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石を背負う


 どうも友達というものがわたくしには一人もおりません。『あんた!あんたには友達がいないの?!』。ある日妻に怒鳴られたので、仕方なく周囲を見回してみますと、いや驚きました。わたくしには一人として友達と呼べる人がいないではありませんか。幸い、昔を振り返ると、まあ友達だったんだろうなという人は、ありがたいことに数人はおります。ところが、今に至りますとみんなすっかりいなくなっちゃった。これも旅暮らし人生の結果なのでしょう。

 『あんた!友達がいなくて寂しくないの?!』とさらに妻は怒鳴りますので、さらに考えてみました。誰とでもすぐ友達になる妻からすると毎日一人でいる私が信じられないのでしょう。寂しいかと聞かれれば、そりゃあ寂しいに決まっています。何しろ口をきく相手が妻しかいないのですから。これが寂しいと言わずしてなんというのでしょう。では寂しくて辛いかと言えば、これがどういう風の吹き回しかまったく苦痛ではありません。大体寂しさなんてものは、わたくしは生まれた時から赤ん坊がてらにずっと『ああ寂しい、生きるって寂しいなあ』と思っておりましたので、もうあれから五十年も毎日寂しがっておりましたらすっかり寂しいのにも慣れてしまい、寂しいのがちっとも嫌ではなくなりました。むしろ寂しいのが楽しいくらいです。寂しさも苦痛に感じなければそれ自体が友達みたいなもので、心の中にいてくれないとかえって寂しくすら感じます。

 『あんた!今までに友達っていたの?』とことさらに妻が怒鳴るので考えてみました。わたくしの人生で一番の友達というのは、振り返ってみますと、どうやら人類ではなく猫だったような気がします。もちろん妻は猫ではありません。私の妻は今のところはまだ人間です。


 冗談はさておき、わたくしの人生で一番の友は、三十年ほど前、実家で飼っていた猫のクリだったのではないでしょうか。この真っ白い猫は、くりくりと丸い鳶色の瞳が印象的なために、私たち家族からクリと名付けられました。全身を白い絹のように輝く短い毛で覆われ、スリムでしなやかな体には、これまた真っ白で神々しい長い尻尾がついておりました。おそらくメスだったと覚えています。いや、唯一の親友をメス呼ばわりは失礼です。おそらく女性でした。ただこの点は定かではありません。別に結婚するつもりもなかったものですから、あまり性別を気にしたことはありませんでした。何しろ種さえも通り越した友情です。私たちの関係は、今風に言えば極めてジェンダーレスなものでした。

 友達と言われて、心と心を通わせた人間のことを思い出そうとしたのですが、どうしてもわたくしの脳裏には、ある種の切なさと共にこの猫のクリの丸い顔がはっきりと浮かんできてしまいます。ええ、間違いなくクリはわたくしの一番の友達でした。

 そのようなわけで、ここで改めましてわたくしの親友クリについてご紹介をさせていただきます。クリは元々野良猫で、まだ生まれたばかりの子猫の頃に、母が家の外でご近所さんと立ち話をしている時、坂の上からドタバタと転がり落ちてきて母のスカートに飛びついたのがそもそもの出会いでありました。その縁で我が家の飼い猫となり、以来、老衰で亡くなるまでの十八年間を家族として共に暮らした猫であります。それはちょうどわたくしが十代から二十代の後半へと成長する最も多感な時期と重なっておりました。

「白い天使があたしに飛びついてきた。」

 クリが最初にうちへ来たその日、うっとりと興奮して話す母の紅潮した顔を今でも覚えています。実際クリはとてつもなくかわいい子猫で、数えきれないほどの猫を見てきた獣医のワタナベ先生でさえ『こんなにかわいい猫は見たことがない』と驚いたほどの美少女、あるいは美少年でした。


 数々の人間を差し置いて、私はこの猫のクリとだけは心と心が通じ合っていたと今でも確信しています。心からそう信じています。冷静になって考えてみますと、相手は猫ですから、生涯にわたりお互いに一度たりとも言葉を交わしたことはありません。何しろ猫はニャーニャーと言うばかりで人間の言葉を話しません。しかし、心と心が通じ合うのに言葉など必要でしょうか?いいえ、友情に言葉など必要ありません。

