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組曲Ⅳ~冬の日のおとぎ話6

 まだ随分と若い頃、常に女がいる方角ばかりを指し示す磁石の針のように尖った自分の性器に導かれるまま浮気にのめり込んだ、そんなだらしない下半身を持つ駄目亭主を到底許すことができず、朝晩顔を合わせるたびその亭主、つまりこの私を罵倒し続けた妻が、二人の子供たちが独立するのを待って家を出た頃、一人になった私はすべてを忘れるために歯科医の仕事に没頭した。

 二十四時間、うん、四六時中ってやつさ、虫歯を治療しまくったんだ。まるで遮眼帯を着けられた競走馬みたい、脇目もふらず、ぱっぱかぱかぱか蹄の音も高らかに。ああ、でもゴールなんてどこにもなかったが、その終わりのない治療のお陰で私はめきめきと腕を上げ、その評判はたちまち広まった。昔風に言うならば三国中に知れ渡ったってなところさ。刈っても刈っても生えてくる夏草のように、患者は終わりなく湧いてきた。ああ、浜の真砂は尽きるとも、世に虫歯の種は尽きまじってなもんだ。待合室に入りきれない患者の列が病院のまわりをぐるりと取り囲み、さらにその列は商店街を抜け隣の街にまで達した。私はその列を管理するために新たに三人の衛生士を雇わなければならなかった。三人の衛生士は夏の暑さにも、冬の寒さにも耐えながら、太い矢印と「歯科医院はこちら」と書かれたプラカードを持って、歯の痛みに耐えきれずいつの間にか列を乱してしまいそうになる患者たちに、時にはその場しのぎの鎮痛剤を配りながらも、声を涸らして注意の言葉を掛け続けた。一方、病院の中で働く衛生士たちは、食事を取る時間も満足に貰えず、しくしくと泣きながら患者の歯石を削り続けていた。

 一日二十時間以上も人の口の中以外のものを目にする事がないなどという日もざらだった。虫歯に食い荒らされたすべての歯が真っ黒に変色し、江戸時代のお歯黒を思わせるような患者もいた。生えているすべての歯が親知らずで、その親知らずたちがそれぞれ勝手な方向に伸び、物を一口噛む毎に自らの口腔壁をずたずたに切り裂いてしまう患者もいた。また別の患者は、硬口蓋にも、軟口蓋にも、ともにびっしりと隙間なく歯が生え揃い、さらに舌一面も苔の代わりに歯で覆われていたが、そのすべての歯が一斉に虫歯になってしまい、痛くて耐える事ができないと診療台の上で泣き叫んだ。

 私は毎晩、治療が終わると深い憂鬱に襲われるようになった。最初の頃は一日の診療を終え、くたびれ果てた心と体を持て余している、いわば無防備な時にだけ現れていたその憂鬱は、やがて時を選ばなくなり、まるで突然込み上げてくる吐き気のように、治療中にすらそいつが胃袋の奥から込み上げてくるようにまでなってしまったんだ。患者の歯を削りながらも、襲ってくる憂鬱から涙をぽろぽろと零し、大きく開いた口で私のしょっぱい涙を受け止める羽目になった可哀想な患者から「先生、泣きたいのはこっちだよ」などと叱責される事もあった。

ある日、治療の真っ最中に体が大きくぐらりと揺れ、体の重心を突然失った私はどうしてもまっすぐに立っている事ができなくなった。ついに憂鬱、そいつは夏空を突然覆い尽す黒雲のような形をしていたんだが、その憂鬱ってやつに押し潰されそうになった私は、診察台の上で間抜けに口を開け放したままの患者を放り出し、待合室に駆け込むと驚いてこちらを茫然と眺めている患者たちを尻目に、桃色の公衆電話の棚に置いてある電話帳を引っぱり出した。病院、病院・・・急いで頁を捲る。あった、病院!さらに頁を引き千切らんばかりの勢いで、時には実際に頁を引き千切りながら精神科を探した。アレルギー科、胃腸消化内科、胃腸消化外科、眼科、形成外科、外科、肛門内科、肛門外科、呼吸器科、産婦人科、耳鼻咽喉科、循環器内科、循環器外科、小児科、神経内科、心療内科、性感染症内科、性感染症外科、整形外科、・・・ああ、アイウエオ順に並んだ項目にそって頁を捲ってゆくが、そのサ行の終わりから二番目のセ、精神科への道のりの遠さに何度も絶望しそうになる。ともあれその日は強引に休みを取り、歩いて五分ほどの場所にある精神科に駆け込んだんだ。

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