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Ⅰー30. 韓国軍がいた戦場:中部のビンディン省(1)

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(30)★2015年7月18日~8月8日
見出し画像:ビンディン省ホアイニョン県にある戦没者墓地

はじめに

 今回はベトナム中部ビンディン省での聞き取り調査をご報告する。ビンディン省は北隣のクアンガイ省、また北隣のクアンナム省、南隣のフーイエン省、また南隣のカインホア省と共に、ベトナム戦争中に韓国軍が駐屯していた所である。韓国軍は1964年9月の第一次派兵を皮切りに、1965年10月3日の第二次派兵で最初の戦闘部隊(青龍師団)がカムラン湾に上陸し、同年10月13日にはビンディン省クイニョンに猛虎師団が上陸した。1966年8月には白馬師団がニャチャンに上陸している。韓国軍は1973年に撤退するまでに延べ30万人以上の兵士をベトナムに送り込んだ。(参考文献:コ・ギョンテ著、平井一臣・姜信一・木村貴・山田良介訳『ベトナム戦争と韓国、そして1968』人文書院、2021年;村山康文『韓国軍はベトナムで何をしたか』小学館新書、2022年)。

ビンディン省の地図

今回の調査日程は以下の通り。
7月18日:日本発、ハノイ着。
7月19日~7月28日:語学研修。その間、21日にはハノイ人文社会科学大学
          ベトナム学センターを訪れ、またハドンにあるホーチ
          ミン・ルート博物館を参観。
7月29日:ハノイ・ノイバイ空港発、フーカット空港着。クイニョン市内の
     第5軍区司令部ゲストハウスに投宿。ビンディン省外務局と同省
     退役軍人会に表敬訪問。同会主席・副主席らと犬肉屋で夕食。
7月30日:午前、省退役軍人会事務所で打合せ。ビンディン博物館を参観。
7月31日:午前、省退役軍人会事務所で3人にインタビュー。午後、2人。
8月1日:午前、ホアンハウ(皇后)レストランを訪れと文学者ハン・マッ
     ク・トゥー(Hàn Mặc Tử)のお墓詣り。
8月2日:午前、タップドーイ(Tháp Đôi)見学。ビンディン博物館参観。
8月3日:退役軍人会の車でホアイニョン(Hoài Nhơn)県へ。同県退役軍
     人会事務所で3人にインタビュー。同県にある戦没者墓地を訪れ
     る。午後、アンニョン(An Nhơn)市にある1968年に韓国軍と戦
     って戦死した人たちの共同墓地を訪れる。
8月4日:省退役軍人会の事務所にて4人にインタビュー。夕方、別れの宴
     をもよおす。
8月5日:フーカット空港発、ハノイ・ノイバイ空港着。
8月6日:午前、ハノイ人文社会科学大学ベトナム学センターに行き、調査
     の報告をする。
8月7日:語学研修修了式。
8月8日:ハノイ・ノイバイ空港発、タンソニャット空港着。クチ・トンネ
     ル、戦争証跡博物館などを訪れる。同日深夜、タンソニャット空
     港発、成田空港着。

クイニョン市内にあるタップドーイ(双塔)

今回インタビューした人は11人で、2番のリックを除く全員がビンディン省出身で在住者。以下の一覧では、名前、性別、出身地、現住地、入隊年、入党年、退役年、最終階級、備考の順番で記載している。佐官級の人が多い。