ただ言葉による会話がないにしても、わたくしがこうも強く猫のクリを親友だったと思っているのですから、そう思うきっかけとなったエピソードの一つや二つ、例えばクリと一緒にやり遂げた何かしらの出来事などがあるはずだろうと、しきりに思い出してみたのですけれども、だいたいそもそも相手は猫ですから、犬のように毎日散歩へ行くこともなく、ただ毎日餌をやり、トイレの掃除はしましたけれども、もちろん相手は猫ですから、あれも好きな場所で寝るばかりで、殊更に私への感謝の意を表することもなく、まあ当然猫ですから、お座りやお手などの芸をして私たちに愛想を振りまくこともなく、その生涯を静かに終えていきました。

それでも思い出すのは、クリは私が家でくつろいでいると必ずと言っていいほど私の膝の上か腹の上か胸の上に乗ってきて一緒にくつろいだことです。共に暮らした十八年の間に私とクリが一緒にやったことといえばそれくらいなものです。けれども、その時に喉や耳の後ろを指先でグリグリやってあげると、クリは機嫌が良いと喉をゴロゴロ鳴らしてくれました。思いつく限り、親友クリとの一番の楽しい思い出はこれだけです。

 果たして、たったそれだけのことで心と心が通じ合ったと言えるのでしょうか?この程度の付き合いで、長年苦楽を共にしている最愛の妻よりも仲が良かったと言ってよいのでしょうか。


 これが言えてしまうのだから世の中は不思議です。クリはどう考えてもわたくしの生涯でたった一人の親友でした。今でも私の胸の上に寝転び、見つめ合ったあの鳶色の輝く瞳を覚えています。クリもじっと私の瞳を覗き込んでいました。二つの命が一つとなるために、他に何がいるというのでしょう。それだけでもう十分です。目と目を見合わせ、その瞬間、今共に生きていることを感じ合う、たったそれだけのことで、あの時私たちは永遠の友となりました。まったく縁とは異なもの、命とはまことに不可思議なものです。あれはわたくしが生涯の友を得た、かけがいのない貴重な瞬間でした。

 一方、肝心のクリが私のことをどう思っていたかは定かではありません。だいたいにおいて相手は猫ですから、何を思い、何を感じてわたくしの腹の上にいたかは永遠の謎であります。


本編

「参ったな。これはどうにもしくじった。雨の降る前に峠を超えちまう算段だったが、こんなに早く降り出そうとは当てが外れたもいいところだ。それになんだこの道は。ええ?ひどくぬかるむじゃねえか。これが天下の甲州街道と聞いて呆れるぜ。晴れている時はよく叩かれたいい道だったのによ。ちっとばかり雨が降り出したらもうこのざまよ。これじゃあ田んぼん中を歩いているのと何にも変わりゃあしねえ。おおいかん、雨がひどくなってきた。なんだなんだ。山に降った水が全部道に集まってきやがる。もう道だか川だかわかりゃあしねえ。こりゃあ早いところ峠を越えるか、どこかで雨宿りをしねえと、命だって危ねえぜ。」

 旅姿の商人(あきんど)、甚五郎が歩いていたのは午後遅い甲州街道は小仏峠。独り言を口元に呟き、雨の中をうつむいてトボトボと急な峠道を登っております。

甚五郎は今年三十五になる小柄な男で、背に葛(くず)の蔦(つた)で編んだ大きくて丈夫な四角い空の葛籠(つづら)を背負い、八王子宿を出て小仏峠を登っている最中、降り出した激しい雨に見舞われました。


