見出し画像

Ⅰー25. 南部革命揺籃の地の戦争記憶:カマウ省

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(25)
★2013年8月3日~8月31日:ハノイ市、カマウ省、ビンズオン省

見出し画像:カマウ省退役軍人会事務所

はじめに

今回は南部カマウ省の聞き取り調査の結果をご報告する。カマウ省はベトナム最南端の地で、同省ウーミン(U Minh)には1940年代末から1950年代なかばまで南部党委(Xứ ủy Nam Bộ)の本部が置かれていた(1949年末~1955年初)。南部党委では、1960年にベトナム労働党(現共産党)の第1書記となるレ・ズアンが1946年~1954年まで書記をつとめ、パリ和平交渉で北ベトナムの特別顧問だったレ・ドゥック・トが1949年~1955年に副書記をつとめていた。したがってカマウは南部メコンデルタにおける革命の揺籃の地ともいえる。カマウが南部革命の揺籃の地となったのは、サイゴンから遠く離れていて、政治的・軍事的圧力が比較的少なかったのが一つの理由であろう。レ・ズアンは1957年に当地を離れてハノイに上京し、労働党の最高指導者となっていく。1960年代に入ると南部における党組織の中心的根拠地はタイニン省に移っていった。しかしカマウは比較的広い解放区を擁し、解放勢力側の一大拠点であり続けた。

今回の聞き取り調査に先立ち、2013年は3月に学習院大学の武内先生の調査団に参加し、メコンデルタのにおける明師道(ベトナムの公認宗教の一つ)の「仏堂」の調査でホーチミン市、ヴィンロン省、カントー市、ハティエン省、アンザン省などを訪れた(3月2日~3月9日)。

2013年8月に今回の聞き取り調査をおこなったが、8月3日~8月11日は語学研修。8月12日にハノイ市からカントー市に空路で移動。8月13日にカントー市からバスで4時間ほどかけてカマウ市に。同日午後、カマウ省退役軍人会に行き、挨拶と打合せ。8月14日・15日は同会事務所にて聞き取り調査をおこなった(10人。女性2人は自宅)。16日はカマウ市郊外の枯葉剤被害者の家を訪問する。17日はカイヌオック(Cái Nước)県に行き、同県退役軍人会事務所にて4人にインタビュー。18日はチャン・ヴァン・トイ(Trần Văn Thời)県に行き、4人にインタビュー。19日は同省退役軍人会事務所にて総括の会合。20日、バスでカントー市へ(2時間弱)。21日、カントー市からヴィンロン市へバスで移動。以前(2006年)、ヴィンロンでの調査で会ったチエン氏らと再会。宴会後、チエン氏の車でカントー市まで送ってもらう。22日、カイラン(Cái Răng)の水上マーケットを見学。同日夕方、空路でカントー市よりハノイ市に戻る。

今回の聞き取り調査では19人にインタビューした(そのうち1人は喉の炎症のため話せず、書面回答)。以下に一覧を掲げる。記載事項は順に、名前、生年、現住所、入隊年、階級(退役時)、入党年、備考である。順番はインタビュー順。全員がカマウ省在住で、女性は2人(⑧と⑨)で民政幹部。

1.ルック、1943年、カマウ市、1956年、大尉、1961年
2.タム、1954年、カマウ市、1970年、上佐、1978年
3.ティエン、1955年、カマウ市、1972年、大佐、1977年
4.フン、1951年、カマウ市、1966年、大佐、1968年
5.ホアン、1946年、カマウ市、1961年、大佐、1968年
6.アン、1932年、カマウ市、1954年、大佐、1961年。北に「集結」
7.ニョン、1944年、カマウ市、1970年、少佐、1961年。青年突撃隊から
8.クン(女性)、1939年、カマウ市、なし、なし、1966年
9.アイン(女性)、1942年、カマウ市、なし、なし、1966年
10.ヴー、1946年、カマウ市、1964年、?、1968年
11.タイ、1943年、カイヌオック県、1962年、上佐、1962年
12.ヴァン、1950年、カイヌオック県、1968年、大佐、1969年
13.タン、1948年、カイヌオック県、1965年(ゲリラ)、大尉、1971年
14.サム、1955年、カイヌオック県、1972年(ゲリラ)、?、1982年
15.フオック、1930年、チャン・ヴァン・トイ県、1947年(ゲリラ)、?、
  1950年。
16.ミン、1943年、チャン・ヴァン・トイ県、1960年(ゲリラ)、?、
  1963年。
17.レー、1942年、チャン・ヴァントイ県、1960年、大佐、1966年
18.ハップ、1945年、チャン・ヴァン・トイ県、1964年、?、1966年
19.フイン、1955年、カマウ市、?、?、?。書面回答

