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組曲Ⅱ 夏の夜の白い花10

 その女、夏の花は俺が惚れてしまうような女では決してなかった。どこか学級委員のような気真面目さが、つんと澄ました優等生のような雰囲気が漂っているんだ。几帳面で、お勉強ができて、誰とも分け隔てなくお付き合いができて・・・ふん、一番苦手なタイプさ。うん、お近づきにはなりたくないねと、そんな憎まれ口を俺自身のために呟きながら、ああ、でもさ・・・俺は毎日毎日、本など読みもしないくせに図書館へと通い続けたんだ。まったく、滑稽とはこういう事をいうのさ。

 ある日、意を決した俺は、カウンター越しに夏の花に向かって、とうとう貸出カードを作って欲しいと頼んでみたんだ。「えっ?あなたが貸出カードを?文字もろくに読めないくせに?」などとお行儀の良い夏の花が言う訳もなく、ただ笑顔で俺が身分証明書として差し出した運転免許証と引き換えに、図書館の登録申し込み用紙をくれた。「どうぞ」と用紙を差し出しながら、にこりとほほ笑んだその時、ふと香気が漂ったんだ。あたり一面にさ。夏の花がたとえ澄ました優等生面をしていようとも、あるいは劣等感丸出しの阿呆面であろうとも、うん、そんな事どうでもいいさ、強い香気、そいつが蜘蛛の糸のように俺に絡みついてしまったんだ。

 興奮していたからか、あるいは普段から文字を書き慣れないせいか、慌てて書き込んだ俺の名前「香田盛一」の「一」の字が大きく枠をはみ出してしまった。その俺の性格そのもののような不格好な文字を見てふと夏の花は笑い、また香気が漂う。

 貸出カード一枚を作っただけで大仕事を成し遂げたかのような満足感に満たされた俺は、図書館を出ようとしたまさにその時、なぜだろう、たまらなく寂しい気持ちに襲われた。寂しさ、そいつがいきなり大上段から俺を斬りつけてきたんだ。踵を返し、また館内に戻った。そうだ、何か本を借りよう。といっても普段は本などまったく読まない俺は、何を借りればいいのかさっぱり思いつかない。ええい面倒だと、たまたま目の前の書棚にあった「秋田犬の飼い方、育て方」という本を急いで引き抜き、カウンターに、夏の花のその目の前に置いた。素早く手続きを終わらせた夏の花が、俺に本を差し出しながら静かに笑うと、また香気が立ち昇り、俺の鼻先を掠め、ああ、まるで初めて色気づいた中学生のように上気しながら俺は図書館を後にした。

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