甚五郎の住居は江戸水道町鯰端(なまずはた)裏手の古い六軒長屋にあります。ただそこを訪ねましても甚五郎に会えることはまずありません。一年を通し、いえ生涯を通し甚五郎が寝泊まりしていたのはたいていいつも旅の空。江戸に戻るのは年のうちで二十日もありません。彼は物心つく前の子供の頃から今に至るまでずっと全国を歩き回り、旅先で職人や農家が冬の農閑期に織った織物や反物、布を買い集め、背中に背負った大きな葛籠がいっぱいになると江戸へと戻り、馴染みの布問屋に下ろす仕事をしておりました。もちろん小さな子供だった甚五郎が一人で旅をしていたわけではなく、甚五郎の旅の隣にはいつも年上の友人がおりました。

それは甚五郎の父親代わりでもあり、仕事の師匠でもあり、相棒でもあり、また大切な友人でもあった喜助という男で、これが三年前に旅先の常陸国(ひたちのくに)で病に倒れ亡くなるまで、甚五郎が小さな子供の頃からずっと一緒に旅をしておりました。喜助が亡くなると、ついに甚五郎は天涯孤独の身となりました。

甚五郎の両親は宝暦の大火で命を落とし、当時まだ歩くか歩かないかの赤ん坊だった甚五郎の養育を引き受けたのが当時同じ長屋に住んでいた喜助です。この大火では、甚五郎の両親や親類縁者のみならず長屋の住人はみんなことごとく命を落としてしまいました。その中で奇跡的に生き残ったのが、たまたま救い出された赤ん坊の甚五郎と、たまたまいつものように旅に出ていて難を逃れた喜助だけでした。喜助は結婚したばかりのおかみさんと生まれたばかりの女の子を大火で亡くました。悲しみにくれる喜助は赤ん坊の甚五郎を引き取り、以来父親となり、仕事の師匠となり、その後甚五郎が成長し大人になると、互いに仲の良い相棒となり、孤独な身を寄せ合いながら共に旅を続ける友となりました。


ところで、若さというものは時に残酷なもので、甚五郎は喜助とずっと一緒に過ごし相棒として同じ仕事をしていたにもかかわらず、

「俺は将来喜助どんみてえにはならねえ。」

 などと恩知らずなことをずっと思い、また言葉に出して喜助に言ってきました。と言いますのも、喜助は火事で家族を失って以来人と接するのが苦手となり、仕事の上でしかたなく人と話さなければならない時以外には人と話さず、そのために心やすい友達も甚五郎の他には誰もいなくなっていました。

「俺が大人になったら旅暮らしから足を洗い、江戸に落ち着いて小間物屋かなんかを開いて、もっとみんなと楽しく話し、たくさんの友達を作って、きれいなおかみさんをもらって、かわいい子供も生まれて、毎日陽気に暮らすんだ。」

 甚五郎は旅を続けながら、そう自分の未来を想像し、喜助は大事な人だけれども自分とは違う種類の人間だと少し見下してさえいました。

「ああそうかい。おめえの好きにしたらいい。」

 喜助は、甚五郎の言葉を聞くと寂しそうにそう言ったものです。

 三年前、甚五郎三十二、喜助が六十になった年の旅の途中、この恩人が常陸国で病を得て亡くなってしまうと、一人になった甚五郎は、すでにいつの間にか自分も大人になっていて、喜助と全く同じ人生を歩んでいることにようやく気がつきました。

「変だな。俺はいつの間にやら喜助どんとおんなじになっちまった。俺には喜助どんしか友達と呼べる人間がいねえ。結婚しようにも相手がいねえし、気づいたらもう年も三十も超しちまった。俺がなるはずだった俺なんぞどこにもいやしねえ。友達もいねえし、家族もいねえ、喜助どんがいなくなっちまったら俺はもう俺しかいねえじゃねえか。驚いたな。喜助どんが俺のたった一人の友達だったんだ。それなのに俺はいつも喜助どんを友達がいねえって馬鹿にしてた。馬鹿なのは俺の方だった。」

 往々にして、自分にとって大事な人というのは亡くなって初めて大事な人だと気がつきます。しかし気がついた時にはもう遅い。常陸国でたった一人、野辺の送りを済ますと甚五郎は喜助の墓の前で泣きました。