カマウ市の光景

1.ジュネーブ協定後の政治闘争期(1954~1959年)

(1)北部への「集結」
第一次インドシナ戦争の停戦を定めたジュネーブ協定(1954年)では、南部の解放側の武装勢力を北部に「集結」させることになっていた。「集結」部隊の出航地はクイニョン、ヴンタウ、カマウの3か所であった。今回のインタビュイーの中ではアン(⑥)が北部に「集結」している。アンは1952年にバックリュウ省の文工団に入り、抗戦歌を歌うなどの活動をしていたが、1954年に部隊に入り、同年、北部に「集結」した。カマウから部隊ごとポーランド船で出航し、ハイフォンのドーソンに上陸した。北部に来て初めて靴というものをはいた。北部滞在中は第303師団に属し、師団の砲兵や技術士官学校で学んだ。1961年に南に行く命令を受けた。ゲアンからタイニンまで7か月をかけ、その後メコンデルタに入り、ロンアンを経由してカマウに戻った。1962年のことであった。北から南に入った時、飲食物は不足し、マラリアで死ぬ人が一番多かったがその薬もなかった。

アイン(⑨)の父と兄、タイ(⑪)の兄、ミン(⑯)本人も直前まで「集結」する予定であったが病気などの理由でととまった。誰が「集結」するかは党が決め、多数の党員が「集結」した。ジュネーブ協定後、革命政権は残らず、党組織だけが密かに一部残された。また敵政権への要員潜入もおこなわれた。

(2)政治闘争
この時期、解放勢力側はジュネーブ協定を遵守すべく、武装闘争は控えていた。ルック(①)によれば、カマウで困難だった時期の一つは1954~59年の時期で、武装闘争は控えられていたため、発砲させた武装勢力の指揮官は処分されたという。ジェム政権の弾圧がだんだんと厳しくなり、ルックの社には幹部が5人しか残らず、集落120戸中、100戸余りから拘束者が出た。

しかしこの時期、まったく解放勢力側に武装勢力がないわけではなかった。「集結」後も一部残した武装勢力をもとに、1956年頃、宗教団体に偽装してディン・ティエン・ホアン(Đinh Tiên Hoàng)部隊とゴ・ヴァン・ソー(Ngô Văn Sở)部隊がつくられた。これらは「クッション単位(đơn vị đệm)」と呼ばれた。両部隊は当初はジャングルに駐屯し、衣服から食糧まで民に依拠した。武器は乏しく、54年時に埋めて隠しておいたものを掘り起こして使用した。ジェム時代、爆撃はなく、襲来するヘリや舟艇も非常に少なかった。

(3)ジャングル村
カマウでは1958年に戦闘ジャングル村(làng rừng chiến đấu)運動が始まった。ジェム政権の弾圧強化に対応した動きである。ジャングル村は敵支配地区で活動する幹部が休息し、その家族が戦略村などから避難するためにつくられたものである。ミン(⑯)は58~59年、ジャングル村に入り、青年工作に従事した。クン(⑧)は「ベトコン」の妻子だとして戦略村に押し込まれたが、1959年に郷里のソックチャン省のジャングル村に戻った。クンによれば、チャン・ヴァン・トイ県には3つのジャングル村があり、地下活動をする幹部・部隊の人の妻子が集まっていたという。

インタビュイーの自宅に伺いインタビュー

2.武装闘争へ(1960~1975年)

(1)部隊の編制
1959年の労働党15号決議により、政治闘争と武装闘争の結合による闘争方針が打ち出され、カマウでも青年団などを中心に一斉蜂起運動が起こされた。1960年末には南ベトナム民族解放戦線が結成された。1960年、ディン・ティエン・ホアン部隊とゴ・ヴァン・ソー部隊は、第1ウーミン小団とフーロイ第1・第2小団の地方部隊に編制された。ルック(①)はディン・ティエ・ホアン部隊から引き続いて、レー(⑰)は新たにカマウ省隊・第1ウーミン小団に入隊した。ホアン(⑤)は、1961年にザーライ(Giá Rai)県隊に入隊した。タイ(⑪)は、1962年末にカイヌオック県隊に入隊し、75年まで同隊に所属した。次第に同隊は強化され、最強になったのは72~75年だという。

