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組曲Ⅲ 敗残の秋5

 隣の席で飲んでいる吉開の呂律が少し怪しくなってきた。吉開も昔と比べると随分と酒が弱くなったと思ったが、それでも決して質の悪い酔い方はしなかった。その吉開が緒方の肩にもたれるように手を掛けた。

「ねえ、緒方さん、もう一度、昔みたいに一緒にライブをやりましょうよ」

 緒方は「ん・・・」と意味のない声を漏らしただけで、まともに返事をする事もなく、焼酎を呷り続ける。吉開の行きつけの小料理屋のカウンターの向こうで、馴染みの主人が吉開のだらしない酔い方を見て片頬を歪め、声を出さずに笑う。

まだ学生だった吉開は、鋭い刃物のような切れ味を持つ緒方の音に惚れこんでいて、最初はその激しい演奏を客として聴いていたが、いつの間にか緒方の背後でドラムを叩くようになっていた。

「ねえ、また一緒に演奏しましょうよってば・・・」

 別に演奏したくない訳でなかった。だからといって、また人前で演奏したいという気持ちが湧き上がってくる訳でもなかった、ただそれだけの事だ。演奏するということが、自分の中にある熱のようなものを外に向けて放つ行為ならば、今の自分にはその熱のようなものがすっかり消え去ってしまったのだろうと緒方はそう思った。まだ田舎にいる頃、多くのサキソフォーン奏者と同じく、誰もが知る有名なプレイヤーたちの真似をひたすら繰り返す事で技を磨いた。だがある日、自分の体の奥から噴き出す何かが、自分の拙い技に収まり切れなくなってしまい、そうして旋律も、リズムも、コードもすべて投げ出し、驚き、困惑する共演者たちを顧みる事もなく、気持ちの赴くままに音を撒き散らし始めた。 

 フリージャズと呼ばれるスタイルに足を踏み入れた瞬間だった。まるで何かに憑りつかれているかのような激しい演奏は、美しい旋律や、甘いコードに酔うためにライブに訪れる多くの客たちを苦々しい気持ちにさせたが、それでも観念に振り回されるように音楽を聴く一部の若者を強く惹きつけた。そんな若者の中に吉開もいた。若さに溢れ、純粋な観念の中に生きるという、若者だけに赦された特権を謳歌していた吉開は、はしかを患うように、たちまち緒方の音楽や思想に心酔した。客の姿などほとんどないジャズ喫茶やライブハウスで、見えない客に向かって叫ぶようにサキソフォーンを鳴らし続ける緒方、その背後で緒方を支えるように、時には絡みつくように、激しくドラムを叩き続ける吉開、その頃の緒方には、吉開以外の共演者はもうほとんどいなかった。だが、ある日、そんな吉開の前から、ふと緒方は姿を消した。

 

「そういえば、あれ、十年ぐらい前かな。緒方さん、突然いなくなりましたよね。あれは一体どういう事だったんですか」いささか非難めいた口調だった。酔いにまかせて訊き辛らかった事を訊いてしまったという感じだ。確かに十年ほど前、緒方はある日突然、吉開の前から、いや、吉開がどうという訳ではなく、単にその時住んでいた街から消えてしまったのだが、緒方にしてみればそんなに深い理由があったという訳ではなかった。緒方の祖父が亡くなり、思ってもみなかった遺産を受け取ったのだ。二三年ほども遊んで暮らせるような額の遺産を手に、誰にも告げる事なくふらりと旅に出た緒方は、サキソフォーンをぶら下げて太平洋沿いに南に下り、この国の南端に辿り着くと、そこから踵を返すように日本海に沿って北へと上った。いきなり飛び込んだジャズ喫茶や、ライブハウスで演奏させてもらったり、時には路上で、通行人たちの好奇な目に晒されながらサキソフォーンを吹き鳴らし、その腕を磨き続けた。そんな緒方が、ある時から女と二人、旅に暮らすようになった。

 

 女は腕のいいピアニストで名前を真樹といった。電車の窓から眺める景色に魅かれ、ふらりと降り立った小さな街、日本海を見下ろす高台にあるその街の公園で、海に向かってサキソフォーンを吹き鳴らす緒方に、親しみを込めて話しかけてきた学生がいた。誘われ、その学生が働いているジャズ喫茶に行き、そこでウエイトレスをしながらピアノを弾いている真樹とセッションする事になった。ほとんど言葉を交わす事などなかったが最初の一音で、たった一つの音を絡め合わせただけで、緒方と真樹は互いにすべてをわかり合えたと確信した。緒方は夜毎その店に現れ、真樹と二人のセッションをくりかえし、次第に深まってゆく絆に引き抗うすべもなくなった二人は、その絆に引き摺られるかのように突然街を出た。まるで駆け落ちする男女のように手に手を取り合い、まだ夜も明けきらない早朝の列車に乗って。真樹はその街で最初に緒方に声を掛けてきた学生の恋人だった。その学生に悪い事をしたとは思ったが、他に選択肢はなかった。真樹と一緒にならないなんて。そうして二人、旅芸人のような暮らしが始まった。

 たちまち日常という言葉は消え去り、代わりに非日常としかいいようのない、異常なほどテンションの高い日々が現れた。いきなり灼熱の只中に投げ込まれたかのようだった。毎夜毎夜、二人は行き着く街で、互いを斬りつけ合うような演奏を繰り返し、宿に帰り着くと貪るように体を絡め合った。互いに互いを激しく求め合ったが、どこまで求め続けても終わりがなかった。いつかどちらかが、どちらかを食い殺してしまうまで、この終わりのない求め合いを続けてゆくのだろうと、二人ともがそう感じていた。そうして二人だけの旅を二年ほども続け、心も身体も削り合った挙句、先に別れを切り出したのは真樹の方だった。毎日があまりにも激しく、濃密で、だがそれでいて二人が落ち着くべき未来はまったく見えなかった。もうこれ以上は我慢できない、もう一緒にはいられない、もうすべてが嫌だと泣き喚く真樹を、どこかの街の小さな駅に残し、緒方はひとり別の街へと旅立った。車窓から見るホーム、そのホームの片隅にあるベンチに蹲るように座った真樹の姿がしだいに遠ざかり、一人になった緒方は車内の手すりに顔をこすり付け、知恵の足りない男のようにあんぐりと口を開けたまま、それでも声を立てる事なく泣き続けた。そうだ、その日、ホームに置き去りにしたもの、それは単に真樹という一人の女ではなかった。愛情だとか、音楽だとか、いや、違う。そうだ、緒方は自らの手で自分自身を二つに裂いた、その自分の半身を残してきたのだとそう思った。

 それ以降、緒方から恋愛をする機能とでも呼ぶべきものが失われてしまったし、同時に演奏をする気力も失くしてしまった。人生というものを使い果たすには、僅か二年で充分なのだという事を強く思い知らされたのだった。それでもしばらくはサキソフォーンを吹き続けた。しかしそれは鮮烈だった真樹との演奏の残像を追い求めるような行為以上のものではなかった。過去の自分の姿を追い求める・・・自己模倣、そこに演奏する意味などない事に気づくのにさほど時間は掛からなかった。もはや新たに音楽を求める情熱は消え去っていた。緒方は何かに飽きるように、自分自身に飽きてしまったのだ。

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