「この雲はよくねえ。雨降りだ。おめえさん、悪いことは言わねえ今夜はここに泊まりなせえ。」

八王子で常宿にしている旅籠屋(はたごや)のおやじが勧めてくれたのに、

「なに、慣れた道さ。」

と甚五郎は出立してきてしまいました。

宿屋のおやじは甚五郎の背中に、

「峠にゃ山賊が出るだよ。」

と言っていたのに、すでに先を歩いている甚五郎には聞こえません。甚五郎には先を急ぐ理由がありました。その日はちょうど喜助の三回忌の命日。本来であれば墓のある常陸国へ向かおうとしていたところに、馴染みの布問屋の上田屋さんから信州の松本紬をどうしても仕入れてきて欲しいと急遽の依頼が入り、普段世話になっているお得意さんですから断れず、甲州街道を西へ向かう、常陸国とは反対方向の信州へと向かうことにしました。

「ひと月くれえ法事が遅れても喜助どんも文句は言うめえ。法事をやるったって俺だけの法事だ。俺が文句を言わなけりゃあ、他に文句を言う奴はいねえんだ。何しろ喜助どんはあの世の人だからな。俺に不平を言いたくても言えねえのさ。」

と自分に言い訳をしても、たった一人の身寄りとも言える人の三回忌ができないのはやっぱり気にかかります。とにかく早く仕事を終えて常陸国へ向かいたいと、甚五郎は宿屋の主人の言うことも聞かず先を急ぎました。

「今夜は小原の宿で喜助どんに手を合わしてやろう。」

なんとなく芸者のいる賑やかな八王子宿よりも、峠を越えた山間の裏寂しい小原宿で静かに冥福を祈って過ごす方が喜助の三回忌にはふさわしいような気もしました。

「それにしても降ってきたな。」

予想よりも早く降ってきた雨に打たれ、後悔した時にはあたりの森はすっかり深くなっており、八王子へ引き返すにはすでに遅すぎるように思えました。甚五郎は覚悟を決め、峠を登り続けます。雨は次第に強くなり、やがて笠も蓑も役に立たなくなりました。甚五郎はうつむいて濡れ鼠になりながらヨタヨタと峠の道を登っていきます。

「ひどいことになった。やはり引き返すか。」

 振り返ると来た道はすでに闇の中、暗くて何も見えません。分厚い雨雲でわかりませんが、どうやら陽はすでに落ちつつあるようです。あたりは一層暗くなり、雨粒も次第に見えなくなりました。全身を激しく打つ雨は、何百人という見えない無言の人の手で身体中を強く叩かれているようで、自分が何か悪いことをして責められているような気持ちになり、甚五郎を余計不安にさせました。あたりが暗くなり視界が消えてくると今度は自分を取り囲む音だけがやけに大きくなってきます。絶え間なくバチバチと叩きつける荒々しい雨音と轟々と唸る不気味な風音。どちらも陰気で楽しいものではありません。甚五郎はうつむいて、泥の中に沈む自分の足を見ました。

「はあ。困ったな。引き返すにしても八王子はもうだいぶ遠い。大体来る途中に雨をしのげるような小屋はなかった。」

とにかく先を急ぐしかない。この先、なるべく近くに雨風をしのげるような猟師小屋か何かが見つかるのをただ祈りながら、甚五郎は泥の中から重い足を持ち上げ、一歩一歩、転ばないように注意しながら峠道を登りました。

「こんな時に喜助どんがいてくれたらな。ちったあこの嵐も楽になったろうに。喜助どんよ、お前さんずるいぜ。先に死んじまってさ。おめえさんには俺がいたけれども、おめえさんが死んでくれたせいで俺は一人になっちまったじゃねえか。なあ喜助どん、あれはどこだったっけかな?あの時もひどく大雨に降られて難渋したっけ。そうそう。上州だ。越後へ小千谷縮を仕入れに行く途上だよ、何とかって村を出たところでひどい雨に降られた。」