南部の解放勢力側の武装勢力を「解放戦線軍」ということがあるが、これは適切な表現ではないと考える。ベトナム語では「Quân Giải Phóng Miền Nam Việt Nam」であり「南部解放軍」あるいは「南ベトナム解放軍」である。ルック(①)によれば、党が軍隊や解放戦線を指導したのであって、解放戦線は軍隊を指導できなかったとしている。タイ(⑪)も、彼の所属するカイヌオック県隊は県党委が直接指導し、命令は県隊、指導は県党委で、解放戦線との関係はあまりなかったという。タン(⑬)も、彼の所属する県隊は県党委の指導の下にあったという。
解放戦線は大衆運動工作機関であり、クン(⑧)は同戦線直属の解放婦女連合会での工作に従事していた。彼女によれば、解放戦線の機関は社に5~6人の人員がいたが、独立した事務所はなく民家に寄寓し、独自の予算もなく、給料も支給されなかったという。彼女は解放婦女連合会の工作で、地元のブルジョアに支援と寄附を求める運動もしたという。

(2)補給:海のホーチミン・ルート
武器の補給については、海のホーチミン・ルートによる補給がなされた。ベトナム北部からカマウまでの海上輸送ルートを最初に開拓したのはカマウ出身のボン・ヴァン・ジア(Bông Văn Dĩa)で、彼は1962年9月14日に28トンの武器を載せて北部を出航し9月20日にカマウのヴァム・ルン(Vàm Lũng)船着き場に無事到着した。

ホアン(⑤)は、1962年以降、地方軍の装備はかなり強化されたとし、それは海のホーチミン・ルートにより北からの武器の補給がなされたからだという。彼の所属する第962中団は1962年9月に成立したが、ヴァム・ルンを含むカマウの3つの船着き場で武器の受け取りに従事した(1968年まで)。1964~66年初に運んでいたのは、K.44や中国製手りゅう弾などであった。B40やB41は1966~67年頃に運ばれた(AKは1966年にケサンの戦場で登場)。カマウからチャーヴィン、ベンチェーにも武器が運ばれた。テト攻勢(1968年)で船着き場が露見し、海上ルートから陸上ルートに切り替えられた。海上ルートでは武器のほかに、社会主義諸国の薬品や米ドルなども運ばれた。

タン(⑬)は、1965年に社のゲリラに参加した。社のゲリラは中隊規模で30~40人いた。ゲリラの銃は、以前のフランスの銃と米軍から奪った銃に加えて海のホーチミン・ルートから入ったものもあった。タンは1966年に県隊(100人ほど)に移るが、県隊での銃は主にK50だったという。1968年にはAKがあったが、数は少なかった。主には敵から奪ったアメリカ製の銃で、1968年頃より北から補給された銃(AK、CKC、RPD、RPK、61mm迫撃砲、82mm迫撃砲)が多くなった。ティエン(③)は、1972年にカマウ省隊第3小団に入隊するが、武器はAKが主で、敵の銃であるM16、M79もあったという。

ニョン(⑦)は、1968年に省の青年団に引き抜かれ、青年突撃隊を担当した。カマウでは青年突撃隊の結成が1966・67年に盛んになった。ニョンが担当した青年突撃隊は、カンボジアから第9軍区に物資を運ぶのが任務であった。青年突撃隊は女性が多かった。(青年突撃隊には年限が定められていたが、南部ではあまり守られていなかった。クアンチやクアンビンもそうであった。一方、タインホア以北の北部では比較的年限が守られていた)。

カイヌオック県の船着き場

3.テト攻勢から解放まで

(1)テト攻勢
アン(⑥)は軍区の砲兵小団に属していたが、1963年に小団規模の戦闘がされるようになった。勝てるようになったのは1968年以降だという。兵士は給料・手当もなく、戦闘に行っても支給されただけの食事しか食べられず、民に養われていた。兵士の妻子は自活しなければならなかった。休暇制度も整備されておらず、負傷した時だけ家に送り帰された。

ルック(①)は、1968年のテト攻勢では第2ウーミン小団に属し、カマウ市の行政庁舎を攻撃した。夜中の1時から昼の11時までの戦闘で、その日のうちに弾薬が尽き、犠牲も多く出たので撤退した。特殊部隊は32人いたが、生き残ったのはほんの数人だった。警察署を11人で占拠したが、昼までに全員が死亡した。ルックも負傷し、第2波には参加できなかった。

