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組曲Ⅱ 夏の夜の白い花2

 日盛りを過ぎ、柔らかい茜色に染まりかけた空気を震わせるように鐘の音が響く。会社を出て、酒屋へと続く細い路地を歩く俺の耳を、その梵鐘の音はいつも優しく擽るのだった。古い街だった。いや、古い街といってもそれが奈良だとか、京都だとか、ああいう古都の趣きを売り物にした観光地とは違っていた。数百年もの間、変わる事のない街並みに、そこに住む人々が数百年も前とさほど変わりのない暮らしをしている、そういった古さだった。とろとろと眠っているかのような静かな街の、その深い懐に抱かれているかのように人々は過ごしていた。昼勤の作業が終わるのが四時四十五分、運送会社のすぐ裏にある古寺に住み込んでいる小坊主が鐘を撞くのがちょうど五時、会社から酒屋に続く細い路地でその鐘の音を聴く。まるで判を押したような暮らしだと思った。

 酒屋の引き戸を開け中に入ると、カウンターにもたれた菅野がもう飲み始めていた。その背中に向かって俺が軽く声を掛けると、菅野は読んでいるスポーツ新聞から目をそらさないまま、「おう」と上の空で返事をした。菅野の前にはつまみの代わりに「よっちゃんいか」や「うまい棒」といった駄菓子が並んでいる。まったくいい歳して駄菓子なんか食いやがってと思わず苦笑いしながら酒屋の主人に酒を注文し、カウンターに酒一杯分の代金三百五十円を置いた。

「おいおい、お前ら随分と早いな」

 笑いながら寛さんが店に入ってくる。寛さんが大きく開け放った引き戸から、微かな潮の匂いが流れ込んできた。この酒屋からほんの十分ほども北へ歩けばそこには埠頭がある。あと小一時間もすれば、埠頭の方から作業を終えたばかりの汗臭いやつらが大挙して押し寄せてくる。そうするとこの狭い酒屋が、たちまち駅前の居酒屋のように賑わうんだ。俺たちは、そいつらがここに来る前に店を出る事にしている。

 以前はよく衝突した。袖すり合うも多生の縁、ところがちょいと強くすり合う事もあるのさ。そうなるとたちまち睨み合い、挙句は殴り合いの大喧嘩だ。埠頭の連中は血の気が多い。日雇いの作業員も大勢いる。いつだったかそいつらの一人と取っ組み合いの喧嘩になり、怒りにまかせ思い切り引っ張ったそいつのシャツの胸元から、たいそうご立派な桜吹雪が現れた時には思わず「やばい・・・」と呟いた。この街で食い詰め、にっちもさっちもいかなくなったやつらの多くは埠頭に流れた。うん、これまでどこで何をしてきたのかもわからないような連中ともめるのだけは御免だね。

 二三杯も軽く引っ掛けたらそのまま居酒屋へ、もしその日が給料日ならばキャバクラへと流れていくのが常だった。だが、それはまだ俺が独身だった頃の話だ。今は違う。家では女房が俺の帰りを待っているんだ。

「香田さんよ、今日もやっぱり行かんのか?」

 ああ、可愛い女房が家で待ってるからなと笑い、これだから新婚さんはと冷やかされる。それもいつもの通りだ。あと何回、何十回、いや何百回、おれはこの「いつもの通り」を繰り返すのだろうかとふと考え、「しょうもない」とその考えを鼻で笑い、二人と別れ家に向かった。

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