1.キム、男、1932年、ホアイニョン県、クイニョン市、1954年に地方組織
  に参加・1960年に軍隊、1962年、1985年、少佐、人民武装勢力英雄。
2.リック、男、1944年、ハノイ市、クイニョン市、1964年、1968年、
  1990年、大佐。
3.コン、男、1953年、フーカット県、クイニョン市、1971年に社ゲリラ・
  1972年に県隊、1972年、?、大佐。
4.ホン、男、1935年、ホアイニョン県、クイニョン市、1953年、1957
  年、1995年、少将、人民武装勢力英雄。
5.フック、女、1953年、フーミー県、クイニョン市、1967年、1970年、
  1979年、中尉、人民武装勢力英雄。
6.トゥー、男、1948年、ホアイニョン県、ホアイニョン県、1963年、
  1968年、?、上佐。
7.シー、男、1957年、ホアイニョン県、ホアイニョン県、1972年、1979
  年、?、上佐。
8.チー、男、1942年、ホアイニョン県、ホアイニョン県、1961年、1965
  年、?、上尉。
9.テー、男、1932年、?、クイニョン市、?、?、?、?。
10.カイン、男、1942年、?、クイニョン市、?、?、?、中佐。
11.フオン、男、1950年、ホアイニョン県、クイニョン市、1966年に村 
  (thôn)のゲリラ・1968年に軍隊、1970年、1988年、少佐。

ビンディン省退役軍人会事務所

主なインタビュイーの聞き取り内容

(1)キム(1932年生まれ):1960年代前半の戦いで戦功をあげた地方軍の
              人民武装勢力英雄

 抗仏戦争終結後、2人の兄は北部に「集結」したが、キムはビンディンに居残った。1954年12月、地方の革命組織に参加した。1957・58年は敵の悪玉に対するテロ活動に従事。武器はフランスに援助されたアメリカ製の銃だった。その時、敵に捕まり3か月収監されたが、秘密を守り、ニャチャンの軍事裁判所で無罪判決を受け釈放される。1960年10月、山中に登り、10人余りの県武装宣伝隊に入る。中部高原のザライで6か月、特殊部隊クラスで学ぶ(100人近く。現在も生き残っているのはキムだけ)。1962年に共産党に正式に入党。部隊の服装は自前で、食事は民が養ってくれた。武器はまだ少なかった。
 1962年、敵のミトー(Mỹ Thọ)社(フーミー県)評議会の難攻不落を誇る陣地を攻撃。味方約20人の特殊部隊戦術で大勝利する。この戦いはビンディンでの最初の大きな戦いであった。1963年にはヴィンソン(Vĩnh Sơn)の陣地を攻略。1964年にはフーミーの戦場において、味方3人で敵約50人を倒した。いずれの戦いでも大きな負傷をした。
 以上はすべてサイゴン軍との戦いであった。その戦功によりキムは1965年5月、人民武装勢力英雄に宣揚された。宣揚大会はタイニン省で開かれ、そこまで行くのに3か月かかった。グエン・チー・タイン大将が英雄決定を読み上げた。大会後、何人かは北に派遣されたが、キムは南に留まった。ニントゥアン省のピナン・タック(Pinăng Tắc)も同じ時に英雄に宣揚された。同じくニントゥアン省のチャマル・チャウ(Chamale Châu)はもう少し後に宣揚された(Ⅰー22. を参照)。
 1972年、徒歩で3か月かけてハノイに行き、政治委員学級で6か月学ぶ。1973年にビンディンに戻る。翌年4月に結婚。1974年、所属部隊は第3師団第8小団と連携し、サイゴン解放を迎える。
 1979年、カンボジアに行くが1年たらずで戻る。1985年に退役。キム自身は韓国軍と戦ったことはなかった。

キム氏(ビンディン省退役軍人会事務所にて)

