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組曲Ⅱ 夏の夜の白い花3

 女は、いや、女房は開け放した窓にもたれ、畳の上にしどけなく足を投げ出したまま、薄暗くなってきた空を眺めていた。帰ってきた俺の顔を見てにっこりと笑う。改めていい女だと思った。まだまだ女房という感じがしなかった。この女に女房という所帯じみた呼び名は似合わない。女の名前は綾といった。俺は自分に向けられた、綾のとろけるような笑顔を見るだけで、たちまち下半身が熱くなってしまうんだ。

 綾は外の景色に目をやったまま「またどこかで権蔵の声がしよるんよ」と呆けたように言う。権蔵というのは、この辺りでは知らぬ者などいないほど酒癖の悪い男だ。そもそも権蔵という名前が本名なのか、それとも誰かがふざけて付けた綽名なのか、それすらもわからなかった。その権蔵がどこでどう酒を飲んでいるのかは知らない。ただ酔っ払った権蔵は力の限りに叫び声を上げる。まさに雄叫びってやつさ。この街の夜は静かだ。その静かな夜を震わせるように、権蔵の声だけがこだまする。

 お前、権蔵の顔、見た事あるか?

「ないよ」と綾は首を横に振る。そうか、俺は一度だけ見た事がある。多分あいつが権蔵じゃないだろうか。その男は埠頭の作業員らしかった。酔っ払い、騒ぎ、相手は誰でもいい、ともかくそこに居合わせた誰かに絡み、その挙句に店の外に叩き出されたのだろう、一杯飲み屋の店先で大の字になって、空に向かい、意味のない言葉を大声で喚き続けていた。ずいぶんと小柄な男だった。よれよれになり、すっかり色褪せた黒いTシャツ、擦り切れた作業ズボン、大きな靴。小さな体に対して靴が不釣り合いに大きく見えるのはそれが安全靴、つまり怪我をしないように足の甲の部分に、保護用の鉄板が入っているものだからだ。真っ黒に日焼けしたその顔中に深々と刻まれた皺には、すっかり垢がこびりついているその胡麻塩頭の男を俺は権蔵だと思っている。

 だが他のやつらの言う事は違った。菅野は、権蔵の事を駅前にたむろしているホームレスの一人だと言うし、寛さんは「酒癖の悪いサラリーマンだよ。背広なんかもうよれよれでさ」と顔を顰めた。また別の同僚は近くの県立高校の体育教師だと言うし、綾と同じスナックで働く真美ちゃんは引退したやくざだときめつけていたらしい。実は誰もが権蔵に関してははっきりとした確信を持ってはいなかった。まるで都市伝説のようにあやふやな存在でしかない権蔵、だが、その権蔵の怒声は今日もしんと静まりかえった夜の街にこだましている。

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