外に見せるための自分でいるのはもう疲れた

この頃よく思う。自分らしく生きたい。
ありふれた言葉だとは思うけど、今の自分にとって多分大事な言葉。

忙しない日々

コロナ前までは、ずっと生き急いでいたように思う。何に急かされているのか分からないまま、平日の学校も土日に頑張っているスポーツも、どっちにも全力投球していた。
さらにバイトして、途中からサークルにも参加して、、。予定を詰めることしか知らなかった。体を労わったり休めたりすることを知らなかった。

これができたのは10代の若さがあったからだと思うし、その時しかできないことばかりを詰め込んでいたから、できる体力と気力がある時に色々経験できたのはある意味運が良かったとも思う。
ただ、一つだけ確実なのは、今はその時と同じように過ごすのは無理だということ。
その時みたいに、自分に厳しくして、自分で自分を満たせないから周りに認めてもらおうと頑張るとかいうことはもう無理かなと思う。

その時の思考

何かを頑張って、それで認めてもらうことが心の拠り所だったのかな。何かを頑張る最初のきっかけはそれでもいいかもしれないけど、
「人から認められなければ価値がない」とか、「人に認めてもらえるようにならないといけない」とか、どこからかそういう思考になり、外からの見え方をとても気にするようになっていた。

そうなると、自分がどうしたいか、どう思うかよりも、
周りにどう見られるか、どう評価されるかが判断の基準となり、それが無意識に当たり前となっていた。
それが、生活していてふと感じる、何かに縛られているかのような感覚の一つの原因だったのではないかと今では思う。

我慢の限界

ある時、
「めちゃくちゃ努力して、気を遣って、一本の細いレールの上を歩く人生は嫌だ!!」
と我慢しきれずに感情が爆発したことがあった。
でも、その時にはまだ完全には言語化できていなくて、何が原因でこうなっているのか分からなくて、何を変えれば現状が変わってくれるのかが分からなかった。

周りが自分に求める人生とか、周りに期待されていると私が勝手に思い込んでいた人生を生きようとすることに疲れて、「自分を生きたい」って思っていたのかなと、今ではそう言える。

一息ついた今

こうやってこれまでを振り返ると、少しは自分が望む方向に進んでいけているんだと実感できた。
あの、自分にとってはとても苦痛だった時間と比較すると、今は穏やかな時間が流れていることを感じられる。
でもそれは、自分が環境を変えたいと望んだからで、なんとか周りの大人を頼ることができたからで、そうやって動けた自分も褒めてあげたい。

自分で自分を認めてあげられないと、いずれ苦しくなり、自分で自分をケアしてあげられないと、続けられなくなることは痛いほど分かったから、
そういう考え方や環境を、少しずつ作っていきたい。

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