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組曲Ⅲ 敗残の秋8

 なつめはよく熱を出した。自分は元からちょっとしたことですぐに熱を出すような子供だったから心配はいらないと言うが、頬を赤く染め、半開きの口で、はあはあと息の音を立てながら呼吸をするなつめを見ているのは辛かった。急な発熱にすっかり食欲を奪われてしまったなつめのために、作り立てのお粥をスプーンで食べさせようとする緒方のその手をやんわりと押しのけながら、目を閉じ、「ごめん、後で食べるから・・・」と弱々しく首を横に振る。

 なつめを苦しめる突然の熱は、だが夕方にはいつも下がった。嘘のように気分がよくなったと笑うなつめを、緒方は散歩に連れ出すのが常だった。近くの公園や駅前の商店街、一駅分ほども離れたところにある河川敷の広場、二人肩を並べ、次第に夕暮れに染まってゆく街並みを眺めながら、あてもなく歩き回った。心地よく乾いた風がなつめの頬を撫で、肩までも届かない栗色の髪がその風になびく。緒方は今の自分が誰よりも幸せに思えた。

 時には散歩からの帰り道に、馴染みの小料理屋に寄ることもあった。店の主人がなつめの顔を見て大袈裟に驚いてみせる。

「へえ、緒方さん、こんなに大きな娘さんがいたんだね」

 なつめと店の主人が他愛のない言葉をやりとりし、「これ、可愛いお嬢ちゃんにサービスだよ」と笑いながらいろいろな小鉢を出してくれる。これまで酒肴など一度も口にしたことなどなかったのであろうなつめが、いちいち小料理屋で出される料理の味に驚く様子を眺めながら、緒方は何となく自分の人生というものが、少しずつではあるが良い方に向かっているような気がしていた。

 

 なつめを運んできたその夏は、だが世の中にとてつもなく厳しい暑さをもたらした。天空から地面に向かって垂直に、終わりのない落下を繰り返す光の粒子は、礫のように人々の、いや、人だけではなく地上に生きるものすべてを打ち据えた。誰もが人生の重荷でも背負うかのようにその夏の暑さを背負い、熱に膨れた大気の重みにうなだれたままとぼとぼと歩き続け、立ち止まると自分の影が、たちまち日光写真のように地面に焼き付けられるさまを見て怯えた。干からびたアスファルトにはぱりぱりと罅が入り、その罅からは凄まじい勢いで青々とした夏草が飛び出してきた。ありとあらゆる種類の樹木の枝には、ありとあらゆる種類の蝉が、魚の鱗のようにびっしりとへばりつき、その蝉たちが一斉に吹き鳴らす壮大なファンファーレに人々の頭はじんじんと痺れた。

 空が俄かに掻き曇る。さっきまで見上げるとくらくらするほど真っ青だった空を塗り潰すように漆黒の雲が沸き立つと、いきなり夕立に見舞われた。窓からその様子を眺めていた緒方となつめは、慌てふためきながら傘も持たずに夕立という名の豪雨の中へと飛び込んでゆくのだった。そうさ、夕立、これこそが夏の愉楽。天然のシャワー。街がそのまま巨大な遊園地へと変貌する瞬間だ。そこに在るあらゆるものを圧し潰してしまうかのような強大な水圧に、なつめは背が縮んでしまうのではないかと怯えた。雨と雨の間にも雨が降り込み、人々の視線をも遮ってしまうそれは、まるで水で作られた分厚いカーテンそのものだった。突然街中に姿を現した大瀑布。その大瀑布が一瞬にして光り輝く。鋭い雷光。それに続くのはもちろん大地を揺るがすような雷鳴。がくがくと街が揺れる。その振動する大地を覆い尽しているのは、水捌けが悪い都会の道路で行き場を失ってしまった水だ。たちまち街は悠久の大河となる。緒方となつめはその強い流れに、部屋を出る時に急いで引っ掛けたサンダルを奪われ、二人とも裸足で帰り着いた日もあった。

 

 強烈な陽射しと凶暴な雨、それらに弄ばれるように過ごした夏にもようやく翳りが見え始めた。ふと見上げた空の空気がいつの間にか澄み始めている事に気づく朝がある。季節、それは空から次第に移ろってゆくものなのだ。地面にぐずぐずとへばりついている夏の残滓のような熱気を、何度も繰り返し訪れる野分の風が吹き払うと、目に映る風景はいつの間にかすっかり秋の空気の中に沈んでいた。空の彼方でうねり続けていた大気が、今では静謐の中に澄む。夏の盛りには少女そのものだったなつめの表情も次第に淡い翳りを帯び、大人の姿を垣間見せるようになった。緒方のちょっとした喜びや、ささやかな悲しみを自らの方へと手繰り寄せ、それらを自身の事として受け止める。成熟、その時がなつめにも訪れ始めていた。

 

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