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組曲Ⅳ~冬の日のおとぎ話9

 夜の街は赤と、緑と、金色のイルミネーションに溢れていた。その煌びやかな空間を、終わりなく音楽が流れ続けている。ジングルベェル、ジングルベェル、鈴が鳴るぅ・・・。私の頭の中でも不吉な鈴の音が終わる事なく鳴り続けていた。ああ、「この終わる事なく」という言葉が今の私には何よりも絶望的に響いた。

 可愛らしい小鳥のように囀り続ける衛生士たち。歯科医院を裏でしっかりと支えてくれる職人気質の技工士たち。菓子折りと共に新製品のパンフレットを抱え、満面の笑みを振り撒きながら病院を訪れる製薬会社や、医療機器会社のセールスマンたち、皆で仲良く一年の労をねぎらいながらの大はしゃぎ、今日は我が歯科医院の年に一度の楽しい忘年会だ。そんな中で、私はただ俯いているだけのためにそこにいた。何かを言葉にすると、その言葉は扉を閉め忘れた鳥かごから飛び出す小鳥のように、あっという間に私から逃げ去ってゆくんだ。上手く笑顔を作る事もできず、能面のような顔でじっと俯いたままそこにいる、私にできる事はただそれだけだった。もう、そんな私に話しかけてくる者など誰もいなかった。誰もがその優しさからそっと私の事を見棄ててくれていたが、いや、そんな事はどうでもよかった。問題は、私自身が私を見棄て始めているという事だった。

 会がお開きになり、二次会の誘いを断った私は一番古株の衛生士に、次の店でそこにいる全員がたらふく飲み食いできるぐらいの金をそっと渡し、皆と別れ、一人で逆の方向へと歩き出した。一人になりたかったが、一人になるのが怖かった。年の瀬に浮かれる繁華街を抜け、小さな飲み屋が並ぶ路地、その一番端にある行きつけのバーの前に立った。重々しい扉の木目を見つめていると、何故かぽろぽろと涙が零れ、私はどうしてもその扉を開ける事ができなかった。無言で踵を返した。

 ただただ歩いた。錐のように冷たい風が頬を刺し続けたが、その冷たい痛みだけが私と現実を繋いでいた。橋が見えた。その橋を渡った。相生川?いや、川の名前なんて知った事じゃないさ。その名前も分からない川を眺めた。その川は護岸工事の最中らしかった。夜になり、誰もいなくなった河川敷に、大型の重機だけが取り残されていた。その土手の、掘り返され、削り取られ、剥き出しになった赤土が妙に艶めかしく見えた。この目の前に広がる景色の中で、赤土だけが生命を持ったもののように思えた。その時さ、私には突然、川の水が温かいものに思えたんだ。私は迷わず川に足を踏み入れた。一歩、二歩・・・。ほとんど布団にでももぐり込むような気楽さで。腰のあたりまで浸かった時、ああ突然さ、突然の痛みとなって水の冷たさが全身を駆け巡ったんだ。一瞬、我に帰り、しまったと思った。何となくしくじってしまったと思った。誰かが橋の上からこちらを見ていた。人が走り回る気配がした。誰かの怒号、夜を切り裂くようなサイレンの音。闇を震わすサイレンの音に、私も闇のように震えた。恐怖。だが、その瞬間、私は正気だった。その時、サイレンに怯える私を別の私が見つめている。その見つめている私を、また別の私が見ている。無限の合わせ鏡の中で私が私を見つめている限り、私は解放されるはずがない事にその時気づいたんだ。でももう遅い・・・薄れゆく意識の中で最後に私はそう思った。

 気が付くと硬いベッドの上、ごみ置き場から拾われてきた古いテディベアのように私は横たわっていた。何も分からない。分からないままにただ頭を巡らす。私は、そうか、こちら側の、生の世界に踏みとどまったのか。暗い廊下。警察署?病院?もう大丈夫ですよと、見知らぬ男が吐く生臭い息の臭い。

 

 開け放った窓から吹き抜けてゆく乾いた風が、私の体を素通りしていった。もはやからからという間抜けな音すらしなかった。私は理科室に置いてある骨格標本よりも、もっともっと空っぽな存在になってしまっていた。入院した私は、医師の丁寧な指導の下、治療を受け始めた。失くしたはずのパズルのピースが思いがけず部屋の隅から見つかるように、欠落した記憶がぽつりぽつりと蘇り始め、その記憶が、失くしたままでいた方がまだ幸せだったと思えるぐらいの恥ずかしさを伴いながら、私の頭の中で輪舞を繰り返し、私を心底苦しめた。幻覚を見る回数は次第に少なくなってゆき、代わりに悪夢に悩まされるようになった。幻覚から悪夢へ、うん、これはもちろん進歩なんだ。回復なんだ。

 ともかくよく眠った。眠りの中に溶けてしまうように毎日を過ごした。一旦、すべてを溶かし込んでからもう一度固め直す。それしかなかった。砕けた過去を貼り合わせる事にも、千切れた記憶を縫い合わせる事にも意味はなかった。溶かす。肝心なのはそこさ。味噌も、糞も、どろどろになるぐらい溶かし込んでしまい、そうしてその溶けたぬかるみの中から、また新たな人間となって這い出してくるんだ。

 しばらく治療に専念した後、再び仕事を始めた。病院の入り口に貼り出してあった「当分の間、休院します」と書かれた貼り紙を剥がすと、少しずつ、だが確実に患者は戻ってきた。有難いもんさ。元々仕事は丁寧だったし、うん、何より腕が良かったんだ。幻覚に脅される事も、悪夢にうなされる事も次第に少なくなってゆき、ようやく穏やかな日々が戻ってきた。その穏やかな日々はそれから十年ほども続いた。心臓をやられて死にかけるという体験をするまでの間、十年ほどもさ。

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