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Ⅰー24. 「ホーおじさん教」の戦争の記憶:北部ハイズオン省の「平和廟」

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(24)
★2012年11月24日~11月30日:ハノイ市、ハイズオン省

見出し画像:「平和廟」の祭壇

はじめに

今回は、北部ハイズオン省に本部がある宗教組織「平和廟(Đền Hòa Bình)」の信者に聞き取り調査をした。ベトナムでは前世紀末頃から「新宗教」現象といわれる現象がみられるが、その中にホー・チ・ミンを「本尊」とする「ホーおじさん教(đạo Bác Hồ)」と総称される民衆宗教が1980年代から紅河デルタ各地に登場するようになっている。本稿で扱う「平和廟」もそのうちの一つである。「ホーおじさん教」の創始者たちはいずれもベトナム戦争世代である。「平和廟」を通して、21世紀初のベトナム北部の民衆宗教に戦争の影響がいかに見られるのかを検討していきたい。

今回の調査旅行の日程は以下の通り。
11月24日、日本を発ち、ハノイ市着。11月26日、国家会議センターで開催された国際ベトナム学会議の第15小班で発表。翌日も同会議に出席。11月28日、社会科学院・社会学研究所を訪問。その後、医療省に行き、「平和廟」の信者で研究者であるキエウ氏と会う。11月29日、朝7時、タクシーでハイズオン省に向かう。9時半頃、ハイズオン市郊外の村に寄り、「平和廟」の信者の家を訪問し、信者たちのグループ・インタビューを実施。午後4時過ぎ、ハイズオン省チーリン(Chí Linh)市のホテルに投宿。11月30日、同市内の「平和廟」を訪れ、創立者などにインタビューし、夕食まで滞在。午後8時、「平和廟」から直接、ノイバイ空港に行き、深夜便にて帰国。

(1)「ホーおじさん教」と「平和廟」

ベトナム宗教研究所の研究員マイ・トゥイ・アインによれば(2022年)、2021年の時点で「ホーおじさん教」と目される宗教団体は23あり、北部の平野地方がほとんどである(ハノイ市7団体、ナムディン省3団体、タイビン省3団体など)。共通点はホー・チ・ミンを「玉仏ホーチミン」としてそれらのパンテオンの中で最高神に祀っていることである。創立者は1団体を除いて女性であり、創立者はホー・チ・ミンのお告げを聞いたとし、病気治療・運命占い・徐霊・招魂などにおいて特異な才能を持つとされている。これらの教団は小規模で、比較的規模の大きな教団では2010~2015年の時期には祭礼の時には数千人を集めることもあったが、2015年以降はそれ以前と比べると下火になっているという。信者の多くは、女性(男性の4.8倍)(とりわけ寡婦が多い)、高齢者(55歳以上が72%)、高学歴ではない人々(主には中卒)、退職者・主婦・農民、である。「ホーおじさん教」で国家から公認されている教団はまだない。

「平和廟」は女性のファム・ティ・スエン(Phạm Thị Xuyến:1948年生まれ)が創立した教団で、「ホーおじさん教」の代表的な教団の一つであり、当局と良好な関係を保ち、同教団は「公認宗教」化を目指している。教団側の発表では信者数は2万人以上である。「平和廟」は比較的穏健な教団であるが、「ホーおじさん教」のなかにはハノイ市の「黄天龍」のように「聖水」による病気治療をめぐって当局との摩擦を引き起こしている教団もある。教団の本部は、ハノイ市とハイフォン市の間にあるハイズオン省チーリン市サオドー(Sao Đỏ)坊にある。

筆者はこれまでに(2023年まで)平和廟を5度訪問し(2011年8月24日、2011年12月28日、2012年11月29・30日、2017年7月20日、2022年12月5日)、創立者(教祖)や信者へのインタビューやアンケート調査をおこなった。その結果を以下に報告する。

左から2番目が教祖。その右隣が夫。左隣は軍人出身の信者

(2)教祖のライフ・ヒストリーと「平和廟」の形成過程

筆者は2011年12月28日に教祖ファム・ティ・スエンに、2012年11月30日に教祖の夫レ・ズイ・ダット(1940年生まれ)に平和廟本部においてインタビューした。以下では、そのインタビューの内容に基づき、平和廟の形成過程をたどる。

