Ⅰー23. 飢えた記憶がない戦場:メコンデルタのチャーヴィン省
ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(23)
★2012年8月19日~9月2日:ホーチミン市、ティエンザン省、チャーヴィン省、ハノイ市
見出し画像:グエン・ティー(Nguyễn Thi)原作の有名な小説『銃を握る母親』の表紙。この小説のモデルとなった女性英雄グエン・ティ・ウット・ティック(Nguyễn Thị Út Tịch:1931-1968)は、今回の調査地チャーヴィン省カウケー県の出身。
はじめに
今回は南部メコンデルタのチャーヴィン省で聞き取り調査をおこなった。
8月19日に日本を発ち、タンソニャット空港着。ホーチミン市市内のホテルに投宿。8月20日午前にクチ・トンネルを参観し、午後は戦争証跡博物館へ。8月21日、ミトに日帰り旅行。8月22日朝、チョロンの天后宮に行った後、カンゾーの海辺へ。マングローブの森の中のベトコン基地(Căn Cứ Rừng Sác)跡を見学。ここはマネキンを多用し再現しているのが特徴。
8月23日午前、ホーチミン作戦博物館を見学。午後、指導しているベトナム人の大学院生とJETROを訪問し、夕方にその院生の自宅に招かれ、夕食をご馳走になる。8月24日午前、ホーチミン市人文社会科学大学に行き、何人かの先生に会う。8月26日、相棒のダイ氏がホーチミン市に到着。8月27日朝6時、ホーチミン人文社会科学大学のザン先生の車でチャーヴィン省に向かう。途中、ミトで朝食をとり、10時頃、チャーヴィン市に到着。午後、同省人民委員会と同省退役軍人会に挨拶し、3時半頃、チャーヴィン市を出発し、同省西部のカウケー(Cầu Kè)県へ向かう。5時半頃、カウケー市に到着し、同県人民委員会のゲスト・ハウスに投宿。夜、同県退役軍人会関係者と夕食。
ここのゲスト・ハウスは、部屋にテレビなし、シャワーに熱湯なしだった。近くの雑貨屋でトイレットペーパー、石鹸、タオルなどを購入した。毎朝、朝5時から大音声の拡声器でラジオ放送があり、たたき起こされた。ラジオ放送にはクメール語放送もあった。チャーヴィン省は総人口が101万9258人(2022年)で、クメール人が人口の31.5%を占める(Quân đội nhân dân 16-10-2022 による)。しかし街中の看板などにクメール語のものは見かけなかった。
8月28日~8月31日までインタビューを実施。9月1日朝7時20分にゲストハウスをバスで出発。11時20分頃、ホーチミン市のバスターミナルに到着。翌2日にホーチミン市を離れ、空路でハノイ市に移動。9月5日午前、ハノイ人文社会科学大学学長と面談。同学長および専修大学S先生と昼食。同日深夜便にて帰国。
(1)チャーヴィン省カウケー県での聞き取り調査
今回はカウケー県退役軍人会事務所において20人に聞き取り調査をおこなった。カウケー県はベトナム戦争中、チャーヴィン省党委の拠点が置かれていたところである。インタビュイーの20人は全員男性の退役軍人(兵士、武装公安、ゲリラ)で、現在はカウケー県在住者である。カントー市とヴィンロン省出身者がそれぞれ1人いるが、いずれも近隣であり、ほぼ地元出身といってもいい。また、兵士・武装公安であってもその前後にゲリラを経験している人が多いのが特徴である。以下はインタビュイーの一覧である。記載事項は、名前、生年、現住所、入隊年(ゲリラへの入隊を含む)、階級、入党年、備考、である。順番はインタビュー順。⑫は唯一のクメール族で、あとの人はキン族である。
①チャン、1941年、フォンタイン社、1956年(ゲリラ)、大尉、1961年
②フオック、1952年、アンフータン社、1969年、上士、?(82年再入党)
③タック、1951年、タインフー社、1970年(ゲリラ)、?
