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組曲Ⅱ 夏の夜の白い花13

 自分でも酔っているのが分かった。さっきまで一緒に飲んでいた同僚たちと別れ、一人夜の街をさまよい歩く。ふと気がつくといつの間にか蟻の巣のような細い路地に迷い込んでいた。駅の裏手、普段なら滅多に歩く事のない場所だった。いつだったか俺と綾が結婚するきっかけを作った男、駅裏の飲み屋から綾の後をつけてきたあの労務者風の男、そんなやつらが大勢住んでいるような場所だ。

 夏の夜はゆっくりとうねっていた。この漆黒の闇、この闇がこんなに黒々としているのは光がないからじゃあない。あらゆるものが溶け込み、さまざまな色を重ね、混じり合い、ついには結晶した空間、それがこの果てしなく黒々とした闇だ。その闇が夏の熱気そのもののように俺の肌に纏わりつく。

 路地に並ぶ家々は、どれも随分と丈が低い一軒家ばかりだった。いや、古い長屋もある。あたりには物の腐る臭いが漂っていた。ああ、物の腐る臭いはどこか甘さを含んでいて、俺は記憶の底を擽られているような気がした。建っている事が不思議に思えるぐらいに傾いている家があった。軒の屋根瓦が落ち、剥きだしになった屋根板から草がはみ出すように生えている家もある。古びて崩れかけた壁の向こうからテレビの音だろうか、薄っぺらな騒がしい声が漏れ出てくる。この路地は、いやこの夜という空間はどこまで続いているのだろうか、果てがないように思いながらも、長い階段を夜の底に向かってゆっくりと降りてゆくように、静かな路地を歩き続けた。

 ある角を曲がり愕然とした。白々と輝く水銀灯。その街灯に照らし出された一本の美しい樹、その美しい樹が零れるほどの真っ白な花を一杯に湛えていた。その花々から流れ出る香気が闇に溶け出し、闇は刻一刻とその深さを、濃さを増してゆく。溢れ出る香気が含む甘い毒に俺はすっかりあてられてしまった。夏の花、ああ、夏の花、いや、もう「の」などという間抜けな文字はいらない。夏花、そうだ夏花だ。図書館のカウンターの向こうに佇んでいるはずの夏花が今ここに。俺はすっかり狼狽し、ぶるぶると震え続けた。

 毒を振り撒くように甘い香気を一杯に放ち続ける真っ白な無数の花々、その中でも特に目を引く大輪の花弁、いや、まて、よく見ろ、そいつは花なんかじゃない。それは大人の手のひらほどもある蒼白い蛾だ。待っているものがようやく現れたというように、その蛾がゆっくりと飛び立つ。その一匹に誘われるように次々と他の花も、いや他の蒼白い蛾も飛び立ってゆく。白い水銀灯の光に、きらきらと輝く燐紛を撒き散らしながら。夢の中で夢のような夢を見ているのだろうか、俺はただ立ちすくんだ。ああ、一体どこへ飛んでゆくんだ。どこでもいい、俺も連れて行ってくれないか?俺を攫ってしまってくれないか?今、俺の回りを輪舞する蛾、もしそれが毒をもった蛾なのなら、いっそ俺に纏わりついてその毒で俺を殺してしまってはくれないか?もし人の生き血を吸うような習性を持った蛾なのならば、俺の血を一滴残らず吸い取ってはくれないか?この俺をからからに干からびた一個の肉片へと変えてはくれないだろうか?ああ、夏花、夏花、俺はもうここから一歩も動く事ができない。

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