(2)リック(1944年生まれ):ハノイ生まれの第3師団兵士
 元々の出身はビンディンだが、父の仕事の関係でハノイに在住。高校の10年生末まで通い、繰り上げ卒業で1964年2月に入隊。3か月訓練をうけ、血書の志願書に3回署名してようやく1964年2月に南部へ向かった。ハノイから列車でゲアン省のヴィンまで行き、ヴィンからクアンビン省ホー村までは車。そこからは徒歩となった。3か月かかって中部高原のザライ省に到着した。南部に一緒に来た兵士は583人だったが、戦後まで生き残ったのは20人余りだった。
 最初は第10中団に所属し戦闘した。当時中部にはまだ師団はなく、独立中団のみだった。1965年に第3師団が成立し、各1個小団をクアンガイ、ビンディン、フーイエンに配置した。リックはクアンガイの第7小団に配属になった。第3師団は南部で最初に比較的近代兵器を装備した部隊であった。リック達が来た時、地元の武装勢力はトンプソン、ガーランド、カービンを使っていたが、リック達はAK(カラシニコフ自動小銃)、CKC(半自動ライフル)、RPD(軽機関銃)、さらにその後、B40、B41(ロケットランチャー)などを持っていた。服装は制服を着用し、中国製の衣服やバーバー(労働服)も支給された。ただ、北から持ってきたとわかる写真や手紙は所持が禁じられていた。
   食事は苦労した。ご飯代わりにタケノコを食べるのは普通だった。1966年に韓国軍と交戦し、負傷した。1967年は米軍、韓国軍による攻撃が最も熾烈で、食料の補給が困難になり、3か月、塩不足になった。
 1968年のテト攻勢後、当地での戦闘の激しさは減じた。テト攻勢後、敵からの激しい反攻、「平定」があったメコンデルタとは様相が異なっていた。リックは1968年からビンディン省のフーミー県で戦闘をするとともに、武装宣伝に従事した。人々は知人やゲリラが声をかけても家の扉を開けないが(地元の言葉だと敵か味方か分からない)、北部弁だと開けてくれて、宣伝し、米を徴発することができた。
 山中の基地にて兵士だった妻と出会い、1970年に結婚。ほどなく妻は妊娠し、競合地区にある実家に戻り出産した。その時生まれた子供は現在、ビンディン省軍事指揮部少佐となっている。
 1975年春、最後の戦闘はクイニョン市でだった。サイゴン軍の第2軍団のほとんど全部の兵士が集結し、南下しようとした。第3師団はそれを阻止した。戦後、カンボジアにも数年間、ビンディン省隊指揮委員会政治委員として赴任した。1990年に退役。
 抗米戦争中、当地では、サイゴン軍、米軍、韓国軍、ニュージーランド軍と戦った。韓国軍との戦いはきわめて困難であった。その理由は、韓国軍は砲が強力、米軍より我慢強い、生け捕りになるより死ぬことを選ぶ、米軍の行動は規則的で予想しやすいが韓国軍は予測しにくい、などである。また米軍より残酷で幾つかの虐殺事件を引き起こしている。1968年、第3師団・第12中団・第6小団はアンニョン市で韓国軍の猛虎師団と5日6晩戦い、同小団は殲滅され、154人が戦死した。リックによれば、北朝鮮の要員が数人来て、韓国軍との戦い方を教えに来たという。
 第3師団はビンディンだけで1万8千人が戦死した。この戦死者数は2個師団に相当する。さらにクアンガイやフーイエンでの戦死者がこれに加わる。第3師団はベトナム人民解放軍全体で最も戦死者の多い師団の一つであった。第3師団は1979年には抗米戦争で戦った経験をいかして中国軍と戦った。

第3師団・第12中団・第6小団の集団墓地(アンニョン市)