教祖ファム・ティ・スエンは1948年にベトナム北部ナムディン省スアンチュオン県に生まれた。父が林業従事者で母は農民の貧しい家庭であった。兄がいたが早逝し、スエンは長子。下に妹1人と弟1人がいる。学校は3年生まで通学した(注:前述のアインによれば7年生)。1963年、15歳の時、村と社の少年団の連隊長になった。同年、母が42歳で亡くなった。父はまもなく再婚したが、継母との折り合いが悪く、家出をする。結局、家に連れ戻されたが実家には戻らず、伯母の家に寄寓して、親とは生計を別にした。農民として生活し、妹も養った。15歳の頃から「空の声」が聞こえるようになった。

その後補習を受けて勉強が比較的できたのと、少年団活動に参加していて物怖じしない性格だったので、17歳の時(1965年)に電線工事労働者に採用された。電力石炭省の第三高圧電線工事隊に所属した。3か月研修した後、電線の敷設工事に従事し、ハイフォン、ニンビン、ランソンなど各地を転々とする生活を送った。農民から労働者になって最初の1年で体重が7キロ増えた。当時、農民はそれほど窮乏していた。電線敷設工事は重労働で、建設小屋で暮らす日々だった。その間、北爆が激しかったので、1966~67年に2回、森の中に疎開した。1967年、19歳で結婚した。相手は同じ職場の技術者で、研修時代の教官だった。夫は地方出張が多かったので、別居結婚に近かった。同年、第一子誕生。

1972年、24歳の時、この年から「天のお告げ」が聞こえるようになり、天の教えを学び、書き記すようになる。体の変調が続き、1か月間病院に通い、1年近く診察を受ける。ハノイのバックマイ病院で診療を受けると神経症だと診断された。1973年、現在の居住地であるハイズオン省に転居し、集合アパートに入居。3か月療養し、精進料理を1か月間食べ続ける。しかしその後はやめる。魂が体から抜けていくような感じが年中つきまとった。1975年4月、ベトナム戦争終結。

1978年、何度も「天のお告げ」を聞く。ローおばさんのところで祈祷をする。浮遊するような異常な感じが絶えずした。相次いで7人の女性祈祷師にみてもらう。目の不自由なライおばさんに「祭殿(điện)」(祈祷所)の設立を勧められる。1982年、現在の居住地に転居。1984年、ライおばさんに入門し、7月14日に「祭殿」を設立。しかしまだ国家の労働者だったので、控えめに活動。ライおばさんとは金銭問題のこじれなどから2年後に袂を分かった。夫のダットの話によれば、教祖は憑依儀礼のレンドンが巧みで、最初に「祭殿」をつくった時はまだ他所の「祭殿」のレンドンにも参加していた。また冥器を一家で作り、それを販売していた。教祖の売り場はよく売れ、一家の重要な収入源となっていた。

ドイモイ路線が採択された1986年に教祖は早期退職し、宗教活動が本格化する。同年、平和殿(Điện Hòa Bình)を称する。1988年、40人以上から成る「平和団(Đoàn Hòa Bình)」の団長に。1989年にはナムディン省のフーザイ(聖母神の柳杏が祀られている)に詣でる。この頃まで、教祖の宗教活動は伝統的な聖母道の枠におさまっていたと思われる。

説法をする教祖(小豆色の服を着た女性)

1991年にソ連が崩壊し、ベトナム共産党第7回党大会でマルクス・レーニン主義と並んで「ホー・チ・ミン思想」が党の依拠するイデオロギーとされるようになった。1992年、ホーおじさんの郷里に行くようにとのお告げが教祖にあり、訪問。これが転機となり、ホーおじさんを祀るようになる。また天への奏上も詩でおこなうようになり、経文や「南無阿弥陀仏」を唱えなくなった。1998年、冥器を焚くのをやめる。「お経」もなく、木魚もなく、ただ合掌して詩を奏上するだけになった。

2000年6月に名前を「平和廟(Đền Hòa Bình)」あるいは「父の廟(Đền Cha)」に変え、2002年に「ベトナム国・天道」(ホーおじさん教)の誕生を宣言した。2003年から地方当局(公安、宣教など)とのやり取りが始まった。私的な「祭殿」と異なり、ある程度公的性格を帯びる「廟(đền)」と名乗ったこと、ホー・チ・ミンを勝手に祀っていることなどが問題にされた。2008年から、署名入りの公開文(冊子やCDなど)を積極的に公表し、これまでに62巻刊行し(2012年時点)、党中央や国家機関などにも送付している。