④チュン、1946年、フォンタイン社、1960年、上尉、1965年
⑤チュウ、1953年、フォンタイン社、1971年(ゲリラ)、?、1979年
⑥レー、1955年、タムガイ社、1971年、少尉、1972年、少生軍を経験
⑦カム、1951年、ホアタン社、1968年、?、1972年、医療兵
⑧タイン、1932年、タムガイ社、1948年、准尉、?、北に集結
⑨ベー、1949年、タムガイ社、1968年、少佐、?
⑩クアン、1946年、カウケー市、1960年(ゲリラ)、少尉、1965年
⑪ミー、1948年、ホアアン社、1968年(ゲリラ)、?、?
⑫ソン、1949年、チャウディエン社、1969年、?、1971年、クメール族
⑬ソーム、1955年、ニントーイ社、1971年、?、?
⑭チン、1931年、ホアタン社、1950年、副大隊長クラス、1960年、北に集結
⑮ゼー、1933年、ホアタン社、1950年(ゲリラ)、大隊長クラス、1957年、北に集結する予定だったが留まる
⑯フム、1945年、タインフー社、1963年、大隊長クラス、1970年
⑰ヒエップ、1949年、トンホア社、1968年、中尉、?
⑱ネーン、1943年、フォンフー社、1961年(ゲリラ)、?、1967年
⑲チュー、1942年、ニントーイ社、1960年(ゲリラ)、?、1967年
⑳チャイン、1948年、アンフータン社、1964年(ゲリラ)、?、?
兵士にはならずゲリラのみで終始しているのがタック(③)とチャイン(⑳)の2人である。逆に兵士のみでゲリラを経験していないのは、レー(⑥)、カム(⑦)、タイン(⑧)、ベー(⑨)、ソン(⑫)(社の公安)、ヒエップ(⑰)(武装公安)の6人である。あとの12人は、ゲリラを経て兵士になったか(9人)、兵士をやめてからゲリラになっている。階級で「大隊長クラス(đại đội bậc trưởng)」とあるのは、南部の地方軍などでは階級が明確に定められていない場合があり、「・・相当」という意味で「クラス」が付け加えられている。南部の地方軍が、階級に比較的頓着しなかったことを物語っている。
(2)抗仏戦争期と北への「集結」の記憶
抗仏戦争を兵士・ゲリラで経験しているのは、タイン(⑧)、チン(⑭)、ゼー(⑮)の3人である。そのうちタインとチンは停戦後に北に「集結」している。
タイン(⑧)は、1948年にカウケー県の部隊に入隊した。同部隊は2個小隊あり、銃はなかったが、手りゅう弾はあった。2・3年して旧日本軍の歩兵銃を支給された。他の人たちはフランス製の銃だった。服は自前で食事は民家で摂った。後に各兵士はモミを約40キロ受け取れるようになった。
停戦後、1954年11月に北部へ「集結」した。カマウから出港しタインホア省サムソンに着くと、中国製の服と靴が支給された。兵士たちはそれまで裸足だった。北部での軍隊削減の動きを受けて、1960~1966年はスアンマイ農場で働き、その時に結婚した。1966年に軍隊に復帰し、越北軍区の第250B師団に配属された。その頃、越北軍区は自治区で司令官はバン・ザン(Bằng Giang)少将とチュー・ヴァン・タン(Chu Văn Tấn)上将の二人いた。タイン(⑧)は体が弱く、北部で結婚していたこともあり、ベトナム戦争中は南部には戻らなかった。戦後の1975年10月にチャーヴィンに戻った。
チン(⑭)は、1950年、カンボジアの越僑の抗戦呼びかけに応じヴィンロンで入隊した。ハティエンに行き、カンボジア西北第140部隊に配属になった。制服はなかったが、食糧は潤沢だった。最初は中隊規模だったが大隊規模になり、バッタンバンへ向かった。カンボジアのソン・ゴック・ミン(Sơn Ngọc Minh カンボジア名はAchar Mean:1920-1972:母親がベトナム人、チャーヴィン出身)政権を支援するためであった。同大隊は400人余り。停戦後、ヴンタウから北に「集結」した。ソン・ゴック・ミンも北ベトナムに「集結」・亡命した。チン(⑭)は1963年に南部に戻った。
