見出し画像

友と呼ばれた冬~第39話

 どこからか音楽が聞こえてきた。この音。何の曲だったろうか?

 そうだ、昔流行った海外ドラマの曲だ。懐かしい。

 あいつと二人で毎週見ていた。
「まさかあの人が裏切り者だったなんて」
 って、あいつはショックを受けていた。

 千尋はまだ小さかったから覚えてないだろうな・・・・・・。

 亡き妻と千尋の顔を思い浮かべた大野の頭に正気が戻りつつあった。

 違う。
 電話だ。あれは郷田の携帯電話の着信音だ。

 電子音が途絶えると再び絶望と恐怖に五感が囚われそうになる。

 警笛。護岸に打ち付ける波の音。 
 腹の底に響くような中型船のエンジン音。
 悪臭混じりの潮の香り。
 弱々しく差し込む細い光の筋。
 ズキズキと傷む手首と足首。

 控えめな静寂を打ち破るように再び電子音が鳴り渡る。

 郷田が居るのか?

 温かい記憶に郷田の狂気に歪んだ顔が汚く混ざり、大野の身体が恐怖に反応する。
 怯えたように辺りを見回すが、薄暗い室内には誰も居ない。

 二つの事務机と壊れかけた椅子。
 悪臭の漂う薄っぺらい毛布がベッドの上に丸まっている。
 裸電球。
 部屋の真ん中に置かれた脚立。

 郷田。
 大野は郷田がその脚立に登っている姿を思いだした。そしてその理由も。
 あいつはヤバい。

 大野がここに監禁されてから5日が経過しようとしていた。

 動け。郷田は居ない。

 今を逃したらもうチャンスはない。電話だ。探せ、早く、探せ。

 ベッドから足を下ろし、歩こうとしたが顔面から派手に転んだ。きつく縛られた両手両足の感覚が麻痺していたことすら忘れていた。

 鉄の味が鼻腔から喉元に広がる。苦痛で息が出来ない。
 涙が溢れてきた。猿轡を噛み締める。

 目をあげると目の前に脚立が見えた。

 顎を乗せ膝をつき何とか立ち上がるが、衰弱した身体に力が入らない。

 電話が鳴っていたのはあのアルミのドアの向こう側だ。

 誰か居るのだろうか?郷田か?

 誰も居ない。
 さっきあれだけ派手に音を立てて転んでも誰も出てこなかったじゃないか。

 脚立はなんの役にも立たない。ゆっくりと横たわり、そのまま横に身体を回転させながらドアへと近づいた。

 傷みの激しいベニヤ板の床からささくれやトゲが飛び出している。埃と汗で汚れたシャツの薄い生地を突き破り、皮膚に容赦なく刺さってくる。

 こんなに弱っていても痛覚は無くならない。

 ようやくドアの前まで転がってきた。壁に背中をつけて足を踏ん張り身体をずりあげた。
 後ろ手に縛られた両腕でドアノブを回して押し開くと、身体ごと中に倒れこんだ。

 後頭部を強かに打ちつけ、折れた鼻に激痛が走る。カラカラの身体から涙が出てくる。
 身体を反転させ向きを変えると洗面台の下に落ちている携帯電話を見つけた。

 よし!よし!やったぞ!

 だが、後ろ手では何もできない。

 立ち上がった。洗面台の鏡が粉々になっている。
 時折郷田が叫んでいるのは覚えていた。会社では見ない郷田の狂気。

 大野は大きめの鏡の破片を手探りで掴み取った。
 右手の指先で破片を握り、両手首の間に出来た隙間に差し入れた。

 力を入れると指の腹に食い込んで血が流れだすのがわかった。
 落としたら面倒だ。慎重に。大胆に。
 結束バンドに破片を擦りつける。

 結束バンドはあっけなく切れた。
 長い事放置されていたから劣化していたのだろうか。
 
 蛇口を捻るとせき込むような音が聞こえ、赤さび色の水が出て来た。
 暫くすると濁りは消えて安定した水の流れに変わった。
 指先の切り傷は思ったより浅かった。
 
 自由になった手で猿轡を外し、口の中に溜まった不快な血を吐き出した。
 透明な水を手で掬い、何度も何度も口を漱いでから吸い込むように手のひらの水を飲んだ。
 
 顔を洗って鏡を見た。
 酷い顔だ。腫れあがった瞼を見て郷田に殴られたことを思いだした。
 憎しみと怒りが大野の身体に活を入れる。

 足を縛られたロープは頑強だったが根気よく擦り続けて切ることができた。
 携帯電話を拾い上げ、ぎこちなく歩きながらベッドに戻って腰掛けた。
 二件の着信通知が出ていたが登録されていない番号なのか、電話番号がそのまま表示されていた。
 記憶にない電話番号だ。

 郷田の携帯電話のロックは4桁の数字入力式だった。
 郷田の無線番号を思いだそうとしてみたが、そもそも郷田とは何の接点もなかった。思い出せない。

 暫く携帯電話を眺めていた大野は笑い出した。
 せっかく手にしたのに使えないのか。

 緊急通報をかけようかと思ったが、真山や千尋の現状がわからない今は無暗に警察に通報しない方が良い。 
 大声を出そうかと思ったが外の様子もわからない。

「慎重かつ大胆に」

 真山がよく言っていた言葉が大野の支えになっていた。

 小さなキッチンを漁ったが何も食糧は見つけられなかった。
 事務机の上に、食べ残しのスナック菓子を見つけた。
 すっかり湿気ていたが傷んではいなかった。むさぼるように食べた。

 ドアも窓も施錠されていた。
 脚立を畳んで回収し、ドアの前に横たえて置いた。

 チャンスを待つ。


 大野はベッドから回収した毛布にくるまり、入口ドアの脇にうずくまった。
 息を潜めて獲物を待つ獣のように。



第38話

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?