(3)コン(1953年生まれ):南部の地方軍兵士と北部の兵士の違い
 フーカット県カットハイン社出身。両親は農民。コンはサイゴン政権下の学校に8年生まで通う。当時の当地では相当な高学歴だった。在学中から敵情把握の任務を任されるが、1971年にそれが発覚し、家を離れて革命勢力側に参加した。最初は社のゲリラとなった。ゲリラは直接戦闘したり、部隊の道案内をするだけでなく、部隊と人民を結び付ける役割をもっていた。ゲリラには「偽装合法ゲリラ」、「秘密ゲリラ」、「脱離ゲリラ(家から出たゲリラ)」などがあったが、「脱離ゲリラ」には基層組織があったので、敵はこれと人民の連携を断つために、このゲリラ組織の破壊に注力した。
 1972年に県の部隊に入隊した。北部から来た兵士には衣服や装備の支給があったのに、南部の地方軍兵士には衣服の支給はなく自前だったので、服装はバラバラだった。1973年になって支給されるようになったが、布は自前であった。地方軍は主に人民の中で生活し、食事も人民によって養われていた。訓練も1か月受けただけであった。県隊も省隊も、医療、通信などの専門家は北部から送られてくる人材に頼っていた。当地では、教育レベルが低く、そのような人材がいなかった。医師は県に一人いればいい方で、社レベルにはいなかった。当地の多数の男性はサイゴン政府側に徴兵され、革命側に従う人は少なかった。
 コンは1972年に入党し、入党後は偵察の任務についた。3度負傷し、いずれも手りゅう弾によるものだった。サイゴン軍や米軍と戦ったが、最も手ごわかったのは韓国軍だった。韓国軍は非常に残忍で、民を沢山殺し、味方の部隊も多数の死傷者がでた。韓国軍は決して投降しないし、逃走しなかった。戦死者を見捨てないで、規律は厳格であった。韓国軍はよく報復をした。自軍兵士が沢山殺されたところでは、民を残酷に殺した。それで民は米軍よりも韓国軍を恨むようになった。
 1973年1月のパリ協定後はサイゴン軍とのみ戦闘した。1975年の解放時には、コンの県隊はフーカット飛行場を攻撃し、コンは最初に突入した一人だった。フーカットの郡庁の攻撃時に敵機の爆撃を受け、解放直前だったというのに何人かのゲリラが犠牲になった。敵の多くの兵士は武器も道路に投げ捨て逃走した。北部からの軍隊は昼夜連続で洪水のように押し寄せ、ここを通過していった。
 戦後、1982年から1989年までカンボジアにいた。ポル・ポト軍は中部高原のザライでもベトナム領内に7・8キロ侵入していた。
 当地では南北統一した1976年に軍事義務法が施行された。抗米戦争中の南部の地方軍は徴兵ではなく志願によっていたが、これにより北部と同じく徴兵により人民軍隊に入ることになった。
 南ベトナム民族解放戦線は、おそらく各社で1・2人が大衆工作をおこなっているだけだった。主に夜間に活動して民を革命側に勧誘していた。各社の同戦線は独自の事務所や組織基盤はなかった。その頃、公安(công an)はまだなく、安寧(an ninh)が革命機関の防衛をおこなっていた。さらに、テロ活動に従事する武装安寧(an ninh vũ trang)もあった。解放後に公安ができたが、主に軍隊を基盤としてつくられた。
 韓国混血児(ライダイハン)は存在するが、主にはタイソン(Tây Sơn)県のビンケー(Bình Khê)地方。確かなことはアメラシアンの方が多いことだ。

タイソン党のグエン・フエの像(クイニョン市)