フオック(⑮)は、地方軍に所属していたが、1968年にテト攻勢のため、第1中団に補充された。彼はテト攻勢の第3波で負傷し、第9軍区政治局へ異動した(75年まで)。ハップ(⑱)はテト攻勢では第2ウーミン小団の医療チームに参加した。タン(⑫)の県隊はカイヌオックの支区を攻撃した。

アイン(⑨)は民政幹部をしていたが、テト攻勢で敵の激しい攻撃を受け、トイビン県のジャングル村に戻った。

(2)「平定期」から解放まで
テト攻勢で解放勢力側は大きな犠牲を払い、テト攻勢後、兵員不足になった。また補給ルートが遮断され苦境に陥った。敵による「平定期」の1969~72年の時期は最も困難な時期であった。タム(②)によれば、「平定」の時、物資の供給が止まり、3日間、米が食べれなかったこともあったという。

ニョン(⑦)は、この時期の1970年に、青年突撃隊から第2ウーミン小団に移っている。この時期に入隊しているのは、タム(②)(1970年に軍区軍報部隊)、ティエン(③)(1972年にカマウ省隊第3小団)、サム(⑭)(1972年に邑のゲリラ)である。

敵の「平定」をしのいだ1972年に民政幹部だったクン(⑧)は合法活動に戻り、敵の基地に対して土地返還闘争を展開した。1970年に入隊したタム(②)はベトナム戦争で57の戦闘に参加したが、多くは小規模の戦闘であったという。カマウの地形の特徴は河川が多いことで、戦車・大砲・舟艇もないため通常の歩兵の武器でゲリラのように戦った。パリ和平協定(1973年1月)後、双方の陣取り合戦で小競り合いが増えた。

カマウ省隊作戦委員会にいたルック(①)は、1972年末・73年初に北部に行き研修を受けていたが、1975年3月に急遽戦場に戻った。
1975年4月、ヴァン(⑫)の部隊はカマウ市を攻撃した。敵の降伏宣言を知らずに5月1日まで戦闘を続けた。タン(⑬)もカマウ市の接収に参加した。
カマウでは1975年4月30日はそれほど大きな軍事的出来事ではなかったかのようである。

チャン・ヴァン・トイ県の船着き場

4.戦時下の生活

(1)徴兵と徴税
南部の解放区には徴兵制度はなかったが、それなりの動員がされていたであろうと想像される。タイ(⑪)は、「人々を革命に従わせた最大のものは体制(サイゴン政府)への恨みである。その頃、青年が入隊したのは主に体制と生きていくことができなかったからである。それはあまりに残酷な体制であった」と述べている。

兵士には給料はなかったが、民によって扶養された。兵士と幹部を養うために、「解放負担(đảm phụ giải phóng)」が徴収された。「解放負担」についてはⅠー23. チャーヴィン省のところでも述べているが、タイ(⑪)の話してくれた「解放負担」はチャーヴィンとはちょっと異なる。タイによれば、解放区の住民はサイゴン政府の通貨を使っていたが、籾で「放負担」を納めていた。敵の陣地を攻撃する時は、人員を動員するとともに、陣地の攻撃に必要な弾丸の数の相当額に応じて籾で換算して割り当てを各戸に納めさせたという。

(2)込み入った学校制度
1932年生まれのアン(⑥)は、フランス植民地時代の「村の学校(trường làng)」に通い、フランス語で教わり、今でもフランス語ができる。1943年生まれのルック(①)は、最初「村の学校」に通い、1952~54年の3年間は「少生軍(thiếu sinh quân)」(各軍区が管理する士官・幹部の子弟向けの学校。1949年に創設された)に、ジュネーブ協定後はサイゴン政権下の学校に通った(1956年まで)。

1944年生まれのニョン(⑦)と1948年生まれのタン(⑬)は革命側が管理する「村の学校」に通学したといっているが、それは1954年までではなかったろうか。ニョンはその学校の後、サイゴン政権下の学校に通っている。1942年生まれのレー(⑰)は、サイゴン政権下の学校に通っていたが、父兄が「ベトコン」なので1959年にやめさせられた。

