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組曲Ⅲ 敗残の秋12

 夏という季節がなつめという少女を運んできたように、人々を凍えさせる新たな季節、冬が不幸な知らせを運んできた。休日の遅い午後、何をするでもなくストーブの天板で焼いた銀杏をなつめと二人ぽりぽりと齧っていた時、不意に電話が鳴った。受話器の向こうから低い声で流れてくる古い知人からの声。その声が緒方の高校の後輩、世の中にただ一人といってもよかった、親友でもあるその後輩の死を告げた。二日ほど行方がわからなくなっていた後輩は、周りの誰もが只事ではないと騒ぎ始めた三日目の朝、郊外にあるパチンコ店の大型駐車場に停められた一台の車の中から遺体で見つかったのだとその声は言った。車は後輩が仕事で使っていた会社の営業車だった。どうやら過労死の可能性が高いと知人は声をひそめる。緒方は言葉にならない声を一つ漏らしただけで電話を切った。一瞬頭の中が真っ白になり、それから突っ伏して嗚咽した。額にテーブルの冷たさを感じたまま、いくらでも泣いた。

 元々肉親との縁が薄い緒方は、この後輩を唯一の家族だと思っていた時期すらあった。ああ、・・・死ぬというのは・・・いったい何がどうなることなのだろうか・・・頭の中に脈絡もなく、次々と湧き上がってくる考えを、何とか捉えようとするのだが、その考えというやつはするすると緒方の手をすり抜けてゆくのだった。ひとたび顔を合わせれば何時間でも、いや、一晩でも、二晩でも、語り合う事ができた。だが、実はもう十年以上も会っていなかった。もし会いたくなればいつでも会えると高を括っていた、そんな油断を嘲笑うかのような突然の知らせは、緒方をとことん打ちのめした。

 緒方が生まれ育った、そして事ある毎に死んだ後輩と遊び回ったその街は、ここから電車を二三本も乗り継げば三時間ほどで着ける。これからすぐに発てば通夜に顔を出せるかも知れない。まだ後輩の死というものを実感できていない緒方は、たとえそれがすっかり冷たくなってしまった亡骸であろうとも、ともかくそのそばに行きたかった。呆けたように座ったままじっと緒方を見つめているなつめにその事を告げる。しばらく留守にするかもしれないが大丈夫かと、声を詰まらせながらそう問いかける緒方に、なつめは黙ったまま頷いた。事務的な事が頭を掠め、緒方は受話器を取るとすぐに吉開に連絡を取り、しばらく仕事を休ませてほしいと告げた。一週間か、十日か、もし都合が悪ければ自分の代わりに誰か新しい講師を雇ってもらっても構わないと言い添えて。

 もうどうでもいい、そんな気持ちがむくむくと湧き上がってきて、緒方をどこか得体の知れない闇の中へ引き摺り込もうとしているかのように感じた。いや、それでもよかった。得体の知れない闇の中?それでもここよりは居心地がいいだろうさ。胸がずきずきと痛みだし、この痛みの向こう側へゆけるのなら、もうどうでもいいとそう思った。

 とりあえずこれだけあれば十日ほどは過ごせるだろうかと、財布の中にあった札をすべてなつめに渡しながら「ちゃんと食事を摂るように」だとか「体に気をつけて」だとか「戸締り用心、火の用心」だとか、誰もが意味もなく口にする標語のような言葉を並べた。本当は、もしなつめがそうしたければ、自分が留守をしている間に、この金でどこか好きなところへ行ってしまってくれてもいいと付け加えるべきかもしれないとも思ったが、今の緒方にはその言葉を口にする勇気はなかった。ともあれ緒方の言葉が届いているのかどうかもわからない虚ろな表情で俯いたままのなつめの心の内は知れない。

「それじゃあ、行ってくるから」という緒方の言葉に、笑みを浮かべる事もなくなつめは小さく頷いた。アパートの外階段、初めて二人が出会った夏の日、熱を出したなつめが蹲っていた階段を、緒方は音を立てて下りた。なつめが階段の上から緒方を見下ろす。後ろ髪を引かれるように数段下りて振り返り、階段の上にいるなつめを見上げた。振り返り、またもう一度振り返ったその時、なつめの唇が小さく「さよなら」と動いたように思え、緒方はもう振り返る事をしなかった。

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