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組曲Ⅲ 敗残の秋6

 この部屋に住み始めて五年ほどにもなるだろうか、ある夏の初めの事だった。風がたんぽぽの綿毛でも運んでくるように、夏が少女を運んできたのだと、緒方はそう思った。一日レッスンをこなし、アパートの外階段を上る緒方は驚いて足を止めた。自分の部屋に続く階段の途中に、人が蹲るように座っていたのだ。まだ十代ではないだろうか、微かにあどけなさが残る少女の瞳が、驚く緒方の顔を見つめていた。その少女が緒方の部屋を指すように入り口のドアを見上げた。

「おじさん、この部屋に住んでいる人?」

 いきなり少女の口から飛び出してきたその「おじさん」という言葉に、緒方は奇妙な生々しさを感じた。いや、そんな事は別にどうでもいい。いきなり見知らぬ少女が自分の部屋だけに続くアパートの外階段に蹲っているのだ。ここが街中でなく、どこか田舎の山中だったとしたら、緒方は間違いなくその少女を悪戯好きな狐狸がなりすましたものではないかと疑っただろう。

「おじさん、よくこの部屋でサックスを吹いているでしょう」

 そう言うと少女は呟くように、喋っている時よりは半オクターブほど高い声でサマータイムという、誰もが知る旋律の一節を口ずさんだ。少し掠れてはいるが透明な声だった。サマータイム?言われてみれば確かに緒方は無意識の内に、慣れ親しんだその旋律をたびたび吹くことがあった。張り詰めた糸がぷつりと切れるように、ふいに少女の歌声が途切れ、自分が少女の歌を遮るような何かをしたのだろうかと一瞬うろたえたが、実はそうではなかった。少女は疲れたような表情ですっと目を閉じると、臙脂色のペンキで塗られた階段の手すりを支えている金属の細い支柱にかくんと頭を凭れされた。頭に触れている金属の冷たさが心地いいのだろうかとそう思い、少女の顔を覗き込むと妙に頬が赤い。薄く半分開いた口で辛そうに息をしている。

「熱があるんじゃないか?」

 少女は無言で首を横に振るが、どうみても平気な様子ではなかった。

「もし気分が悪いのなら、よくなるまで部屋で休んでくれていいから」

 そういって少女の細い二の腕を掴み、何とか立ち上がらせようとする。

「・・・ん・・・何だか、ごめんね・・・」

 足元に気をつけてと、そう言いながら少女を部屋に運び入れる緒方は、ああ、自分は狐狸の類を自ら部屋の中に入れようとしていると心の中で呟いた。

 

 酒屋の倉庫に積み上げてあるような黄色いプラスティックのビールケースを並べ、その上にベニヤ板を敷いただけの粗末なベッド、緒方はそのベッドに少し熱っぽい少女の体を横たえさせた。「大丈夫・・・」と微かに呟く少女は、横になってからものの五分も経たないうちに静かな寝息を立て始めた。よほど気分が悪いのか、それともあまり深く眠ることができないような日々を過ごしてきたのか、ともかくすっかり寝入ってしまったその証に、少女が着ているトレーナーの胸に書かれたアルファベットの文字がゆっくりと、だが規則的に上下する。何と書いてあるのだろう?意味もなく緒方の視線がそのアルファベットの文字を追い、ふと自分が何の意味もない事をしていると苦笑した。それから少女の寝息が穏やかに落ち着いていることに安堵し、少女を起こさないようになるべく音を立てずに寝支度をすると、タオルケット一枚を羽織り、そのまま床の上にごろりと横になった。横になってみると自分が思いのほか疲れている事に気づいた。少女の寝息に耳を澄ましているうちにいつの間にか眠り落ちていた。

 朝、目を覚ますと、体を横たえたまま毛布で顔を半分隠し、ベッドの上から自分を見下ろしている少女と目が合った。少女は恥ずかし気に頬を赤らめる。

「珈琲、飲むかな?」

 手早く淹れた珈琲を、黙ったまま頷く少女に手渡す。味見でもするかのように珈琲を口に含んだ少女が、思わず苦そうに顔を顰めたのを見て、改めてこの部屋には砂糖も、ミルクもない事に気づいた。緒方はテーブルの上に部屋の合鍵を置いた。

「僕はこれから仕事に出掛けるけど、君は勝手に出て行ってくれていいから。部屋の鍵は外から郵便受けに放り込んでいてくれるかな」

「ありがとう・・・」ただ一言、呟くようにそう漏らした少女は、だが緒方が仕事を終えて部屋に帰り着くとまだそこにいた。次の日も、またその次の日も少女は緒方の部屋に居続けた。

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