ゼー(⑮)は1950年にアンフータン社のゲリラになった。1954年、北に「集結」する予定であったが、隠した武器の保管のため居残った。レー(⑥)とクアン(⑩)の父親も北に「集結」する予定であったが居残った。
(3)「政治闘争の6年間(1954ー1960年)」の記憶
この時期は政治闘争によって南北統一を目指していた時期であり、武装闘争は控えられていた。この時期に入隊したのはチャン(①)とゼー(⑮)である。
チャン(①)は1956年7月、15歳の時、フォンタイン社のゲリラになった。同社のゲリラは10人ぐらいだった。武器は最初は自家製の銃で、後に「集結」前に隠しておいたフランス製の銃が使われた。半月刀と手榴弾もあった。1959年にジェム政権は「稠密区」を社につくり、弾圧を強めた。この時期、ゲリラの勢力はまだ弱く、武器も貧弱だった。居場所は絶えず変え、幹部は秘密壕に入った。
ゼー(⑮)は1950年にアンフータン社のゲリラになった。北に「集結」せず居残った。1956年から「悪玉」へのテロが行なわれるようになり、宗教組織に偽装したテロ組織が結成され、県党委はゼーをその一員とした。1959年4月には、「集結」前に隠していた銃を取り出す省党委の決定がなされたという。当地では、武力による南部解放を方針とした労働党の労働党の15号決議(1959年1月)後に、武装蜂起への動きが表面化した。これ以降、隊は人数が増えて中隊規模となり、地方部隊に組み込まれ、ゼーは副中隊長そして中隊長となった。
クアン(⑩)の郷里はアンフータン社で、県党委の事務所がクアンの家に置かれていたこともあり、1958年の12歳の時からその活動の手伝いをしていた。彼によれば、「政治闘争の6年間」、ジェム政権の弾圧は強まったが、党の方針は革命勢力を温存するために弾圧から逃げるだけの「最も暗黒の時期」だった。北に「集結」しなかった居残り幹部が秘密活動をし、基礎組織を構築し、党員を増やそうと努めた。県党委が武装闘争の方針を打ち出したのは、1960年9月14日であった。
(4)1960年以降の部隊とゲリラの連携
1960年に武装闘争路線が明確になると、それ以降、ゲリラと兵士の徴募が活発化し、北への「集結」者も戻ってくるようになり、部隊とゲリラの連携が図られるようになった。
4-1. 1960年代前半にゲリラに参加した人
1960年代前半になってゲリラに参加したのは、クアン(⑩)、ソン(⑫)、ネーン(⑱)、チュー(⑲)、チャイン(⑳)の5人である。
クアン(⑩)は、1960年にアンフータン社内の邑隊長になり、1962~63年には社隊副隊長を務めた。ソン(⑫)は、ゲリラではないが1960年から仏教修行をしながら地元の革命活動に参加した。
ネーン(⑱)は、1961年にフォンフォー社のゲリラとなった。同社では1961~63年、銃は自家製銃とフランスの歩兵銃2丁のみだった。邑のゲリラは家に帰ってご飯を食べ、社のゲリラは集団で食事をしたという。同社は1961~63年の時期、サイゴン政府軍によって占領された。敵はクメール・セレイ(Khmer Serei)(注:チャーヴィン省生まれのクメール族ソン・ゴック・タイン[Sơn Ngọc Thành: 1908-1977]が率いる軍事組織)を使って攻撃したという。1963年末、ジェム政権が打倒され、社内の5つの邑が解放された。
チュー(⑲)は、1960年にニントーイ社のゲリラになり、宣伝隊長を務めた。チャイン(⑳)は、1964年にアンフータン社のゲリラとなり、ベトナム戦争終結まで同社でゲリラ活動を続けた。アンフータン社のゲリラは多い時で約20人で、最後まで生き残ったのは7・8人だという。銃や弾丸は自家製で、第3中団から壊れた銃を払い下げてもらったこともあるが、基本的に上級組織から支給されたことはなく自力更生だった。敵の銃を奪取して自分達の武器としたが、最新兵器は部隊に上納させられた。1960~63年頃、ゲリラは民家に宿泊してご飯を食べさせてもらったが、1964年頃から「解放負担」(注:これについては後述)による籾がゲリラ個々人に支給されるようになった。アンフータン社には女性のゲリラ小隊があり、社のゲリラの約30%は女性だったという。