 そう呟いて甚五郎は一つ間を置きました。

「甚どん、だからおめえはそそっかしいってんだぜ。あれは上州じゃねえ。日光だ。会津木綿を仕入れに行く途中のことだ。」

 甚五郎が間を置いたのは、喜助に喋らせるためです。もちろんここに喜助はおりません。喜助はすでに亡くなっております。甚五郎は自分で喜助の役をして、自作自演で亡き喜助の台詞を言いました。喜助の台詞を言い終えると、今度は甚五郎が甚五郎として言い返します。

「いやあ喜助どん、そそっかしいのはおめえさんの方だぜ。会津木綿の時にゃあ俺たち一度だって雨に降られたことはねえ。おめえさんの言っているのは雪だ。日光ではたいそう雪に降られて困ったじゃねえか。」

 小仏峠の雨の中、甚五郎はブツブツと呟くとまた一つ間を置きました。すると今度は喜助役で言います。

「そうかい?俺が勘違いしてたのかな?じゃああれはどこだったけかな?甚どんよ、」

 ふと何かに気づき、甚五郎は喜助役の途中で喋るのをやめました。

「おや?」

 喜助の台詞を止め、呟いたのは小仏峠で雨に降られ難渋している生きた甚五郎本人。

「あの雨音はなんだ?何か板を叩くように聞こえるぜ。あれは確かに雨が板を叩く音だ。葉っぱや岩や泥を打つ雨音じゃねえ。板でふいた屋根を雨が打つ音だ。近くに小屋があるにちげえねえ。」

 目を凝らして音のする方を見ても、森はすでに暗くなっていて何も見えません。それでも足元を見ると、どうやら細い道が枝分かれして、森の中へと続いています。恐る恐る、それでも屋根のある期待を込めながら甚五郎がそちらへと歩みを進めると、やがて木々の間にぼんやりと小さな小屋らしき建物が見えてきました。

「ありがたい!喜助どん!助かったぜ。」

 そばまで来てみるとそれは打ち捨てられた小さな掘立小屋で、おそらく昔は地元の山猟師が雨避けにでも使っていたのかもしれませんが、今この嵐の中で見てみると今にも崩れそうなほど朽ちていて、薄気味悪く何となく嫌な感じのするボロ小屋です。そうは言いましても、今は贅沢を言っている場合ではありません。一刻も早く雨を避けるため、ガタついた木戸をこじ開けて中へ飛び込みました。すると、


「誰でえ?」

 小屋の奥、暗闇から野太いドスの効いた声が甚五郎の耳にぶつかってきました。

「ああびっくりした。い、いえ、あたくしは旅の者でございます。怪しい者ではございません。雨を避けるため、こちらの屋根をお借りしようと。」

 暗くて何も見えませんが、声のした小屋の奥の暗闇へ向けて甚五郎はドギマギしながら言い訳をします。ところが返事はなく、ポツン、ポツンと雨漏りが床に落ちる音だけがしています。さっきの不気味な声は気のせいだったのか。とホッとしたのも束の間、

「おめえ、ひとりか?」

 再び暗闇から野太い声が飛んできました。

「へ、へえ。あたくしは一人、」

 甚五郎が言いかけると、背後から別の声が、

「兄い、誰もいねえ。こいつ一人だ。」

 またびっくりして振り返ると、いつの間やら背筋の曲がった小柄な黒い人影が、後ろに立ち、開け放たれた木戸から外をのぞいております。

「ようく見ろ。こいつはさっき誰かと話をしていたぜ。」

 奥の声が念を押します。

「兄い、やっぱりこいつ以外には誰も見えねえ。」

 後ろの黒い人影がキンキン声を出します。今度は外を見ずにどうやらジロジロと甚五郎を見つめているようで、耳障りな声が耳側で聞こえました。ついでに異臭を放つ鼻息も耳に当たり寒気がします。

「虎丸(とらまる)!灯りを付けろ。」

「おう。」

 また別の声が返事をしました。ドスの効いた声のすぐ隣です。小屋の中にはどうやらさらにもう一人、虎丸と呼ばれる男もいるようです。小屋の奥の男から命じられると、その隣にいるらしい虎丸と呼ばれた男は手元に隠していた小さな火種を蝋燭へと移し、真っ暗だった小屋の中はほんのりと茜色に照らし出されました。

