ティラミス

 深夜0時、ティラミスを食べる。帰りがけにドラッグストアで買ったものだった。108円で安かった。

 スプーンでティラミスの頭の方を掬い、口に運ぶ。ココアのかかったねっとりとしたクリームとスポンジ生地を咀嚼する。ふわふわとした食感と甘さが舌をとらえる。おいしかった。またスプーンでクリームを掬う。口に残っている生地を飲み込む。スプーンを口に運ぶ。咀嚼する。掬う。飲み込む。
 食べることは本質じゃないのだ、と思った。その日はどうしようもなく寂しかったし、悲しかった。ひとと心を通じ合わせることができなくて、泣きそうだった。そういう時は自分を甘やかした方がよくて、だからティラミスを買ってきたのだ。口に含んだひと掬いのそれを飲み込む。クリームとスポンジのごたまぜになったまとまりが喉を下った。そのとろりとした感触が、私を労り慰める。私は自分を慈しみ、私の身体がそれを受け取る。それは儀式だった。自分で自分を労り救おうとしている、嚥下の感触はその証明で、それなしでは救いは完結しないのだった。

 冷房の音が静寂をかき消し続ける。YouTubeから流れる人の声が、いっそうのこと孤独だった。ティラミスを食べる。それは口の中でぐちゃぐちゃになって、そして喉を下る。とどのつまり、信じられるのはそれしかないのかもしれなかった。私は大学からの帰りにティラミスを買って、家に着いたら冷蔵庫に入れ、風呂に入り、それからそれをちゃぶ台に出し、スプーンを用意して、食べた。その全てが、“私”による“自分”のための“献身”だった。それは悲しくて、寂しくて、愛おしかった。

 私は部屋に一人だった。ティラミスを食べた。

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