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組曲Ⅱ 夏の夜の白い花4

 綾と籍を入れたのは三か月ほど前、春先の事だった。籍を入れるまでに二年ほど一緒に暮らしていた。前の会社にいた頃に俺が通い詰めていたスナック、そのスナックのカウンターの中に綾はいた。店の人気者、いわゆるナンバーワンってやつさ。その綾を目当てにうんざりするほど大勢の男が通っていた。馬鹿面を、間抜け面を、助平面を土産にさ。うん、もちろんこの俺もその中の一人だ。カウンターの中から並みいる男たちに笑顔を振りまく綾は、そうさ、後光が射していたんだ。観音様みたいに。うん、まさに女優さながらだった。スナック、そこは小さな芸能界だ。筋金入りの人気商売。スナックのカウンター、それはそこで働く女たちにとってのステージみたいなもんだ。その檜舞台に君臨する綾の輝きは店の中では、いや、この飲み屋街で働く女たちすべてをずらりと横に並べたって群を抜いていた。誰もが骨抜きにされた。うん、茹でる前の蛸みたいにぐにゃぐにゃさ。だがそれでいて綾の事を、男たちは心のどこかで所詮は水商売の女だと見下していた。その可愛いお尻をちょいと突っつけば、酔いにまかせてその細腕をぎゅっと引き寄せれば、或いは札束でそのふっくらした頬っぺたをぺちぺちと叩きさえすれば、何とか自分のものにできるんじゃないかと思っていた。誰もが隙あらば綾に絡みつこうとした。さあ、この僕とデュエットを、「銀座の恋の物語」を、いや、「別れても好きな人」を、いやいや、是非この私とチークダンスを、ほうらほらほら、ちかちかするミラーボールの光の中、店内に流れるこのムゥゥゥゥディな音楽に合わせて・・・、おいおい、まったくこれじゃあ体がいくつあっても足りないぜ。

 お陰で店は大繁盛。その美しい横顔を一目拝ませていただこうと隣町からも、そのまたもひとつ隣町からも大挙して男たちが押し寄せた。ところがこの店のママ、まさに遣り手婆の風情をぷんぷんと臭わせたこの大年増が、芸能マネージャーさながらに、綾を上客以外の男には近づけないように頑張っていたんだ。この俺?もちろん遠くから、カウンターの一番隅っこの席から、じっとりと粘っこい視線を綾に向けるのがせいぜいさ。指をしゃぶりながらね。お陰で俺の親指ときたらすっかり指紋が薄くなっちまった。いつも俺の相手をしてくれる差し歯の真美ちゃんと陰で綽名を付けられている女と軽口を叩き合いながらそっと綾の横顔を盗み見る、この俺にできる事といえばそれぐらいだった。「また綾ちゃんの方ばっかり見てえ」と差し歯の真美ちゃんに頭をはたかれながらさ。

  そんな綾がまさか俺の女になるなんて、俺自身思ってもみなかった。実際、真夜中のカブトムシみたいにカウンターにへばりついて、樹液でも吸うようにウイスキーをちびちびと舐めている俺の前に、綾が三分も立つ事はなかった。いつも上客に呼ばれて店の中を駆け回っていたんだ。ある日、差し歯の真美ちゃんが何を思ったのか、ふと声を潜めて「綾ちゃん、本当は香田さんの事が好きなんだって」と囁いた時には、ちぇっ、からかいやがってと思っただけだったし、珍しく店が暇な夜、俺の前を通り過ぎる綾が一瞬立ち止まり「あたし、本当に好きな人の前にはどうしても立てないんだ・・・」と小声で囁きかけてきた時には、からかわれた挙句、すっかりその気になった勘違い男の間抜け面を人様の前に晒すのだけはごめんだぜと、いささかむかっ腹を立てたぐらいだった。それでもある日、店が終わり、最後までカウンターで粘っていた俺に向かって綾が「これからどこかへ飲みに連れて行って・・・」と小声でせがみ、二人で街外れのバーのカウンターに並んで甘ったるい言葉をやりとりしているうちに、もう少しも自分を押さえる事ができなくなり、気づいたら翌朝、綾のアパートの、綾の甘い香りがするベッドの上で目を覚ました。

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