(4)ホン(1935年生まれ):将官にまでなった抗仏期からの戦士
 ホアイニョン県出身。1953年にカインホア省の部隊に入る。当時のカインホア省の部隊規模は大隊どまりで、銃は少なく、すべてフランス軍から奪ったものだった。ホンも当初は銃を支給されず、ナイフと長剣のみだった。1953年末にようやく銃が支給された。
 抗仏戦争後、大隊ごと北部に「集結」した。クイニョン港から出航しタインホア省サムソンに上陸した。その後、ゲアン省に行き、バランアン事件(筆者注:カトリック教徒の騒乱)平定に参加した。ホンの大隊は第324師団・第90中団に組み入れられた。
 1962年、大隊ごと南部に行く準備で第338師団に転属となった。スアンマイから出発してクアンビン省ホー村まで車。そこからは徒歩。途上では物不足と空腹に苦しめられた。中部高原に着くまで約100日かかった。ザライに数か月滞在した後、1963年末にビンディンに戻った。ジェム政権が倒れた直後だった。
 ビンディンに戻ると、大隊は小団に再編成された。小団には北の人も混じっていた。最初の戦闘は、ビンディン東部の戦いだった。米軍はまだいず、サイゴン軍との戦いで勝利を収めた。次に、ビンディン西北部のアンラオでの戦いで、ホンは省の主力大隊の大隊長をつとめ、敵兵士176人を生け捕りする大勝利を収めた。ダップダーの戦いでは省隊の参謀長として4個小団を指揮し、ダップダーの町を解放した。テト攻勢の時は、省隊の派遣で山中の基地にいた。1972年に、ビンディン省隊はホアイアン、ホアイニョン、フーミー北部を解放した。ホンは、負傷治療のため、1974年に北部に行き、108病院で治療を受けた。治療から帰ると、クイニョンは解放されていた。戦後、カンボジアのプレハビキアに1980~1984年の4年間進駐していた。
 1966年に結婚。妻は解放区で社の青年団の副書記をしていた。義父は北部に「集結」し、義弟は第3師団の兵士。ホン夫妻は戦争中に2人の子どもを育てた。
 ビンディン省隊は北からの人員を数個小団分、受け入れた。ハイフォンやゲティン出身の兵士だった。この人たちがいなければ南部での革命を遂行することはできなかった。彼らの精神はとても素晴らしかったが、南部での戦闘経験に乏しく、炊事で煙を出して敵から爆撃される危険をまねいたりした。
 南の戦場で最も多く航空機を使用したのは中部だった。戦争を振り返ってみると、フランス軍は米軍と比べものにならなかった。抗仏期は傀儡軍も少なかった。米軍は多数の武器と対抗手段をもち、フランス軍の何倍も強力で組織だっていた。当地の人々は貧しく空腹だったので、アメリカ側についた人も多い。
 ビンディンに駐屯していた米軍は第1空挺師団、後に第4師団、第173旅団が加わった。韓国軍は猛虎師団が駐屯していた(筆者注:あとサイゴン軍)。それに対して解放勢力側は第3師団のみだった(筆者注:あと地方軍)。米軍は枯葉剤の散布などにより食料を破壊し、第3師団は食糧不足でクアンガイに移動しなければならない時もあった。
 解放区では民から徴収・徴税して蓄えられた食糧が部隊に提供された。経財委員会がお米を、財貿委員会がお金を工面・管理し、さらにハノイから送金された米ドルで(敵支配地区で)食糧や薬品が第3師団のために買い付けられた。
 ビンディン省の民政機関と武装勢力は4・5千人。食糧と服装は自給自足だった。北部から送られてきた米(中国からの援助米もあり)は主に主力軍で、地方軍は現地調達、自給自足だった。
 南ベトナム民族解放戦線の活動は目立たなかった。省党委と省隊の2つが省の解放勢力の中心で、省隊には400人、省党委には200人のスタッフがいた。あと「安寧」が少々。
 ベトナム戦争の勝利の要因は、第1に、解放し民に権利をもたらすという党の路線・目的に民が共感し支持したこと。第2に、民族の英雄的伝統で、民に依拠することができたこと。つまり「党が指導し、民が共感し、民に依拠できた」ことである。第3に、世界人民の支持をえたことである。

宿泊した第5軍区司令部ゲストハウス(クイニョン市)

