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組曲Ⅱ 夏の夜の白い花5

 意中の姫君と、うん、綾といい仲になって万事めでたし?いやいや、それからが大変だった。落ち着く暇ってもんがすっかりなくなってしまった。うようよと湧いてくるんだ。何が湧いてくるのかって?もちろん男がさ。まるでショウジョウバエみたいなやつらがひっきりなしに俺の綾、俺の大切な姫君様の回りをぶんぶんと飛び回るんだ。この俺といえば、ああ、まるでボディガードだね。ちょうど腰を痛め、前に勤めていた運送会社を辞めたばかりの頃で、ささやかな退職金や失業保険に縋りつきながら、これ幸いと綾のアパートに転がり込んで、うん、まさにヒモ同然さ。綾の仕事が終わる頃を見計らい、ふらりと部屋を出て綾の店に向かうが、もちろん店の中に入ったりはしない。綾が洗い物だの、掃除だの、要するに閉店作業とかいうやつを終え、生ごみが一杯に詰まった袋を手に店を出てくるまで、斜向かいの公園で咥え煙草、手には缶コーヒー、うん、じっと待っていたんだ。綾は店の中で酒を飲みながら待っていてくれればいいのにと言うが、俺はヒモとしての立場をきちんと弁えていた。それに何よりあの遣り手婆の相手をしながら酒を飲むなんてまっぴらだったんだ。くそ、遣り手婆め、俺が綾の男に納まってからというもの、ただただ俺を目の敵にしていやがるんだ。

 その公園の片隅で、俺と同様にじっと綾を待っているやつがいた。青白い顔をした学生さんだ。綾を目当てにせっせとアルバイトで稼いだ金をポケットに捻じ込み、足繁く通ってくるいじらしいやつさ。店の扉が開き、明かりを落とした暗い店内からようやく綾が出てくる。さあ学生さん、その綾に向かって意を決したように一歩足を踏み出した。「あのう・・・」薄く開いた口元からこぼれ落ちた声、それはまるで哀れ蚊の羽音のように情けない。学生さんの存在に気がつかないふりをした綾は、そのまま彼の横を素通りし、俺に向かって小走りに駆け寄ってきた。これ見よがしに腕を絡め、「さっ、行こう」とその腕を引く。俺はというと、別にその学生さんを睨みつけるってな訳でもない。咥え煙草のまま軽く一瞥をくれてやるだけだ。うん、ただそれだけ。振り向かなくても背後からぷしゅうううう・・・と張り詰めた男心ってやつが萎む音が聞こえてくる気がした。それだけで充分だ。ああ、でも世の中の男が皆、こんなに大人しいやつばかりならどんなにいいだろうかね。

 

 もちろんこの世の中、こんなに淡白な男ばかりじゃあない。情熱的なやつがいるのさ。ぐにゃりと歪んだ、粘着質な、ああ、まさに鳥餅みたい、ひとたび貼り付いたら二度と離れるもんかってな粘っこい情熱を胸に抱いたやつがさ。いや、その情熱とやらを勝手に胸に抱いておくだけならいいさ。ところがそいつらといえば惜し気もなくその情熱を人様の前でご披露してしまうんだ。くそ、まったくもって迷惑な話だぜ。

 しばらくの間、何事もなかったってんで俺は綾のお迎えをさぼっていた。毎晩、テレビの前に寝転がって虚ろな目つきで深夜放送を眺めながら綾の帰りを待っていた。そんなある日、アパートに設えてある鉄製の外階段に足音がかんかんと高く響いた。堅いヒールの音。綾だ。その綾がばたばたと音を立て、靴を脱ぐのももどかしく部屋に駆けこんできた。おいおい、いったいどうしたっていうんだ?その綾をいかつそうな男の足音が追いかけてきた。がんがんがんがんというこれまたけたたましい音。綾は奥の部屋に逃げ込んで勢いよく襖を閉めた。アパートのドアを男が乱暴に叩く。何だよとうるさそうに顔を出した俺に向かって男は「お前誰だよ」と声を荒らげた。くそ、俺を間男とでも思っているのか。そうさ、飲み屋の客には時々こういうやつがいるんだ。カウンター越しに、にこにこと愛想を振り撒かれているうちに、相手を自分の女だと勘違いしてしまうような、妄想にすっかり自分自身を絡め捕られた男がさ。

 部屋に上がり込もうとする男の行く手を塞ぐように、玄関の壁に手をついて立ちはだかる俺の脇の間から部屋の中を覗き込み、奥の部屋に隠れている綾に向かって「いいから出て来いよ」と声を掛ける。ともかく帰れ、いい加減にしないと叩きだすぞという俺の声を、まるで聞こえていないかのように無視したまま綾に大声で呼び掛ける。埒が明かない。叩き出してやろうかという気持ちが、おくびのように腹のそこからふつふつと湧き上がってくるが、その気持ちを押し殺すように、ともかく落ち着けと自分に言い聞かせ、平静を保つためにゆっくりと数を数える。一つ、二つ、三つ・・・。男の行く手を塞ぐように黙って立ちはだかる俺は、じっとアパートの前に生える欅の木を男の背後に見つめていた。 

 突然、軋むようなブレーキの音がして、思わず伸びあがり男の肩越しに音の方を見下ろすと、欅の根方に自転車が停まった。その自転車から、まるで歌舞伎役者が見得を切る時のような大袈裟な動作で若い巡査が飛び降りる。多分奥の部屋に隠れている綾が近くの交番に電話をしたのさ。そういえば何事かありましたらいつでもお電話下さいと、交番の電話番号が書かれたメモ用紙を渡すその巡査が、いつも自分の事を舐め回すような目つきで見つめてくると、綾が苦笑いしながら話していたのをふと思い出した。

 もう、すっかり夜も更けていた。巡査に気づき、たちまち怖気づいた男はそれでもなお訳の分からない言い分を捲し立て続けたが、ようやく諦めたのか、しぶしぶ巡査に連れられていった。がっくりと肩を落としたまま連れらされる男の後ろ姿を綾と二人、うんざりした気分で見送ったんだ。

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