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組曲Ⅱ 夏の夜の白い花6

 これはまた別の話。といってもスナックの客とのトラブルの話って訳じゃない。綾のアパートがある辺り、そこはあまり柄が良いと言える場所じゃあなかった。アパートから歩いて十分ほどのところにあるJRの駅、その駅の裏手、そこがなかなかの風情なんだ。流行りの言葉を借りるならレトロ、普通に言うならば昭和のうらぶれた飲み屋街ってなところさ。街灯の少ない薄暗い路地に、つぶれかけたようなスナックや、居酒屋が並んでいた。その居酒屋もバラックのような作りで、終戦直後の闇市を描いた映画のセットかと見紛うような掘立小屋が数件、互いに互いを支え合うように並んで建っていた。客たちは夏になると、その小屋の前に椅子やテーブルを引っぱり出して、上半身裸のまま焼酎を呷った。たまたま通りかかったのが気真面目そうなサラリーマンだったり、大人しそうな学生だったりすると金をせびり、それが若い女なら口笛を吹いて冷やかし、聞くに耐えないような卑猥な言葉を投げ掛ける。子を持つ親たちは、可愛い我が子がその駅裏の路地に入り込む事を固く禁じていた。

 もちろん綾だってその界隈の事はよく知っていた。それでも急いでいる時にはしょうがなくそこを通り抜けた。大いに近道になるんだ。その日、たまたまその路地を通り抜ける事になった綾は、そこで飲んでいた労務者風の男と偶然に目が合ってしまったらしい。速足に通り抜けようとする綾を、男が大声で冷やかす。最初は上機嫌だった。「よっ、そこの可愛いお姉ちゃん、○○〇が×××だよお」ってなもんさ。綾がその声を無視して走り去ろうと足を速めると、女の逃げる姿が面白いのか、冷やかしの言葉を掛けながら後を追ってきたという。追ってくるうちに、次第に無視されている事に対しての怒りが込み上げてきたらしく、いつの間にかからかう声が怒声になっていた。アパートの前までついてきた男は、部屋に飛び込んだ綾が急いで内側から鍵を掛けたそのドアを、大きな音を立て、手当たり次第に叩き出したんだ。

 俺?俺はその時、行きつけのパチンコ屋でなかなか攻略できない台と取っ組み合っている最中だった。突然「お客様で○○町の香田様、香田盛一様、お電話が入っております・・・」。いきなりの店内放送にぎょっとしたね。うん、綾は俺がパチンコ屋にいるだろうと当りをつけ電話してきたんだ。慌ててカウンターに走り、店員から受話器を受け取る。受け取った受話器の向こうでは、綾がパニック状態になっていた。要領を得ないまま早口で捲し立てる綾、その綾の背後から激しい怒鳴り声、がんがんとドアを叩きまくる音、俺は一瞬で頭に血が昇った。打っていた台もそのままに放り出し、パチンコ屋を飛び出した。部屋に向かって全力で駆け戻る途中、弁当屋の脇にあるプロパンガスのボンベの横に転がっていた鉄パイプを見つけ、これ幸いと拾い上げた。よし、この鉄パイプで綾を困らせている野郎の脳天を叩き割ってやろう。

 アパートの前にはちょいとした人だかりができていた。外階段を上って一番奥の部屋、人だかりの後ろから二階の一番奥にある綾の部屋を見上げると、すでに三四人の警察官が駆け付けていて、酔っ払っているらしい初老の男とすったもんだしている。警察官の背後では、その酔っ払いから半分身を隠すように立つ綾が、半べそをかいたような顔をしていた。俺はそこに集まり、好奇心一杯の阿保面で事の成り行きを見守っているご近所さんたちを掻き分け、ちょいとごめんよ、どいてくれ、通してくれと階段を駆け上がる。おっと警察官の前でこれはまずいなと、拾ったばかりの鉄パイプを草藪に投げ捨てた。

 意味のない事を喚き散らす酔っ払いの男、そこにいるその酔っ払い以外の人間はすべてうんざりしていた。ようやく喚き疲れ、警察官に両脇を抱えられたまま去ってゆく酔っ払い。ガキのように震えている綾。俺は綾の肩を抱いて部屋に連れて行った。そうしてさ・・・、ああ、もう何だか、すべてが嫌になってしまったんだ。うん、分かった。俺ももうヒモみたいな生活を止める。ちゃんと働く。綾にも夜の仕事を辞めさせ、もうちょっと環境のいいところに部屋を借りて・・・うん、きちんと籍をいれようじゃないか。そう決心したんだ。 

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