(5)フック(1953年生まれ):人民武装勢力英雄となった女性特殊隊員
 フーミー県出身。学校は3年生まで通い、1967年にゲリラに参加。数か月後、歩兵大隊に入るが、年少のため、まだ戦闘には参加できず、偵察などに従事。家では大隊の政治員を chú と呼んでいたが、部隊では anh と呼んでいた。1969年にようやく戦闘に加われるようになった。同年、フーミーに特殊大隊が成立すると、フックはそこに配属になった。同部隊には4人の女性がいたが、戦闘に行くのはフックともう一人だけだった。フックは、偽造・偽名の身分証明書をもって敵支配地区での「合法活動」も続けていた。
 フックの部隊はフーミー市近郊にいたので、米軍とも韓国軍とも戦うことはなかった。戦ったのはもっぱらサイゴン軍であった。フーミー県には、サイゴン軍の主力軍(第22師団・第41中団)、保安大隊、民衛(民兵)、「戦闘青年」がいた。民衛連団は強力だった。農村平定連団は民に近い存在で、革命側の「合法勢力」と競合した。
 敵情偵察でフックは大きな功績をあげ、1973年に人民武装勢力英雄に宣揚された。タイニン省ロクニンに行き、南部解放戦士大会でグエン・ヒュウ・トから「英雄」決定を伝えられた。この大会でグエン・ティ・ディン女史(筆者注:南部解放軍副司令官)と会った。「英雄団」は1974年に徒歩で北部のクアンビン省ドンホイまで行き、そこから車でハノイに向かった。さらに「英雄団」は外遊し、ハンガリーに滞在していた時、グエン・ティ・ビン女史(筆者注:南ベトナム共和国臨時革命政府・外相)がディン女史を訪ねてきた。ビン女史に連れられてフランスを観光し、東独を経て帰国した。
 帰国後、中越国境のランソン省にある軍隊文化学校(学歴がない人のために学歴をつける補習学校)で中学校レベルまで学んだ。1年で小学校の3学年分、中学校レベルは2年で3学年分、高校は1年で1学年分を学ぶ。中学校レベルを終えないうちに南部解放となり、高校レベルはビンディンで学んだ。高校レベルまでの文化補習が終わると、政治中級、大学となる。フックはホーチミンの経済大学で3年まで学んだが中途退学した。
 1976年に結婚。夫は省隊の軍人。1979年に軍隊から他の部門に配置換えした。1995年に心臓病で退職。1995年にザライ省の新経済区に移住。ビンディン省は彼女が3人の「女性英雄」のうちの一人だったので行かせようとしなかった。2013年に帰郷。

フック氏(ビンディン省退役軍人会事務所にて)

(6)トゥー(1948年生まれ):「特殊戦争」戦略の終焉をつげた第10丘
               の戦い

 ホアイニョン県出身。中学校まで通った。1963年に革命に参加。社青年団書記、社隊政治員を経て、県隊に入る。
 1963年11月、ジェム政権が倒れると、ホアイニョン県ではその機に乗じて戦略村の破壊が進められ、そのほとんどが破壊された。1964年にはホアイニョン県はほぼ解放されていた。ビンディン省には、1963・64年頃から北の兵士(軍事義務、つまり徴兵の兵士)が来るようになった。
 1965年、敵はホアイニョン県の国道1号線沿いに部隊を駐屯させた。重要な陣地が第10丘の陣地であった。同年初、解放勢力側は第10丘を陥落させ、1965年春季攻勢の勝利に一役買った。この時、ビンディンには米軍はまだいなかった。もし米軍の干渉がなければ、この地方はそのまま制圧できていた。
 1965年9月、正式に第3師団が成立した。第3師団は以前は中部高原で成立した第2中団で、1964年12月にビンディン省アンラオ県を地方軍とともに解放し、その後、増強整備されてホアイアン県で第3師団として成立した。ホアイニョン県では「第3農場」と呼ばれた。成立時、兵士の選抜は厳格で、トゥーの村では12人が応募し、入隊できたのは1人だけだった。北からの兵士もいた。その後は入隊したい人は広く受け入れるようになった。抗米戦争を通じて、第3師団は第5軍区武装勢力の中核だった。
 1966年6月、第1回乾季攻勢でビンディンの主戦場は、フーミー、ホアイニョン、ホアイアンの各県で、米軍の最大目標は北部ビンディンだった。米軍は第1空挺師団1万6千人を派兵し、ホアイニョン県にも多数の米軍陣地がつくられた。戦略村も再建された。すべての家はトタン屋根になった。革命側とつながりのある家は監視し戦略村に移住させようとした。多くの農村では革命側の基礎組織は壊滅し、それによって青年の募兵運動ができなくなった。敵は民を移住させるだけでなく、心理戦争を仕掛けてきた。革命の最も困難で苦しい時期だった。第1回乾季攻勢でホアイニョン県では敵は約40日間戦い、大きな損耗を被った。
 地元が敵の占領地区か競合地区では社のゲリラも「脱離(家を離れる)」する。山中の基地に集住し、社党委の直接指導を受ける。食糧は民が養い、服は自前だった。
 韓国軍はフーミー以南にいただけで、ホアイニョンには米軍とサイゴン軍がいただけ。フーミーの戦場で韓国軍と戦闘した時、敵は道沿いに地雷を使用。韓国軍の戦術は、ゲリラ戦をよく研究しており、米軍より勝るとトゥーは感じた。
 ホアイニョン県では、党と抗戦委員会が指導をおこなった。解放区では自管委員会があり、競合地区では南ベトナム民族解放戦線が活動した。同戦線は、民家に事務所を間借りし、同戦線の(書類決裁のための)印鑑はあったりなかったりだった。

