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組曲Ⅱ 夏の夜の白い花11

 久々に同僚たちに付き合って居酒屋、スナックをはしごした。なぜだろう?俺はひどく苛立っていた。いや、何も今に始まった事じゃない。ここ数日、胃袋の奥に何やら不愉快な塊が巣食っていて、そいつが事あるごとに鳩尾や臍のあたりで暴れるんだ。

「香田さん、何を苛々しとるんや」

「何だか最近の香田さん、おっかないよ」

そんなまわりのやつらの声に、うるさい、うるさいと口の中で呟きながら水でも飲んでいるかのように、ぐいぐいと酒を飲み続けた。

 いったい何なんだ。てめえの仕事ぶりは。いい加減な事ばかりしやがってと、年若い同僚にいつの間にか絡んでいた。そいつを張り倒してしまいそうな俺の勢いに、すっかり場がしらけてしまったのか、誰かがお開きにしようと言いだし、そのまま皆で店を出た。もう一軒行こうという俺の言葉に、曖昧な返事をしながら三々五々と散ってゆく同僚たちの背中を見送りながら、まだ飲み足りないと呟き、駅向こう、以前綾のアパートがあったそのあたりに、確か明け方までやっている屋台があったはずだと思い出し、そちらへ向かって歩き出した。

 踏切を渡ると突然闇が濃くなる。回り舞台のように風景が一変した。駅裏と呼ばれるそのあたりには、店がないだけではなく、街灯すらも少なかった。男の俺でもつい心細くなるぐらい静かだった。ただ自分の足音だけに耳を澄ましながら俺は歩き続けた。物の腐るような臭いをすっかり染み込ませた闇が、俺の汗ばんだ体にしつこく纏わりついてくる。軒の低い家々が互いにもたれ合うように並んでいるその路地で、舗装されているのは真っ直ぐに伸びる、車一台がかろうじて通れるような道だけで、その道から横に伸びる枝道は剥き出しの土のまま、勢いよく生える夏草に覆われていた。

 その路地を抜けたあたり、昼間見ると細い路地には似つかわしくない広さの、木が茂り、何やら陰鬱さを感じさせる殺風景な公園があり、その公園の横に目当ての屋台があった。屋台の軒にはすっかり古び、脂の汚れで薄暗くなった赤提灯がぶら下がっている。暗がりに一軒だけ頼りなく開いている屋台の暖簾をくぐると、ぐつぐつと煮立った季節外れのおでんの臭いに思わず顔を顰める。客は小柄な初老の男がひとりだけだった。その男が店のおかみらしき老婆にしきりに絡んでいる。

「おう、あんちゃん、ひとりか?」

 コの字型のカウンターの、その一番端に座った男にいきなり声を掛けられた。

「いい若いもんがひとりでちびちび飲むんかい?」

 しきりと話しかけてくる男が、酒の入ったコップを片手に、よろよろと隣の席に移ってきた。くそ、鬱陶しい。汗と砂が入り混じったような臭いが男の体から立ち昇ってきた。かなり酔っ払っているらしいその男は、こちらの機嫌を探るように、当り障りのない話を繰り返していたが、いつの間にかぐずぐずと絡むような口調になっていた。

「若造のくせになんじゃあ」

 いきなり男は大声を上げた。俺の一言が男を怒らせたのか、あるいは俺が男を怒らせるよう言葉を口にするのを待っていたのか、ともかくその酒癖の悪い男は、その時を待っていたかのように怒り出した。俺の方はというと、果たして自分がその男に何を言ったのかすらも思い出せなかった。

「てめえ、ぶち殺すぞ」はあ?上等じゃあないか。元々苛立っていた俺は、男のその一言で一瞬にして体が熱くなった。

 男の方を振り向き、背筋を伸ばし正面から見据えたまま、何じゃあ、やるんか?と返した。男は座ったまま俺に掴み掛ってくる。改めて小柄な男だと思った。一気に頭に血が昇った俺は、肩を掴んで揺さぶりを掛けてきた男を後ろに振り払うと、男はあっけなく椅子ごとひっくり返った。ラーメン屋だとか、ホルモン屋だとかのカウンターとかによく並んでいる、背もたれもない簡単な作りの椅子だった。よろめきながらも立ち上がった男は、椅子に腰掛けたままの俺に殴り掛かってくる。よろよろとした動きから、男がどうしようもないぐらい酔っているのがわかった。椅子から立ち上がる事もしないまま男の方に向き直り、男の体を受け止めるとそのまま振り払うように投げ飛ばした。俺の方も酔っていた。振り回した手が反動で目の前に並べてあった一升瓶に当り、将棋倒しのように倒れた瓶が音を立てて割れた。

 俺はようやく立ち上がると、尚もむしゃぶりついてくる男の首根っこを掴み、屋台のすぐ横にある公園の暗がりへと連れ込み、男の酔いに赤らんだ顔の、そのど真ん中に拳を叩き込んだ。戦意をなくしたように倒れ込んだ男の腹を思い切り蹴飛ばした。蹲ったまましばらく呻いていた男は、金網に縋りながら立ち上がると「わしが電話を一本入れたらなあ、若いもんが何人でもすっ飛んでくるんやぞ」と凄みながら、よろよろと闇の中に消えた。

 ふん、何が若いもんだ。男の服装はどう見ても労務者のものだった。その労務者がありきたりの捨て台詞を吐きながら去って行く。どうみても吉本新喜劇じゃないかと鼻で笑いながら屋台へと戻った。そこで酒を飲み直そうとする俺に屋台のおかみが言う。

「あんた、落ち着いて酒なんか飲まんと早う帰りや、あのおっさん、仲間連れてくるで。前にも同じような喧嘩があってな、その時はあのおっさん、包丁持って仲間と戻ってきたんや」

 おかみの言葉に俺は心底うんざりした。これ以上のごたごたはごめんだ。立ち上がり勘定を頼む俺に、おかみは申し訳なさそうに言う。

「あのな、悪いけどな、さっき一升瓶が割れた時、瓶の破片がおでんの鍋の中に入ってしもうたんや。それでな、このおでん、全部買い取ってくれるか」

 今、手持ちの金がないんだ、明日、必ずそのおでん代と、酒の代金を持ってくるからと約束し、免許証を預けた俺は暗い道を、男が消えたのとは逆の方向に歩き出した。

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