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組曲Ⅲ 敗残の秋7

 少女はなつめと名乗った。なつめという言葉が、明治の文豪と同じ、姓としてのなつめなのか、あるいは少女の幸せな成長を願う近親の誰かが、深まる秋に山を落ち着いた色に染める暗赤色の実、その実をたわわに湛える美しい樹木にちなんでつけた名なのか、それは知らないが、ともかく緒方は少女をなつめと呼ぶ事にした。姓か名か?緒方にとってはどうでもよかった。二人だけしかいないこの部屋、それが姓であろうと名であろうと相手を呼ぶのに何の不自由もない。

 まるで人に慣れない猫のようだと、なつめの事をそう思った。一方、元々家族というものと縁が薄かった緒方も、最初は大いに戸惑ったものの、何とかなつめを受け入れようと、ぎこちない努力を始めた。ふとしたはずみに芽生える親密さ、その親密という感覚に戸惑いながらも、二人ともが次第にその戸惑いを楽しみ始めていた。箸や、茶碗や、湯呑、そういったもろもろの日用品を買い揃えたり、いちいち着替えるたびに板の間に据え付けてある簡易シャワーや、トイレに身を隠すなつめの気持ちを慮って、針金を使い、部屋を仕切るためのカーテンを吊るしたりと、そういう細々とした作業をこなす楽しさを緒方は初めて知った。いささか複雑な家庭環境の中で臆病に育った緒方にとって、家族というものは互いにどういう距離を取り合えばいいのか、それすらもわからない息苦しい存在でしかなかったのだった。

 ではなつめにとって家族というのはどういうものなのだろうか。家を飛び出し、ショルダーバッグ一つを抱えたまま、ひと月ほども街をさまよっていたのだとなつめは言った。ネットカフェだの、漫画喫茶だの、終夜営業のハンバーガー屋だのと、都会にはいくらでも夜をやりすごす場所がある。危ない誘惑や、いつの間にか背後に迫ってくる暴力から上手く身をかわしながら、さまざまな場所を渡り歩いてきたなつめは、もう何週間も熟睡していなかったと笑う。最後に泊まったネットカフェで、シャワーを浴びている間に、財布も、携帯電話も盗まれ、かといって家出中の身では警察に届け出ることもできず、会計もしないままにさりげなくネットカフェを抜け出し、ふらふらとあてもなく歩き回っているうちに、気づいたら緒方の部屋へと続く階段に座り込んでいたのだと言った。

 そんななつめに緒方は家を飛び出した理由を訊かなかった。どうせありきたりの不幸話を聞かせられるだけだろうし、何より自分自身が他人に、あれこれと身の上を訊かれるのが嫌いだったからだ。話したくなればいつでも自分から話せばいい、ともかくこちらから無理に口を開かせることではないとそう思った。ともあれ気が済むまでこの部屋にいて、また好きな時にふらりと出て行けばいいさと緒方はそう思った。

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