4-2. 1960年代前半に部隊に入った人
1960年代前半に部隊に入隊したのは、チャン(①)、チュン(④)、クアン(⑩)、フム(⑯)の4人である。
チャン(①)は、1961年にゲリラから補充されて第9軍区の第6砲兵小団に入隊した。当時の装備は旧日本軍の75mm山砲、DKZ75mm、北朝鮮製のK.56で、後に82mm迫撃砲が加わったという。カマウに駐屯していたが、1967年にチャーヴィン・ヴィンロンに戻ってきた。
チュン(④)は、1960年にカウケー県隊に入隊した。100人以上の部隊だった。制服はなかった。銃はフランス製の銃で、10人中6人ぐらいしか行き渡らなかった。1963年にフォンタイン社に戻り、社のゲリラとなった。
クアン(⑩)は、社のゲリラをしていたが、1965年にカウケー県隊に補充された。
フム(⑯)は、1963年に主力軍の第3中団・第306小団に入隊した。入隊後、カマウで1年間訓練を受けた後、東南部の第9師団・第7中団に配属された。この部隊に1964~70年の7年間在籍し、その間、1968年のテト攻勢ではサイゴンを攻撃した。第9師団は北の兵士が多く、主たる基地はタイニンで、制服があり、銃弾も十分にあった。フムは、家庭の事情で1969年に郷里のタインフー社に戻り、社のゲリラとなった。その頃、同社のゲリラには銃がなく、部隊から壊れた銃を払い下げてもらい、修理して使った。敵からM.79を鹵獲した時には、部隊からK.2と交換するようにいわれた。
チャーヴィンにおける主力軍の一つ、第3中団は西南部最初の主力中団で1963年に成立した。北部に「集結」していたチン(⑭)を含む一団100人余りが1963年6月に南部に戻り、第3中団が成立した。(注:西南部で師団が成立したのはベトナム戦争終結後)
4-3. 1968年のテト攻勢
1965年から米軍の本格的なベトナムへの軍事介入が始まるが、当地の退役軍人達には、1965年が時期区分としてあまり意識されていないようである。チュン(④)によれば、当地には米軍はいたが少なく、戦闘機・戦車・船艇などを操縦している兵士だけで、B52の爆撃も多くなかったという。当地は河川の戦場で、敵味方が入り組んで存在し、部隊を大きく集中できず分散して攻撃せざるをえず、せいぜいが大隊規模での用兵となっていた。
そのような中で1968年のテト攻勢についての記憶は比較的鮮明である。チャン(①)は軍区の砲兵大隊に所属していたが前年に当地に戻り、第308小団に補充され、ヴィンロン市を攻撃した。テト攻勢中は中隊長で、生還したのは85人中25人という激戦だった。テト攻勢に際して入隊したのはベー(⑨)である。彼は第3中団に入隊した。ヒエップ(⑰)はカウケー県隊に入隊した。その時、県隊には3個大隊あり、各大隊は100人以上いた。銃は十分あったが、敵から奪取したもので、制服はなかった。ミー(⑪)もテト攻勢に際して動員され、ホアアン社のゲリラとなった。
テト攻勢についての評価はわかれる。レー(⑥)は、テト攻勢は不成功だったとした。一方、クアン(⑩)は、テト攻勢では3つの可能性(①政権奪取、②デスカレーション、③力関係の変更)を想定しており、3つ目の目標は達成されたと肯定的に評価した。
テト攻勢で大きな損耗を被った解放勢力側は一時後退を余儀なくされ、立て直しを図らなければならなかった。チュン(④)はフォンタイン社のゲリラだったが、党の呼びかけに応じて、再入隊した(省隊の特攻大隊)。カム(⑦)もテト攻勢後の1968年に第3中団に入隊した。ネーン(⑱)はフォンフォー社の公安をしていたが、テト攻勢で社隊が壊滅したので、社隊のゲリラに復帰した。テト攻勢以前、同社のゲリラは、クメール族9人、キン族12人の合計21人いたが、攻勢後、激減した。銃は1965年以降、K44を使っていた(戦争終結時は主にAR15)。