現在、国家級歴史遺跡になっている第10丘(ホアイニョン県)

(8)チー(1942年生まれ):ステーレー・テーラー作戦が始まった時に兵
              士になった男

 ホアイニョン県ホアイソン社出身。1961年にビンディン省隊に入る。かつてフランス軍から鹵獲した銃を支給された。部隊の何人かの人には銃が支給されず、敵支配地区に工作に行く時には棍棒にコイルを巻いていった。服装は自前の服で、敵の民衛(民兵)と間違えられそうになったこともあった。武装宣伝工作に従事し、悪玉の始末、基礎組織の建設、部隊に供給するための米の徴発を任務としていた。
 1961年に敵が着手したステーレー・テーラー作戦は、18か月で南部を平定し、戦略村を建設するというものだった。ホアインソン社では4つの邑を建設し、すべての民を集めた。邑には何層ものバリケードが張り巡らされた。アメリカは、反共のため、農民の中農化・都市化をしようとしたが、1万6千邑をつくる計画が、1965年までに解放勢力側の破壊によって約8千のみになっていた。
 武器については、AK自動小銃が当地に登場したのは1965年頃。しかし数は少ない。主には北の主力軍がもってきたものだった。1965年に米軍はAR15ライフルをもっていたが、1968年には第1空挺師団はM16ライフルを所持するようになった。ただそれは米兵だけで、サイゴン軍兵士はもてなかった。
 テト攻勢後の情勢は厳しかった。テト攻勢は第1波でやめておくべきであった。解放した農村地区にすぐに撤退しておけばまだましだったのに、さらに攻撃を続け傷口を大きく広げた。敵は和平交渉の席についたが、軍を増強し「平定」を進めた。

皇后海水浴場のあるホアンハウ・レストラン(クイニョン市)

(11)フオン(1950年生まれ):韓国軍との実戦経験のある兵士
 ホアイニョン県出身。1966年、革命地方政権にいた父が反掃討で犠牲になり、革命側に参加。1966年は村(thôn)のゲリラ、1967年に社(xã)のゲリラとなった。1967年末・68年初、社のゲリラ中隊を幾つか集めて第53中団を編成。フオンは1968年から軍隊に入った。彼がゲリラ・軍人となっていた時期の1966~1969年は抗米戦争が熾烈な時期であった。
 ビンディンの戦場には、アメリカ、韓国、ニュージーランドの3つの外国兵がいた(オーストラリア軍は主にロンカイン Long Khánh 地方)。フオンは、ニュージーランド軍と戦うこともあったが、韓国軍ほど強力ではなかった。韓国軍は執拗であった。韓国軍と戦った第3師団と地方軍の共同墓地(上述の写真)と民・幹部・兵士がまとめて殺された集団墓地がタイソン(Tây Sơn)県ビンギー(Bình Nghi)社にある。韓国軍は陣地を奪回されたり自軍兵士が殺されるとそこの民間人に報復した。韓国軍兵士はふつうは基地にいて民と接触がなく、掃討の時だけ民の居住地区に入った。その時、民を捕まえ、女性をレイプしその後殺害することもあった。タイソン(Tây Sơn)県ビンアン(Bình An)社ゴーザイ(Gò Dài)村では1966年2月26日に300人以上が殺された。米軍はクアンガイ省で虐殺した。米軍は民が壕から上がってから撃ったが、韓国軍は壕を見るとそのまま壕に向けて発砲した。
 ライダイハンの問題は小さい。アメラシアンは多くいたが、フオン自身はライダイハンは見たことも聞いたこともないという。韓国軍が駐屯していたクアンナム省、クアンガイ省、フーイエン省など他省のことは分からない。ビンディンでは、韓国軍による虐殺の問題はあるが、ライダイハンの問題はない。 
 戦後、1976年6月、フオンの所属中団は中部高原のダクラクでFULROを討伐。1978年6月、中団は西南国境戦線で戦う第2師団(第4軍団)に補充された。米軍との戦闘を経験したものにとって、カンボジアでの戦闘はたいしたことはなかった。ただし、カンボジアでは中国が援助した地雷によって死傷者は多かった。1979年1月のカンボジア解放後、第7軍団の第312師団に移り、ゲアン省に2年間駐屯した。中越戦争の時で、軍はゲアン省の最も幅が狭い地域に3個師団を増強した。第7軍団解散後、第5軍区の負傷兵団に戻り、1988年、負傷のため退役した。