1950年生まれのヴァン(⑫)は、革命側が管理する「国立」の第1ニンビン校で7年生まで学んだ。教員には北の人も南の人もいた。ニンビンという名前が付けられているのはカマウ省と北部のニンビン省が友好関係にあったからである(「結義」関係)。この学校は革命幹部の子弟向けの学校で、広い解放区をもつカマウ特有の「国立」学校といえる。生徒は民家に預けられ、一緒に食事をした。

「少生軍」や「第1ニンビン校」などの特別な学校以外には、1954年以降、西南部にはサイゴン政権下以外の小学校、中学校はなく、それ以上のレベルの学校はサイゴン政府支配地域しかなかった。したがって解放区では学校での教育機会を失う子どもが多かったと思われる。それを補うべく展開されたのが「平民学務教育」であり、アイン(⑨)はこの教員を務めた。

(3)医療
今回のインタビュイーには部隊の医療部門(「軍医」)に関わったことがある人が多い。タム(②)は1968・69年の2年間「軍医」で働き、その間、医佐(y tá)の勉強をした。薬品は敵支配区から調達した。ティエン(③)は、部隊の「軍医」にずっと属した。薬品や医療器具の大半は市場で購入したものだったという。ホアン(⑤)は、1962年に医佐の研修を受け、1969年には「軍医」幹部となった。ヴー(⑩)は1964年に入隊すると「軍医」を学び「軍医」の部門で1968年まで勤めた。その後、医士(y sĩ)の研修を受け(9か月)、1971年には「民医」(軍隊内ではない民間医療)に移った。しかし軍事作戦中は部隊に従軍した。1973年にはカイヌオック県の手術隊隊長になった。

ハップ(⑱)は、部隊に入隊して1964~68年まで医佐クラスで学び、小団の手術隊に入った。「平定」の時期、医士クラスで学んだ。掃討が厳しかったので、クラスは避難してばかりいた。第4ウーミン小団で「軍医」をしている時にベトナム戦争終結を迎えた。戦争中は敵に気づかれないように椰子の実を採取し、そのジュースで輸血をした。1978年から医師(bác sĩ)の勉強をし、82年に医師となった。ハップは、医佐(y tá)⇒医士(y sĩ)⇒医師(bác sĩ)の段階を踏んでまっとうしたケースである。

(4)結婚
ルック(①)は、1969年末・70年初に婚約した。党組織が証人となった。党員は結婚を党組織に報告しないと罰せられた。ホアン(⑤)は、1968年に婚約式をし、部隊の政治員が婚約宣言した。党組織に手続きしなければならなかった。式は午前11時に終わり、午後3時に出撃命令が出て移動した。1971年にようやく結婚できた。アン(⑥)は1965年に結婚したが、実際に結婚生活を送れるようになったのは7年後の1972年だった。

アイン(⑨)は1966年に結婚した。夫は部隊の兵士だった。婚約から結婚まで8年かかった。その頃、結婚は家族にではなく単位(職場)に認めてもらうものであった。結婚式はジャングルの中で密かに非常に簡素におこなわれた。式後、1週間だけ一緒にいて、その後、それぞれの職場に戻った。1968年、息子が生後5か月の時に夫は戦死した。レー(⑰)は1967年に結婚した。結婚式は部隊が組織してくれた。レーの家では父親は既に亡くなっており、母親は係争地区におり、兄弟は出征していたので、花婿側の家族の出席者はいなかった。

北部と同様、カマウの青年突撃隊の女性隊員で結婚しなかった人は多い。ニョン(⑦)によれば、カマウ市では87人中、10人以上が結婚しなかったという。

枯葉剤の被害者の家を訪問する

5.枯葉剤の被害者

カマウで撮られた写真「カマウの死の森」(中村悟郎撮影)は枯葉剤被害を表現した最も代表的な写真の一つである。タイ(⑪)によれば、当地では1963~64年に枯葉剤がバイハップ(Bảy Háp)川沿いに多量に散布され、川沿いの樹木が枯れ果てたという。

今回のインタビュイーの身内にも枯葉剤被害者がいる。クン(⑧)は息子とその孫1人、ヴー(⑩)は本人と妻、3人の子どものうち2人、サム(⑭)は子ども2人(1人は既に死亡)が枯葉剤被害者だった。