4-4. 敵による「平定期(1969~1971年)」
1969~1971年のテト攻勢後の敵の反攻・掃討(「平定」)は激しかった。第3中団に属していたレー(⑥)は、1969年の敵の「平定」は苛烈で、部隊は窮地に追い込まれたという。第3中団の医療部門にいたカム(⑦)は、この時期、部隊の診療所はしょっちゅう移動し、ソックチャンまで避難したこともあり、1970年になってようやくヴィンロンに戻ることができたという。クアン(⑩)によれば、「平定」が最も厳しかった時、カウケー県隊には1個大隊しか残っていなかった。ネーン(⑱)のフォンフォー社は、この時期(1969~1971年)サイゴン政府軍によって2度目の占領をされた。1971年になって社内の2つの邑を解放し、1972年に社全体を解放した。
タック(③)がゲリラをしていたのタインフー社は、近隣に敵の拠点があり社内の1つの邑が「平定」されたため、1969~1973年が一番つらかったという。同社のゲリラは15~17人の中隊規模で、ゲリラを指導したのは社の党委であった。ゲリラは部隊とは連携するだけで、部隊の道案内したり弾薬や負傷兵を搬送したりした。同社のゲリラののべ人数は100人以上で、ゲリラから部隊の兵士や幹部になった人が多くいた。人々はゲリラより部隊に入るのを好んだ。ゲリラにとどまった人は家庭の事情によっていた。ゼー(⑮)は、「平定期」、敵は第3中団を壊滅させる勢いで攻撃してきたので、ゼーは秘密壕に避難し、北の軍の支援を待ったという。
4-5. 「平定期」以降に入隊した人
1969~1971年、ところによっては1973年までの「平定期」をしのぐと、解放勢力側は反攻態勢に入り、1973年のパリ和平協定後も継戦態勢をはかっていった。
チャン(①)によれば、1972年から北の兵士が大量に補充されるようになったという。第3中団の小団長だった彼は、タイニンに赴き、補充する北の兵士600人を迎えに行った。ただ、当地では北の兵士がいたのは軍区の主力軍(第1中団、第3中団)のみで、地方軍にはほぼいなかった。逆に、省隊、県隊から主力軍への補充は多かった。
チャーヴィン省隊に所属していたチュン(④)によれば、隊員は全員が地元の人だった。武器は北から持ち込まれたものがあり、多くは海上ルートで運ばれたという。彼は北の兵士に共感と敬意をもっていたとし、北の支援がなければ、南は戦うことができなかった感懐を述べている。彼の所属する省の特殊大隊は60~70人いたが、パリ和平協定をにらんだ1972年のチャウタイン(チャーヴィン省)の激戦では、生き残ったのは12人だけだった。
「平定期」もしくは「平定期」以降に入隊したのは、フオック(②)、チュウ(⑤)、レー(⑥)、ソーム(⑬)の4人である。
フオック(②)は、1969年1月、第3中団に入隊した。ベトナム戦争終結までカマウにいた。
チュウ(⑤)は1971年にフォンタイン社のゲリラに参加し、1973年に地方軍に入隊。1974年には省の武装公安に配属された。武装公安は公安直属であるが、敵と戦闘もした。省に1個大隊あり、約30人。武器は部隊と同じ。弾丸は敵兵から買ったものが主だった。敵兵はお金で弾丸やさらには自陣をも売り渡した。このようなサイゴン軍兵士にはびこる拝金主義がサイゴン政府を衰退させた要因だとチュウは指摘する。
レー(⑥)は、1971年に北に勉学に行くことになっていたが、いつ統一するか分からないといわれ、第3中団に入隊した。
ソーム(⑬)は、1971年に第3中団に入隊する予定だったが、県党委の警護隊に配属になった。警護隊には制服はなく、隊員には現金は支給されなかったが、籾が支給された。銃は多くはAR15で、AKは僅かだった。弾は敵兵から買った。1972年末、家庭の事情で彼は郷里ニントーイ社のゲリラとなった。1971~75年に3度負傷した。
