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雑記13 街が傾き始める

 黴臭い仕事部屋の窓を開け放ったまま、街へと向かって坂を下りる。仕事場にしている下宿屋から坂を下る事およそ十分、青々と繁った夏草が微かな風に揺れている空き地の前に立ち竦んだ。そこが空き地になってからどれぐらいの年月が流れただろうか。二十年?三十年?実はその土地は私の実母が所有しているものだった。

 以前は家が建っていた。小さな家が肩を寄せ合うように、六軒ほど背中合わせに建っていた。今はそんな作りの家々は見掛けないが、戦後はさほど珍しくなかった。軒先でサンマを乗せた七輪を団扇でぱたぱたと扇いでいる、そんな風景が似合う空間だった。

 ある朝、仕事部屋にいた私は坂の下の方から消防車のサイレンを聴いた。火事だ。燃えているのは、そうさ、その家々だった。紙と木と漆喰でできた建物はあっという間に焼け落ちたらしい。細く入り組んだ路地は消防車の侵入を拒んでいるかのようだった。それ以来、そこは空き地になっていた。荒れ放題のその土地に、近所の人が小さな畑を作っていた時期もあったが、今はすっかり凶暴な夏草に飲み込まれている。

 その火事のあった日、市内で他にも二軒の家が燃えた。どういう訳だか、燃えた家に住んでいたその世帯主はいずれも同じ会社に勤めていた。市内で一番大きな企業だったが、いろいろなトラブルを抱えているという噂があった。その火事の原因を人々は薄く開いた口から微かに漏れる低い声で囁き合った。真相はうやむやのまま、いつの間にか不穏な噂も消えていた。

 ある時を境に、家がぽつりぽつりと消えていった。ここに暮らしていた住人はどこへ行ってしまったのだろう?そんな事を考えながら、傾いだ引き戸の隙間から、割れたガラス窓から、人が棄てた暗い部屋の中を覗き込みながら、あたりを歩き回る日が次第に増えていったように思う。原稿を書くのが日々の仕事だったが、実際には一日の大半をうろうろと歩き回っていた。歩きながら原稿の中身を考える、ある意味気楽な仕事だね。ともかくこの頃からだろうか、「国が傾く」という言葉があるが「街が傾く」漠然とそう感じるようになっていた。

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