カマウ省枯葉剤被害者の会(2005年6月9日設立。会員4304人)の副主席フン(④)によれば、カマウ省だけで約1万8千人の枯葉剤被害者がいる。枯葉剤被害者のうち、抗戦参加者(革命側)とその子弟は5千人余り(そのうち子弟は2・3千人)で、あとの半数以上は旧サイゴン軍兵士(およびその子弟)と一般人である。後者については、独自の手当はないが、身体障がい者・貧困者・孤児などの福祉手当が支給されている。とはいえ待遇(金額)に大きな違いがある。ここでも革命功労者(およびその子弟)とそうでない人との差別がみられる。

カイラン(カントー市)の水上マーケット

おわりに

カマウは1940年代後半からかなり広大な解放区があり、50年代なかばまで南部革命の中心地であった。そのため少生軍やニンビン第1校のような学校も開設されていた。ベトナム戦争中、北ベトナムが南ベトナムを「侵略」したという見方もあったが、1940年代後半からカマウのような広大な解放区が南ベトナムに既に扶植されていたのである。ジュネーブ協定後もカマウでは宗教に偽装した武装勢力がつくられるなど、早くから武装闘争への準備がなされていた。ベトナム最南端の地ということもあり、カマウは北からの陸上での補給は難しく、自力更生に頼るところが大きかったが、武器は海のホーチミン・ルートから補給された。陸のホーチミン・ルートからの武器・物資・兵員の補給が盛んになるにつれ、そのルートから遠いカマウは戦場としての重要性を低下させていったように思われる。

今回の聞き取り調査がおこなわれた2013年からベトナム戦争終結40周年の2015年にかけての頃、ベトナムにおける戦争の記憶の重要な変化がみられた。一つは、サイゴン政権に対して従来は「傀儡政権」といわれてきたが「ベトナム国家」、「ベトナム共和国」という正式名称が使われるようになったことである(古田元夫「最近のベトナムでのベトナム戦争研究書 ーグエン・ティ・ヴェット・ガ編『ベトナムの抗米救国抗戦ー歴史的選択』2015ー」『アジア太平洋討究』No.31 March 2018、112ページ)。

二つは、中越戦争について公然と言及されるようになったことである。小高泰氏は、中野亜里勉強会(2023年10月28日)の<お知らせ>メール(2023年10月10日付け)の中でこう述べている。「2013年頃から中越戦争について史実の公開要求の声がメディアから発せられます。それから世論の高まりでついに共産党の容認の下でハノイでシンポジウムまで開催されました。それまで貝のように口を閉ざしてきた中で、なぜそうした変更が生まれたのか。これはベトナムの対中政策のひとつの表れと捉えるべきではないのか」。

このような変化はベトナム社会科学アカデミー・史学院編『ベトナム歴史』全15巻(2017年出版)にも見られる。この通史では次のような特徴がみられる。◆「北方国境戦争」(筆者注:中越戦争のこと)は自衛戦争であり、1980年代まで続いた「ベトナムに対する中国の侵略戦争」だとした。◆旧サイゴン政権やサイゴン軍に対して「傀儡政権(ngụy quyền)」や「傀儡軍(ngụy quân)」という言い方はやめて、ベトナム共和国政権やベトナム共和国軍といった中立的な言い方を用いている。

ベトナム共和国が正統的に取り扱われるようになった背景には、民族和解・民族和合の問題もあるだろうが、南シナ海のチュオンサ、ホアンサの両諸島の領土的主権の問題が大きいと思われる。かつてこれらの諸島はベトナム共和国が領有を主張していたからである。その継承性という意味でベトナム共和国を正統な政権だと認める必要があったのではないだろうか。(以上は次の拙稿を参照。今井昭夫「<資料紹介>ベトナム社会科学アカデミー・史学院編『ベトナム歴史』全15巻、社会科学出版社、ハノイ、2017年」『東京外大 東南アジア学』No.23, 2018. 163~171ページ)

大南国寺の祭壇。中央に上から仏陀、雄王、陳仁宗。右隣が陳興道。左隣がホー・チ・ミン

2013年8月26日、空路にてハノイ市からホーチミン市に移動。8月27日、ホーチミン人文社会科学大学のドアン・レ・ザン先生、ディン・ルー・ザン先生とビンズオン省の「大南ワンダーランド」の大南国寺を見学。8月28日、ホーチミン人文社会科学大学の国際関係室、ベトナム学部と協議。8月30日、ホーチミン人文社会科学大学・日本学部のルック先生と夕食。同日、深夜便にて帰国。                    (了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?