その間、タインフー社のゲリラだったフム(⑯)は1971年にカウケー県隊に移った。チン(⑭)は1972年に第3中団を退役し、帰郷してホアタン社のゲリラとなった。クアン(⑩)は、1972年にカウケー県隊からチャーヴィン省隊に移った。ヒエップ(⑰)も、1975年4月に急遽、県隊から省隊に異動した。
4-6. 1975年の戦争終結と小括
1975年、第3中団はヴィンロン市を制圧した。チュン(④)の省隊特殊大隊はチャーヴィン飛行場を占拠した。タック(③)のタインフー社のゲリラは、カウケー県隊と一緒に県の庁舎を攻撃した。当地では、1975年4月の戦争終結時には大規模な戦闘はなかったように思われる。それに先立ち、1974年にアンフータン社は完全に解放されていた。ニントーイ社は、1971年末・1972年初に社全体を解放した。フォンフォー社も1971年に2つの邑を解放し、1972年に社全体を解放していた。
ベトナム戦争、特にメコンデルタでの戦争については、ゲリラによる戦闘というイメージが強いかもしれないが、ゲリラのみではなく、主力軍、地方軍、ゲリラが一体となって戦っていた。部隊とゲリラの間には交流・連携があった。
①作戦行動での連携:ゲリラは部隊、特に地元の地理に明るくない主力軍の道案内をし、負傷兵の搬送などをおこなった。
②人員の交流:ゲリラから地方軍・主力軍に補充された人が多数いた。また逆に部隊からゲリラに戻るケースもあった。
③武器の供給:ゲリラと地方軍は武器を主に自前で調達した。自家製の武器のほか、抗仏戦争で使用し隠しておいた武器や敵から奪取した武器が主だった。ゲリラは部隊から壊れた銃を払い下げてもらい修理して使うようなこともあった。また、ゲリラが最新の武器を鹵獲すると、部隊に「上納」させられることもあった。地方軍については、海上ルートで北から武器が補給されたこともあった。
④指揮系統:社のゲリラを直接指導するのは社の党委員会である。党がゲリラに至るまで武装勢力を指導していた。たとえば省隊においても、ベトナム戦争中は省党委書記が省隊の政治員を兼ねており、部隊の指導をしていた。
(5)「解放負担(đảm phụ giải phóng)」の取り立て
今回の聞き取り調査の内容で顕著な特徴は、飢えや空腹だったという話を一度も聞かなかったことだ。これは当地が米どころで、果物や魚介類もふんだんに入手できる所だという点が理由としてまず挙げられる。それに加えて、「解放負担」という徴税システムが機能して、兵士・ゲリラに籾を支給できたことが大きな要因だと考えられる。
チュー(⑲)は1963年~1975年までニントーイ社の財政を担当した。社の財政班は6人で任務は徴税だった。当初は「喜捨(lạc quyên)」と呼んでいたが後に「解放負担」と言われるようになった。これは実質は税である。「喜捨」は家の経済状況によって税額が決められたが、「負担」は田の面積に基づき、籾の総量の5%以上を徴収した。解放地区と敵の一時占領地区の両方から徴収した。敵の支配地区には夜間にゲリラを伴い「突撃」し徴税した。ニントーイ社は22の邑があり、11は解放地区だった。解放地区では籾で、敵支配地区は現金で徴収した。解放地区に住んでいてサイゴン政府にも納税している人がいれば、その逆もいた。籾は集めてゲリラと地方軍に支給された。各人1か月に約30キロ。徴税した現金は県の財政に納められた。徴税担当者は銃を携帯していないので、よく襲撃されたという。また、彼によれば、カウケー県には河川路の通行税の徴収所もあった。
アンフータン社のゲリラをしていたチャイン(⑳)は、1964年頃から収税の方針があり、籾が支給されるようになったと述べているので、同社ではこの頃から「解放負担」を始めたのではないだろうか。1968年にカウケー県隊に入隊したヒエップ(⑰)は、69年から「解放負担」が部隊に支給されるようになったと述べている。1972年に第3中団をやめて郷里のホアタン社のゲリラと財政をしていたチン(⑭)は、「解放負担」の取り立てに従事した。「解放負担」の取り立ては、財政班がやっていたのであって、南ベトナム民族解放戦線の組織がやっていたのではない、とチュン(④)は指摘している。