以上が教祖のライフ・ヒストリーの概略であるが、1980年代に聖母道を基盤として宗教活動を開始し、1990年代から聖母道の宗教実践を改めていき、今世紀になって「ホーおじさん教」を唱道するようにいたった経緯が見てとれる。

教祖のスエン夫婦は労働者階級であり、反体制的というわけではないが、ただ共産党員になれなかった屈託を抱えている。教祖はこう語る。「労働者になって、職場の婦人会会長になり(21年間)、青年団執行委員会や労働組合執行委員会にも選ばれた。いずれの活動も忠勤し模範的で廉潔で、誰からも非難されるようなことはなかった。それで共産党への入党を紹介してくれる人もいたが、結局、入党しなかった」と。夫のダットは自分が大卒の技術者で青年団や労働組合の書記の経験もあるのに、党員になれなかったのは、主に妻が「迷信に染まっている」とされたからだとしている。共産党員になっていれば、公然とした宗教活動をするのは困難であったので、教祖はそれを天の思し召しだとしている。教祖が戦時下の20年余りを模範的な労働者として過ごしてきたことは、伝統的な聖母道に安住せず、宗教的言説のなかに社会的メッセージをも込める姿勢を生み出すのに影響を与えたように思われる。

教祖が作成した降筆文ノート
一番上の列の文字が「天字」

(3)平和廟の経典と教義

平和廟の経典に相当するのは、教祖が天から聞き取った降筆の詩である。夥しい量の降筆詩が産出されている。降筆詩はパソコンに入力・印刷され、大量に製本化されている。このようにして作成された大量の冊子の一部は「天字」と呼ばれる独特の文字で書かれている。
以下では、これらの冊子に依拠して、平和廟の教義の一端を簡単に見ていきたい。

①ホー・チ・ミンの位置づけ
世界には有形のこの世と無形の心霊界が存在し、ホー・チ・ミンは死後、心霊界においても、その最高指導者の地位を占めると考えられている。ホー・チ・ミンは玉仏かつ玉皇上帝で、天から神格の最高位を与えられており、ベトナム民族の始祖・貉龍君の生まれ変わりである。

②歴史観:ベトナム中心史観
ベトナムは人類発祥の地であり、世界の長たる国であるとされている。ベトナムの始祖は貉龍君(ラク・ロン・クアン)と嫗姫(オウ・コー)であり、従来の始祖に関する歴史は捏造されてきたとする。ベトナム民族は独立・自由を守るために輝かしい歴史をもっており、建国と侵略者との闘争の歴史において、「再魂」現象(生まれ変わり)があるとしている。貉龍君は、貉龍君⇒桃郎王⇒陳興道⇒阮廌⇒阮恵⇒阮愛国(ホー・チ・ミン)に、嫗姫は、嫗姫⇒柳杏(聖母神)⇒ホアン・ティ・ロアン(ホー・チ・ミンの母親)に生まれ変わったとされている。

③心霊革命
21世紀の初めは人類史にいまだなかった心霊革命を起こす時であり、ホー・チ・ミンが心霊革命を指導する。
平和廟の経典では龍華会(この世の終末に衆生済度のために弥勒菩薩が開く会)について言及されておらず、他の「ホーおじさん教」と比べると終末論的要素が希薄である。ただし天のプログラムに従って霊と宗教の選別・審判がおこなわれる。平和廟の経典でいわれる悪霊(tà tinh)は、昔ベトナムを侵略してきた敵の死霊である。これがベトナムの民と国に害を及ぼそうとしており、この世での主権のほか、心霊界の「陰の国」の主権をも獲得するには、自国の領土内に潜んでいる侵略者の魂をすべて駆逐し、外国の神仏(シャカや観世音も含む)を駆逐しなければならないとされる。

