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組曲Ⅱ 夏の夜の白い花7

 思い出してみると随分とだらしのない暮らしをしていたもんだ。綾と一緒になる前の俺は。駄々洩れの下半身を持て余しながらさ。俺の下半身、そこにぶら下がっている天秤棒、そいつは俺のお先棒として、時には俺自身の意志よりもはるかに強大な力を持ってさんざん俺を振り回し続けたんだ。

 酒屋の店先か、安い居酒屋で一杯引っ掛けると、まだ独り身だった頃の俺は、次の店に行こうという同僚たちの誘いを断って、一人別の店に出掛けた。女の匂いのする店へ。その時々で行きつけのバーや、スナックがあり、その店のカウンターの中にいる女や、時にはその店の女性客ともいい仲になった。といってももちろん色男風に「もてる」ってな感じじゃあなかった。頭の回転も鈍く、材木から鉈一本で掘り出したようないかつい顔と体をした俺だが、何となく全身から滲み出てくるだらしなさが、情けなさが、なぜか女を惹きつけるらしかった。ある店のママは「あんたを見てると何だか図体ばかりが大きくて不器用な野良犬みたいでさあ、何だか放っておけなくなるんだよねえ」と笑った。酔い潰れて目を覚ますと、前の晩にカウンターの中で笑っていた女の部屋にいたなんて事もたびたびあり、そういう女たちの情夫だか愛人だか、ともかく嫉妬に怒り狂った男たちと悶着を起こしたなんて事も一度じゃなかった。

 そういえばやくざの女に手を出しかけてしまった事もあった。迂闊だった。その女、その界隈ではちょいと知られた女だったんだ。やくざの愛人でありながらも下半身は俺と同じく駄々洩れ。まったく傍迷惑な女さ。飲み屋ばかりが入った集合ビルの中の一軒、あまり質の良くないスナックで働いていた。最初は俺も警戒していたさ。ああ、でも駄目だね。酒が程よく回り、俺の下半身が熱を持って次第に膨張してくると。さあ、俺の自慢のお先棒が動き出した。むずむずむずむず・・・。ささやかな俺の理性は、女が吐いた「今日はうちの人、絶対に来ない日だから」という言葉に、いとも簡単に打ち砕かれた。女の後からふらふらと従いて行ったんだ。女のマンション、その女がやくざと営む愛の巣へと。女は黒革のブーツにヒョウ柄のミニスカート、薄手のVネックのセーターの上に真っ白な厚手の毛皮のコートを羽織るという、まるで寒いのか暑いのか分からない珍妙な格好をしていた。一歩進む毎に左右に揺れる女の小ぶりな尻を眺めながら、その頓珍漢な格好は、見てくれを何より大切にするやくざの女ならではのものなのだろうと妙に納得した。

 不幸中の幸いという事があるとすれば、それは俺が服を脱ぐ前だったってな事だな。炬燵に入り、女が注いでくれたビールを一口飲んだその時、玄関のドアが開く音がして、いきなり酔っ払った男の胴間声が響いた。まずい、しくじった、そう思った時には遅かった。もうどうしようもなかった。部屋に入ってきた男はどこからどうみてもその筋の御方だった。女にマンションを買い与えるぐらいだからかなり歳もいっているのだろう、真っ白な髪に、だがしっかりとパンチパーマをあてていた。肝臓でも悪くしているのだろうか、どす黒い顔色、真っ白いスーツの下には黒いワイシャツ、一瞬、写真のネガみたいだと笑いそうになったが、いつも心のどこかで物事に対し真剣になり切れない自分を慌てて叱り飛ばした。いやいや、今はそんな呑気な事を考えている場合じゃないんだ。

 俺は額の皮が擦り剝けるぐらいに土下座を繰り返させられた。それから外に連れ出され、マンションの前を流れる大きな川に入るように命じられた。随分と寒い日だったが、ああ、もちろん何の躊躇う事もなく俺は川に入ったさ。ずぶずぶと腰までね。入ってみるまではさぞかし冷たいだろうと思っていたその川の水を、そうは感じなかった。冷たいと感じる代わりに体中に痛みが走った。じんじんと体が痺れ、たちまち感覚が失われてゆく。土手の上から見下ろしているやくざが、俺に走れと叫んだ。せせら笑いながら。そして戸惑う俺の一メートルほど右に、いきなりピストルを打ち込みやがったんだ。思わず反射的に体が動き、そのままやけくそのように川の中を走り回った。猫がネズミをいたぶるように、わざと狙いを外しながら二発、三発と弾を打ち込んでくる。ヒステリックに笑いながら。その様子を女が、感情などまったく持っていない蝋人形のような蒼白な顔でじっと見つめていた。

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