見出し画像

組曲Ⅲ 敗残の秋1

          ~ふたたび緒方隆明君へ

 熟れ落ちた果実が地面に出来た窪みに嵌り、そこが終の居場所となるように、さまざまなものの落ち着く場所が決まる、そんな季節が秋なのだとそう思いながら緒方隆は自分の部屋へと続くアパートの外階段を上がった。玄関横の磨りガラスから覗く部屋の中は仄暗く、緒方は物音を立てないように気遣いながら静かにドアの把手を引いた。一番小さな電球が放つ黄色い光が、部屋の中に雑然と並ぶ様々な物の輪郭を薄闇の中に柔らかく浮かび上がらせている。微かな寝息に耳を澄ませながらベッドを覗き込むと、なつめはすっかり眠っていた。寝間着代わりに着ているグレーのトレーナーに書かれたアルファベットの文字が、寝息に合わせてゆっくりと上下する。なつめがこの部屋にやって来た日からずっと着ているそのトレーナーもすっかりくたびれてきた。もうそろそろ新しいものを買ってあげないといけないなどと思いながら、乱れた毛布をそっと掛け直し、起こさないように気遣いながら着ていたジャケットを脱いだ。

 小さな電球一つを灯したまま、冷蔵庫から氷を取り出し、大き目のグラスに放り込むと、そのグラスにウイスキーをなみなみと注ぐ。ぱちっと氷の割れる音が、薄暗い部屋に思いの外大きく響き、なつめが軽く寝返りを打つ。椅子に凭れ、なつめの寝姿を見ていると、何故だろう、いつも切なくて堪らなくなる。子供など持った事がない。いや、結婚すらした事がなかった。時折は女と暮らす事もあったが、そんな生活が長続きする事などなく、女が自分の元を去って行くたびに、自分には一人の女を幸せにする才能が、いや、それ以前に普通の人生を送る才能すらないのだと思い知った。人生の多くを一人で過ごしてきた自分が今、どういう訳だか一人の少女と同居している。その少女の事がただ愛おしかった。娘と暮らすというのはこんな感じなのだろうかと何度も思った。

 なつめの寝息に耳を澄ましながら杯を重ねるうちに、いつの間にか仕事の事を考えていた。街の小さな音楽教室でサキソフォーンを教える、それが今の緒方の仕事だった。代わる代わる訪れる三十人ほどの生徒に、手取り足取りサキソフォーンを教える。楽しくて堪らないという事もないが、かといって嫌な事がある訳でもない。一日の仕事を終えてほっとした顔の会社員やOLに、学校帰りの学生たちに、あるいは退職し、老後という新しい人生を楽しむ老人たちに丁寧にサキソフォーンの奏法を教える、時折は退屈さを感じる事もあるが、何より穏やかな毎日を送っていた。

 今、こうして手に入れた穏やかな暮らしが本当に幸せなものがどうか、それは緒方自身にもわからなかった、だからといって自分にはもっと他にやるべき事があるのではないかと、そう自身に問うてみるには、今の緒方はあまりにも疲れすぎていた。正直に言うと、穏やかな暮らしを手に入れたというよりは、まるで台の上を転げまわるビリヤードの玉のように、ありとあらゆる所で衝突を繰り返した挙句、とうとう嵌まり込んでしまった穴倉のように今の新しい暮らしを感じていた。今の自分を一言で表すならば「成れの果て」、その言葉が相応しいのではないかとそう思い、寂しく笑う事もたびたびだった。

 物心ついた時から周囲の誰とも馴染む事ができなかった。違和感。自分が他の誰とも違っていて、誰からも受け入れられる事などないのではないかという不安、まるで産着の代わりにその違和感というものを纏って生まれてきたのではないのかと思うほど、緒方は自分を取り巻くすべてに馴染む事ができなかった。幼い頃はただただ自分の内に籠り、誰に話しかけられてもろくに返事すらできなかった緒方の事を、両親を始め、まわりの大人たちは、この子は一生言葉を話せるようにならないのではないかと本気で心配したほどだった。だが中学に入り、ふとしたきっかけで手にしたサキソフォーンという楽器がすべてを変えてしまった。来る日も来る日も憑りつかれたようにサキソフォーンをさらい、やがて上達するにつれ、自分の存在に自信を持ち始めた緒方は、長年内に秘めていた違和感を外に向かって吐き出すようになった。自分が世間に対して異質なのではなく、世間が自分に対して異質なのだと、そう思うようになったのだ。自分が他者に持つ違和感、その違和感はしだいに攻撃性というものに姿を変えていった。さらに過激に音楽というものを突き詰めてゆくうちに、次第に回りの誰もがだらしなく、中途半端に生きているように思えてきて、緒方は誰彼構わず毒づくようになってしまった。その挙句、すっかり周囲の誰からも嫌われ、孤立してしまった。いつしか誰もが緒方の事を、手の付けられない独りよがりの偏屈者だと思うようになっていた。

 生まれ育ったのは四方を山に囲まれた小さな街だった。その街の小ささゆえに自分が受け入れられないのだと勝手に思い込み、緒方は高校を卒業すると同時に上京した。もちろん都会で暮らし始めたからと言って何か根本的なものが変わる訳ではない。他人に対する攻撃性が弱まるなどという事があろうはずもなく、新しい街でも敵は増えるばかりだった。

 自身の頑なさを棚に上げた緒方はすっかり不貞腐れ、その性格はますます意固地になってゆく。それから二十数年、なんとかサキソフォーンで生計を立てられるようになった緒方のその偏屈ぶりは、さらに際立ったものになっていったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?