以上見てきたように、平和廟の経典では、ベトナムは世界の長子国だとの民族的自負心が語られており、それを象徴するものがホー・チ・ミンの位置づけである。心霊革命で目指されているのは、個人の救済というよりはまず民族・国家の救済である。具体的には、心霊界における主権の獲得(民族独立闘争)と国粋化の遂行(霊と宗教の選別・審判)であり、その功績を残してきた先人たちへのコメモレーションである。その上で平和・大同世界の実現が希求されている。コメモレーションにおいては、烈士の墓への墓参・供養が重要視されている。ベトナムでは戦争関連の国家儀礼の場では、慰霊的要素は比較的希薄で、顕彰の占める割合が大きい。平和廟は、公的な場で仏教の僧侶など外来の宗教が烈士の供養をしているのは無駄で害がある、ときわめて批判的であり、自らがその任を負うと自負している。

祭壇に向かっての儀礼

(4)平和廟の儀礼

①平和廟の祭壇
平和廟本部の祭壇は、以下のようになっている。

最上段:ベトナム国旗
上段:(左から)陳興道、ホー・チ・ミン、ホアン・ティ・ロアン
下段:(左から)烈士、 土地神、 祖先

上段の中央にホー・チ・ミンが位置し、左側にはベトナムの民間信仰で「父神」とされている陳興道(チャン・フン・ダオ:13世紀に蒙古襲来を撃退した将軍)が、右側にはホー・チ・ミンの母親が祀られている。平和廟の教義からすれば、陳興道とホアン・ティ・ロアンはベトナム民族の始祖・貉龍君と嫗姫の生まれ変わりである。下段は中央が土地神、右側が祖先神でこれらは他の民衆宗教でもよく見られる。平和廟の祭壇の特徴的なところは、仏教・道教の直接的要素と思われるものが削られ、ホー・チ・ミン母子と烈士を祀る祭壇が設けられていることである。

②儀礼の簡素化・倹約化
平和廟の自己認識では、平和廟は「迷信異端」や誤った祭祀を排した新しい宗教である。儀礼では、冥器・冥銭を使用していない。冥器を焚くこと、運勢占い、レンドンなど各種儀礼は民にとっては煩雑で物入りなため、平和廟では平信者から幹部信者まで一心に経典を読むことが信仰だとしている(インタビューでの教祖の言)。レンドンのように踊ったりすることはなく、「天字」を用いて天への上奏文を書いている。このような儀礼の簡素化・倹約化には、拝金主義を忌避し、他の民衆宗教との差別化をはかるとともに、「迷信異端」を禁止している当局への配慮も働いている。

信者の家の祭殿

(5)平和廟の組織と信者
教祖は教団内では「ドン長(trưởng đồng)」である。一般に「ドン(đồng)」とは神霊や死者の魂が体内に入り不可思議な言葉を発する人のことである。信者へのインタビューによれば、信者は「ドン員」と「会員」に分けられており、「ドン員」に対しては24条の戒律が課せられている。現在(2012年時点)、副ドン長が2人(女性)と書記がいる。信者の多くは労働者、農民、退職幹部で、元軍人や党員も含まれている。信者の大多数は女性である。

信者の実態を知るために、2012年11月29日に平和廟本部から車で30分ほどの所にあるハイズオン省トゥーキー(Tứ Kỳ)県タンキー(Tân Kỳ)社において、信者のグループ・インタビューを実施した。全員が女性(36~68歳)でトゥーキー県在住者。6つの社から8人に集まっていただいた。⑦のソン以外は農民である。インタビューをおこなった場所は、平和廟の副ドン長であるグエン・ティ・タイの自宅である。ここには祭殿(điện)も設置されている。以下にインタビューの結果をまとめる。名前は①のタイ以外は仮名である

信者へのグループ・インタビュー

①タイ(48歳):27歳で原因不明の病気にかかり、それ以来悩まされる。2000年に自宅に祭殿をつくり、平和廟の教祖に教えを請う。2006年から自宅の祭殿に多数の人が来るようになる。教祖に呼ばれると平和廟本部に行き、大きな祭礼の時は数日間滞在する。自分では降筆、詩作はせず、自分独自の弟子はいない。7月27日(烈士の日)、9月2日(ホー・チ・ミンの法事の日)、8月20日(チャン・チエウ Trần Triều つまり陳興道の法事の日)、3月10日(雄王の法事の日)に儀礼をする。在家で修行し、まっとうな生活をし、浪費せず、むやみに出歩かない(他の宗教講のように無理して巡礼団に参加する必要はない)。祝日には信者は任意でここに来て、線香を手向け、会食する。信者はほとんどが女性。