ビンディン博物館(クイニョン市)

小括

(1)ベトナム戦争中、ビンディン省ではアメリカ、韓国、ニュージーランドの3つの外国軍が駐屯した。韓国軍はビンディン省全域にわたって駐屯していたわけではなかった。ホアイニョン県など北部には駐屯していなかった。

(2)韓国軍は最も手ごわく残忍な相手だと思われており、米軍よりも恐れられていた。韓国軍はビンディンでは幾つかの虐殺事件をおこしている。それは報復のためであることが多かった。インタビュイーの話のほかに、ビンディン博物館の展示にも以下の4つの虐殺事件が記載されていた(調査時のもの)。村山康文『韓国軍はベトナムで何をしたか』166・167ページでは、ビンディン省内での事件現場は8件、死者数1581人としている。ビンディン博物館でなぜ4件しか記載されておらず、なかでも死者数の多いビンアン社についての記載がなかったのかは不明。
 ・トゥイフオック県フオックホア社タンザン:54人(1965年12月22日)
 ・トゥイフオック県フオックフン社ニョーラム:143人(1966年3月23
  日)
 ・アンニョン県ニョンフォン社キムタイ:37人(1966年1月9日)
 ・フーカット県カットティエム社チュオンタイン:88人(1966年9月23
  日)

(3)韓国混血児(ライダイハン)の問題であるが、Báo điện tử VTC News(電子新聞VTC News)の2019年1月21日付けの記事によれば、ライダイハンの人数を、韓国の新聞 Busan Ilbo は5千人~3万人、同じく韓国の新聞 Maeil Business は最大で1千人、英国の団体 Justice for Lai Dai Han は1万人~3万人と報じている。また同団体によれば、戦争中に韓国軍兵士から性的暴力を受けたベトナム女性被害者が約800人生存している。
 今回のビンディンでの調査で聞いた限りでは、ライダイハンの存在は知られているものの、ビンディンではそれほど大きな問題とは認識されていないようであった。

(4)リック(②)とテー(⑨)の証言によれば、ベトナム戦争での韓国軍の戦いぶりを視察するために何人かの北朝鮮要員がビンディンまで来ていた。

(5)ビンディンの解放勢力側における地元出身の地方軍兵士と北から派遣されて来た兵士とは違いがあった。北から来た兵士は「軍事義務法」に基づく徴兵された兵士で、軍装は支給され、武器もより近代的な武器を所持していた(抗仏期の北の兵士は法的根拠に基づく徴兵による兵士ではなかった)。一方、南の地方軍兵士は志願であり、服装は自前で制服はなく、地方軍は食糧も自給自足であった。               (了)


※筆者の俯瞰的ベトナム戦争像については、『アジア人物史 第12巻 アジアの世紀』(集英社、2024年4月)の「第8章 冷戦期の『熱戦』、ベトナム戦争」(445頁~494頁)をご覧になっていただければ幸いです。


 
 


    



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