見出し画像

組曲Ⅳ~冬の日のおとぎ話1

 ひんやりとした液体に包み込まれているような気がした。液体?いや、それは液体なんかじゃない。私を包み込んでいるもの、それは闇だ。この部屋のどこかに空間の裂け目でもあるのだろうか。その裂け目からとろりとろりと流れ出てくる闇、その闇がまるで液体のように肌に纏わりついてくるのは、私自身が闇に同化しつつあるからだろう。ああ、もうすっかり年老いてしまった。年老いた私は生と死の間をゆらりゆらりと揺れ動き続けている。

 私は引退した歯科医師だ。すっかり年老い、何よりも正確で、繊細で、それでいて時には力強い指の動きを必要とする歯科医師の仕事を続ける事ができなくなってしまった私は、父親の代から受け継いだ歯科医院を畳み、静かな隠居生活を始めた。自分で言うのも気恥ずかしいのだが、誰からも腕のいい歯科医師として認められていた。近所はもちろん、市内のいたるところから、はたまた近隣の県からまで治療を受けに来る患者がいた。病院の入り口に掲げられている看板に記された診療時間を大幅に越え、時には夜中まで、来る日も来る日も、痛い痛いと泣き喚く患者たちの治療に当たっていた。そんな腕の良い歯科医師の私が、長年連れ添った家族に捨てられたのは私の浮気が原因だった。

 

 それは四十歳をちょいと過ぎた頃の事だ。随分と人に遅れて歯学博士の学位を獲る事にしたんだ。ちょっとばかり見栄を張ろうと、薄っぺらで何もない、吹けば飛ぶよな自分の人生とやらに、ささやかな箔でも付けてやろうと思ったのさ。それで診察が午前中で終わる土曜の午後から、明くる日の日曜にかけて毎週毎週、自宅から車で二時間ほどの街にある私の出身大学、その研究室で過ごした。研究生として大学院に籍を置き、若い優秀な大学院生たちに混じって、せっせせっせと博士論文の作成に取り組んだんだ。

 でも大学ってところは駄目だね。自由な若者たちの中にいると自分の齢も忘れて、うん、まさに年甲斐もなくってやつさ、浮ついた気分であたりをきょろりきょろりと見回しながら、かりそめの学生生活を楽しんだんだ。そうするとやはり気になるのは、うん、ぴちぴちした若い女性さ。研究室に集う大学院生たちの中に、ああ、そうだね、何とも可愛らしい女子学生がいたんだ。私好みのさ。ついつい頬っぺたをつんつんと突つきたくなるようなやつがさ。可愛らしい女子学生?そうさ、ちょいと幼さが残る顔立ちの、汚れのひとつも知りませんってな感じの娘さんさ。いや、別に幼い女が大好きってな訳じゃない。ただどういう訳だか、中年のとば口に立った私とはかなり不釣り合いに見えるほど若い、いや、幼いとすら言ってもいいような女に魅かれてしまったんだ。うん、多分、自分自身にひしひしと迫ってくる老化ってやつに、無意識に抵抗しようとしていたのさ。新芽をいっぱいに纏った若木のようなその娘さんの、瑞々しい樹液をたっぷりと吸い取ってやろうってな腹積もりだったんだ。そうすることでさ、また自分も若さってやつを取り戻せるんじゃないかと、そんな馬鹿な事を考えたって訳さ。

「いつも研究を手伝ってくれてどうもありがとう。今夜はお礼に何か美味しいものでも御馳走するよ」などと、自分ではない他の誰かが口にしているところを見たら、たちまち見え透いた助平な台詞だと、口の中一杯に嫌悪の唾が溢れ出してくるような、まるで気障な男が捧げ持つ花束みたい、ひりひりするような下心がすけすけに透けて見える薄気味悪い台詞を世間の男たち同様に、やはり私も口にしてその女子大生を誘ったんだ。

 せっかくお食事を共にしたのだから次の週末は映画にでも、ではその次の次の週はコンサートに、さらにその次の次の次の週末は、おっと、大学のそばには競馬場があったんだっけ、よし、それならば競馬場でデートなんてのはどうかな?うわあ、あたし競馬場なんて初めてと目を丸くしてはしゃぐ初心な彼女に、私はすっかり舞い上がってしまった。

 馴染みの小料理屋のカウンターの隅っこで、どれも初めて口にする数々の珍味に彼女の舌が馴染んできた頃、あれこれかれこれ、もぞもぞいちゃいちゃ、ちんちんかもかもしているうちにいつしか、ああ、もう離れられないなんて関係になってしまったってな訳さ。 

 初めての浮気、若い女に身も、心も、肝っ玉も、財布の中身までをもすっぽりと捧げてしまった私は、まわりの事が何ひとつ見えていない、まさに恋は盲目、すっぽんぽんの無防備状態になってしまっていた。上着のポケットは彼女といったレストランのレシートから、ラヴホテルの割引券まで、まるで布袋様の立派な太鼓腹さながら、ぱんぱんに膨らんでいた。体からは、まだ使い慣れない初心な彼女が過剰に振り撒く香水の移り香がぷんぷん、頭の中では、もうすっかり中年の自分とは無関係になってしまった若者向けの音楽、にやけたミーちゃん、ハーちゃんが、愛だの恋だのとはしゃぎ回るための音楽、ドライブに出掛けるたびに彼女がカーステレオでがんがんと流し続ける音楽、そいつが祭りの浮かれ囃子のように頭の中で鳴り続けていた。

 もちろんその道ならぬ恋は、あっさりと女房の知るところとなり、たちまちどんぱちの始まり、といっても怒り狂っているのはもちろん女房の方、私はといえばサンドバッグか、はたまた猫の爪とぎ板さながら、ただただ頭をぺこんと下げたまま、なされるがままにこの身を差し出したって訳さ。ともかく家の中を皿や薬缶がびゅんびゅんと飛び交い、ばたんばたんとそうなって、可愛い女子大生とは涙のお別れってな事になってしまったが、うん、女房との間には一生かけても埋めようがないほどの深い溝ができてしまった。それでもひとつ屋根の下、ぎすぎすとした関係を続けたのは、もちろん可愛い息子、娘がいたからさ。さてその息子が無事に就職を決め、娘がめでたく嫁にいったのを機に、私と女房は正式に離婚する運びとなった。家族の誰もがこの私を、この私?どうしようもなくゆるゆるの下半身を持った助平男の事かい?ああ、そうさ、その助平男を置いて家を出て行ってしまった。まあ、当然の事だね。私は財産のすべてを家族に分配し、父親から譲り受けた病院と、今も住んでいるこの家だけを自分のものとして残した。そうしてひとりきり、無一文になってしまったが、もちろんその事に何の文句もなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?