②キエム(65歳):以前、病気になり、いろいろな病院に行き、祈祷もしてみたが駄目だった。ここに来てから丈夫になった。7月27日、9月2日などにはみんなでここに集まる。この祭殿では信仰治療や墓探しはしていない。地元の社当局から尋問されたことがあるが、今は問題ない。この宗教は国の恩人や祖先への恩への報恩であって、「迷信異端」ではなく、浪費もしていない。儀礼の時もたいした金額を使ってはいない。厄払いで5千ドンから1万ドン、地鎮で2万ドンから3万ドン程度である。

③クエン(56歳):家では3年ごとに1人が同じ日に亡くなっている。姑の命令で38歳の時から仏教に帰依したが、2003年にここに来てからは止めた。2005年に姑が亡くなり、スエン師(教祖)に見てもらうと「祟り」が重なっているということで、「祟り」を解いてもらうと、それ以前はガリガリに痩せていたのが健康になり、家畜の飼育もうまくいかなかったのが順調にいくようになった。家の祭壇では、上段に国旗とホーおじさんを、下段に土地神と祖先を祀っている。

④ルア(36歳):2001年に出産したが、その時、舅が何度か倒れ、姑も血を吐いたが、病院で診てもらっても何ともなし。2001年にタイさんのところに来る。それまで、家には6つの香炉があり、多数の祈祷師のところに行って物入りだった。2002年から入信。舅姑も従い、2004年には子どもも舅姑も元気になった。毎年の教祖がおこなう儀式には参加するが、年に1回か2回のみ。他のところだともっと回数が多く、お金がかかる。教祖のところだと交通費と供物代で3万~5万ドンのみ。

⑤オン(56歳):ここに来る前、嫁と孫はよく病気にかかった。いろいろな医者に診てもらったが治らず。2001年にここに来て、厄払いをしてもらうと嫁と孫は元気に。平和廟は儀礼が簡素でお金がそんなにかからない。スエン師は烈士の家庭に贈り物をする。私が平和廟に従うのは、建国・国防に貢献した人の恩を忘れず、烈士英雄を祀るから。平和廟はホーおじさんの郷里など、国に貢献した人を慰問する参拝団を組織している。

⑥ビン(45歳):夫の家庭は多くの問題を抱え、家じゅうが病気になっていた。2003年末に自分も病気になり、ここに来た。地鎮してもらうと治った。2004年初にスエン師に「祟り」を解いてもらった。それから生計もよくなり、家族は元気になり、誰も病院に行かず、夫も賭博をしなくなった。2004年から冥器を焚かなくなった。今では平和廟を堅く信じ、他のところには行かない。

⑦ソン(39歳):1994年に子どもを産んでから家は貧しくなった。94~97年に夫は病気がち。2年ごとに11月になると入院。数百万ドンが入院費で消えた。2003年にここに来て厄払いし、スエン師のところで「祟り」を解いてもらう。スエン師の本を読んで修行するようになった。今では夫も元気になり家庭円満。家には2つの香炉のみ。望月の日には菓子のお供え物をする。1月と7月の望月と「烈士の日」には食事をお供えする。毎日、15~20分、国の英雄烈士を祭祀する。ベトナム人の誰もが私たちのようになれば、わが国は真っ正直、親孝行、団結的になる。政府がこの宗教を公認するのを望む。

⑧チャン(68歳):20歳で結婚。21歳で出産し、子どもが8か月の時に夫が出征。22歳の時、夫は戦死。家には多くの問題が発生。義弟が感電死し、甥が橋から飛び込み自殺した。2001年に舅が亡くなると、教祖に厄払いしてもらってから、家族は元気に。2005年にクアンナム省の墓地からこちらに亡夫の遺骨を改葬して以降、物事は順調になった。

以上見てきたように、平和廟の組織は比較的ゆるやかで、組織的には女性の伝統的な宗教講と競合している。インタビュイーのほとんどの人が病気や家庭問題がきっかけで平和廟に入信している。信者から平和廟が評価されているのは、病気等の苦難を厄払い、地鎮などによって解決するとともに、平和廟の儀礼が簡素でお金がかからない点、および「ホーおじさんの法事の日」とならんで「烈士の日」が特別の日とされているなど、建国・国防に貢献した人々のコメモレーションをおこなっている点である。

