見出し画像

雑記8 久々に会った友人は旅芸人のようになっていた

 ふたりの演奏を聴いたが、あきらかに緒方の方が振り回されていた。ふたりの間の一瞬のタイミングのずれが、その事をはっきりと教えてくれていた。ピアニストの問い掛けに対し、緒方の反応がほんの僅かだが常に遅いんだ。ピアニストの自由な振る舞いに、何とかうまく応えようと、無理矢理響きを捻りだしているという感じだった。ピアニストは緒方よりも一回りほども若く、若者の溌溂さに老いが振り回されていた。まるで酔っ払った悪代官が、お座敷で若い芸者たちをよたよたと追い回しているような風情を感じた。セッションというのは一旦受け身にまわれば、相手に迎合し続けるしかないんだ。海に向かって大気を切り裂くように演奏していた緒方の姿はもうどこにもなかった。私は悲しくて堪らなくなった。天人五衰という言葉が浮かんでは消えた。天人が最後を迎える時、五つの衰えが身体に現れるという。衣類か汚れる、頭に飾っている花が萎れる、身体から悪臭が漂う・・・。

 演奏が終わり三人で飲んだのだが、私はその日のセッションについて、緒方に何も言う事ができなかった。感想を訊かれたが曖昧に言葉を濁した。ピアニストは、うん、綺麗なお嬢さんさ。ゲストとして呼ばれたどこかの大学の学園祭で、緒方はそのお嬢さんと知り合ったらしい。その大学のジャズサークルでピアノを弾いていたお嬢さん。打ち上げのジャムセッションで相性の良さを感じた二人は、そのまま駆け落ちみたいに旅立ったそうだ。ふうん、私は改めてそのピアニストの顔を見た。大人しそうな顔をしているのに、なかなかやるじゃないか。うん、このジャズの世界には真面目そうな顔をして、実はぶっ飛んでいるやつがちらほらと存在するんだ。

 そういえばそのピアニスト、今はどうしているのだろうか。かなりの腕を持っていたので、もしかすると今もどこかで活躍しているのかもしれないが、残念ながらその名前をすっかり忘れてしまった、確か緒方は彼女の事を「まき」と呼んでいたような記憶があるが、その「まき」にどういう漢字を当てるのかもわからない。

 いずれにしろ「まき」との生活は緒方にとっては失敗だと思う。緒方に一人の女を抱え込むなんて到底できるはずがなかった。女を街から連れ出す?盲目的に惚れてしまったのか?自身を追い詰めようとしたのか?ただただやけくそになったのか?ただ、いつも口癖のように「死にたい、死にたい」と繰り返していた緒方、ある意味本人が望む方に「まき」は緒方の背中を押してやったのかもしれないが。

 テーブルに突っ伏した緒方が寝息を立て始めてから、「まき」が緒方とのなれそめを話してくれた。学園祭に緒方を呼んでくれた学生、実はその学生は元々「まき」の恋人だったらしい。「まき」は出会って数日の緒方と一緒になるために、その学生を捨てたのだった。要するに緒方は自分を慕ってくれた学生から、その恋人を奪い去ったってな訳さ。ああ、どうしてそんな事をするのかねえ。私は思わず緒方を殴りつけたくなった。この男、実は筋金入りの小心者なんだ。他人を傷つける事で、自身が何倍も傷つく、そうやってどんどん自分自身を追い詰めてゆくんだ。

 別れ際に連絡先を交換する事はなかった。そもそも車上生活者に交換するような連絡先などなかったし、私の方はというと、引っ越したばかりで自分の新しい電話番号もろくに憶えていなかったんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?