくるようになったんだ。咳どもから身を隠すように布団にもぐり込むと、猫のように背中をまるめて咳の襲来に耐えた。ちょいと油断して背筋を伸ばすと、たちまち「げほげほ、ごほごほ、げほごほげほごほ」ってな訳さ。ともかくこの咳ってやつを何とかしようと思った私は薬に頼る事にした。街の薬店に駆け込むと、おお、よりどりみどりじゃあないか、私は片っ端から目についた咳止めの薬をプラスティックの買い物籠に放り込んだ。錠剤をはじめ、液状、顆粒状、飴玉みたいにしゃぶるやつ、ふりかけみたいにご飯にかけるやつ・・・ともかく咳止めと名のつく物は何だって試してみたが、もちろんそれは気休め以上のものじゃなかった。

 私が咳の襲来に気を取られている間、こっそりと体に押し入ってくるやつがいた。そいつ?そいつは息切れってやつさ。ふと気がつくと、あれ、すっかり息が切れているじゃないか。ああ、何かにつけ息切れするんだ。仕事をしていると息切れ、飯を食っても息切れ、歯を磨くと息切れ、トイレでいきむと息切れ、寝る前に息切れ、寝ている間も息切れ、目が覚めても息切れ、買い物に出かけても息切れ、途中で犬に吠えられても息切れ・・・ともかくその時の私は息切れと「込み」で生きていた。一体これほどまでにしつこい息切れの原因は何なんだろうか?私は少ない知恵を振り絞って考えてみた。咳き込みと関係があるのだろうか?あるいは鼻づまりのせい?老化のせい?子供の頃患った蓄膿症のせい?ご先祖様の祟りのせい?おいおい、気管支に何か変な物でも詰まってるんじゃないのかね?

 

 そしてある朝の事だ。目を覚ますといきなり破裂するように咳き込んだ。その強さ、激しさ、これまで私が咳だと思い込んでいたやつ百個分はあっただろう。くそ、そのおぞましい咳が止まらない。いや、咳の猛攻撃もさる事ながら、体の中にまったく息が入ってこないんだ。くそ、とうとう咳き込みと、息切れがしっかりと手を結んだのか。咳と息切れ、最強の連合軍がついに我が貧弱な領土に押し入って来たって訳だ。

 ダンゴ虫のようにしっかりと体を丸め、嵐のような敵の空襲をやり過ごす。祖国が焦土と化しつつある中、かろうじて焼け残った物陰に身を隠す無力な非武装民のように。少しでも体を伸ばすと、体の中に閉じ込められていた咳どもが、たとえわずかな間でも体の中に封じ込められていたという屈辱に対し、「十倍返しだ」とでも言わんばかりに口から飛び出してくる。我先にと争うように。まるで正月にどこかの神社で催される福男とやらを決める儀式みたい、開かれた山門みたいな私の口から一斉に飛び出してくるんだ。その理不尽としか言いようのない苦しみに小一時間ほども耐える。そうしてようやくそいつは過ぎ去った。ひとまず攻撃は小休止だ。ああ、今度こそ本当にくたばるんじゃあないかと思った。両の目尻に一杯の涙を溜めたまま、攻撃から逃げおおせた解放感を生の喜びのように感じ、そいつをじっと噛み締める。

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