民族解放戦線について付け加えておくと、クアン(⑩)によれば、カウケー県での解放戦線の主席は県党委書記が兼任し、解放戦線の専従機構はなかった。解放戦線の副主席は宗教者がなり、戦線のコントロールは党がおこなっていた。ネーン(⑱)は1972~75年にフォンフォー社の党委書記をしていたが、クメール族のタック・ヌム氏が社党委副書記と社の解放戦線主席を兼任していたという。チャイン(⑳)によれば、アンフータン社にも解放戦線の組織があった。臨時革命政府の組織も1969年7月6日に選出された。とはいっても職員は数人だけで、民家に事務所を設置していただけであった。
(6)クメール族と解放勢力
チャーヴィン省の人口の3割余りをクメール族が占めている。クメール族の解放勢力側への参加はどのようなものであったのだろうか。今回の聞き取り調査ではインタビュイーのうちクメール族は1人だけで、しかも解放地区の社で青年団活動をしたりや公安だった人なのでこの辺の事情がよく分からなかった。
退役軍人会に占めるクメール族の割合をみてみる。カウケー県の退役軍人会によると、同会の会員数は2580人で、そのうちクメール族は402人(約16%)、女性は408人であった(調査時)。チュウ(⑤)の住むフォンタイン社は住民の約30%がクメール族で、社の退役軍人会194人中、18人(約9%)がクメール族である。キン族とクメール族の通婚もあり、チュウの末娘の夫はクメール族だという。レー(⑥)の住むタムガイ社では、退役軍人会305人中、クメール族は16人(約5%)であった。これだけの数字では確かなことはいえないが、人口比からすれば高い割合で参加していたのではないと思われる。
おわりに
今回の聞き取り調査の際立った特徴は、繰り返しになるが、戦争時の飢え・空腹体験を一人からも聞かなかったことである。第二には、ゲリラ、地方部隊、主力軍の構成が複雑で、入れ替わりが比較的激しかったことである。アンフータン社の退役軍人会は424人中、主力軍だった人は約200人ということなので、半分以上が地方軍とゲリラだった会員で、あらためて地方軍兵士とゲリラの割合が高いことがわかる。第三に、解放勢力側の税である「解放負担」の話を聞けたのは貴重であった。
特異な点としては以下の点が挙げられる。インタビュイーで規律を受けたことのある人(ベトナム戦争後を含めて)がフオック(②)、タック(③)、ネーン(⑱)と3人おり、党員をやめた人がチン(⑭)、ゼー(⑮)と2人いることである。その詳しい理由については尋ねがたかったが、自己都合・家庭の都合での職務拒否や自己都合での早期退職が多いのではないかと推察される。これは他の場所、特に北部ではあまり見られないことである(少なくてもこのような人を外国人調査者の聞き取り調査の場に出さない)。当地のインタビュイーは、党や軍へのこだわりが比較的少なく、何か問題が起きるとすぐに郷里・家に戻ろうとする傾向が強いように思われる。
あと印象的だったのは、◆戦後、改造キャンプに「悪玉」を長期に収容したのは、彼らへの人々の報復を回避するためだった、というクアン(⑩)の発言、◆沿岸地方のズエンハイ県で1972~74年に療養していたミー(⑪)が、植物の葉を食い尽くす生物兵器の目撃証言をしたことである。 (了)
(追加)
ベトナムでは退役軍人に対して従軍期間に応じて、諸手当・恩給が支給されるが、長いことゲリラはその対象外とされていた。しかし2005年11月8日付け政府首相決定290号「直接に抗米救国抗戦に参加したが、党と国家の政策をまだ享受していない対象に対する制度・政策」が出され、ゲリラにも手当が支給されることになった。