「心霊革命」で唱えられていた民族・国家の救済と上述の私的救済は、平和廟独特の「悪霊」の捉え方によって結び付けられている。個人や民族の災厄は「悪霊」が憑りつくことによって生じるが、この「悪霊」は主にベトナムへを侵略した者の死霊とされ、そのため個人のための厄払いと民族のための厄払いは連続するのである。このような特異な「悪霊」の捉え方は、教祖たちの民族解放戦争の体験が色濃く反映されているといっていいだろう。

平和廟本部の建物内

おわりに

(1)ホー・チ・ミン崇拝は、公共機関、村落の城隍信仰、既成宗教において見られるだけではなく、ホー・チ・ミンを最高神とする宗教団体である通称「ホーおじさん教」において最も先鋭的に見られる。本稿で扱った平和廟では、ホー・チ・ミンは玉仏、玉皇上帝で心霊界を指揮する最高の地位を占め、ベトナム民族の始祖・貉龍君の生まれ変わりであり、平和廟の唱える「心霊革命」の指導者である。この「心霊革命」では、単にこの世の民族独立だけではなく、あの世での民族独立も目指される。ホー・チ・ミンはその指導者の役割を託されており、民族独立と大同世界の象徴である。

(2)宗教的には、「新宗教」および「ホーおじさん教」はベトナムの民間信仰である聖母道を基盤としたもので、平和廟は聖母道のパンテオンをホー・チ・ミンという統轄的神格によって集約化し、儀礼を簡素化・倹約化したものともいえる。聖母道にはない新しい要素としては、ホー・チ・ミン以外に烈士がある。ホー・チ・ミンと烈士の祭祀は当局も否定できない「盾」となっているとともに、平和廟の草の根愛国主義の現れでもある。平和廟は外来宗教には非寛容で国粋的である。平和廟は民族解放戦争の記憶を刻印し、それを経験してきた民衆の心性に合わせて、民間信仰から発展した民衆宗教である。その戦争の記憶は、始祖から生まれ変わりで継承される英雄譚を語るとともに、解放戦士の慰霊と侵略者の死霊の徐霊という宗教儀礼で表現されている。

(3)平和廟は反体制を標榜しているわけではなく、経典の中でも、党や政府の政策の遵守や国家建設への貢献を説いている。しかし平和廟の掲げるホー・チ・ミン像は社会主義色が脱色された表象であり、市場経済化・グローバル化の趨勢下の現状(拝金主義や腐敗・汚職の横行)に対する平和廟の批判的反応が込められているともいえる。「ホーおじさん教」の中でも、2013年春に「黄龍天」は信仰治療をおこなっていたため、当局から「迷信異端」視されるようになったが、今後も平和廟が当局と摩擦を生じさせることが全くないとは断言できない。

以上の文章は次の文献を参照しています。
今井昭夫「『ホーおじさん教』と戦争の記憶」武内房司編『戦争・災害と近代東アジアの民衆宗教』有志舎、2014年。290~309ページ

<後日談>
ベトナムの宗教研究所のマイ・トゥイ・アインによれば、2015年以降、「ホーおじさん教」は下火になっているいう。これは、2017年と2022年に平和廟を訪れた時の私の感触と一致する。アインはその理由については述べていないが、ベトナムが経済発展し豊かになるとともに戦中世代が次第に退場し、その影響を弱めていることと関係があるのではないかと思われる。

1955年5月15日にフランス軍が最後にベトナムから撤退した浜辺の碑
(ハイフォン市ドーソン)

2012年は12月23日~31日もベトナムを訪問している。12月23日にハノイ着。24日、B52博物館を見学。25日、社会学研究所を訪問し、所長と面談。
26日、ハイフォン市に行き、市内ホテルに投宿。調査手続きが不備で聞き取り調査を実施できず。27日、ドーソンに行く。28日、ハノイに戻る。29日、防空博物館を見学。30日、「私家祭殿(Điện thờ tư gia)」についてハノイ・フンヴオン大学のレ・ティ・チエン(Lê Thị Chiêng)先生にインタビュー。同日の深夜便にて帰国。                        (了)

 


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