甚五郎の目の前に二人の薄汚い大男が現れました。

一人はあぐらをかき、腕を組み、顔は一面の髭モジャ、鬼のような形相でこちらを睨みつけております。右手には抜き身の太刀の柄をげんこつで握り、剣先を床板に突き立てています。これが兄いと呼ばれるドスの効いた野太い声の持ち主だと甚五郎にはわかりました。そのそばに立っている男が蝋燭を持っていたので虎丸。こちらも大柄な男で、髭もじゃとは打って変わっての禿頭。ボロボロの僧服を着ているところから元は僧侶の成れの果てと思われます。手には僧侶には似つかわしくない太い棍棒を握っております。

そしてもう一人の男。甚五郎の後ろにいて姿は見えませんが、自分のすぐ真後ろにいてこちらをジロジロ見ているらしいのはわかりました。と言いますのも何日も風呂に入っていない鼻をつく悪臭と酒臭い口臭と鼻息が甚五郎の首筋に当たっていたからです。

いずれにいたしましても、この三人が小仏峠に住む山賊または盗賊あるいは追い剥ぎであろうことは間違いがないと旅慣れた甚五郎にはすぐわかりました。そういう人は大体そういう目つきをしておりますが、この男たちもやっぱりそういう目つきをしていたからです。大体におきまして、人のものを盗んだり、人を殺めたりするような悪い人間というのは、見る人をどうしようもなく嫌な気持ちにさせる目をしています。甚五郎も前の二人の目を見てどうしようもなく不安で嫌な気持ちになりました。

「困ったな。」

どれほど楽観的に考え、必死に目の前の事実から目を背けようといたしましても、小屋にいた三人は雨宿りをしている陽気で気のいい村の猟師たちには見えません。その姿はどこからどう見ても明らかに、毎日うわばみのように酒をかき喰らい、峠を行く旅人から金品を奪い生計を立てている山の盗賊つまり山賊そのものです。

「ああしくじった。こんな小屋に入らなければよかった。」

後悔をしても時すでに遅し。山賊どもにとって甚五郎は飛んで火に入る夏の虫。鴨がネギ背負ってやってきたの鴨です。

「金品さえ盗られれば、命まで盗られることはあるめえ。まさか人を殺めるほどの悪党ではないだろう。」

と甚五郎、心中で必死になって自分に言い聞かせても、目の前の悪党どもの姿を恐る恐る上目遣いで眺めると、そんなことが儚い夢のまた夢だと痛感いたします。もはや甚五郎の命は風前の灯。雨の冷たさだけではありません。死ぬかもしれないという厳然たる恐ろしい現実がガタガタと甚五郎の全身を震わせました。

「まあそうオドオドするな。旅の者か?」

 髭モジャが野太い声で聞きます。

「へ、へい。」

 なんとか甚五郎は声を振り絞りました。

「見たところ商人(あきんど)だな?」

「へい。商人でございます。た、ただ生憎と、この度は商売がうまくいきませんで、懐に金子(きんす)はそれほどございません。」

「誰が金のことを聞いた?わしは一言も金のことなど言ってはおらぬ。まさか貴様、我らが旅人から金品を掠め取る物取りか何かだとでも言うつもりか。」

「い、いえ、とんでもない。」

「無礼な奴。挨拶もせずいきなり我が庵(いおり)に土足で踏み込んできておいて、言うに事欠いて我らを山賊呼ばわりするとは無礼千万。親切にも雨宿りをさせてやろうという我らの情けを踏みにじり、愚弄するとはもってのほか。ええ?誰が貴様に金などを無心いたした?今はこのような姿に身をやつしておるとはいえ、この荒鍋兵衛(あらなべひょうえ)、元は石を頂く武士たる身分、商人の貴様にかような口を叩かれる覚えなどないわ!」

「こ、これは大変に失礼をいたしました。」

 慌てて甚五郎、土下座をします。

「この落とし前を手前どうつけるつもりだ?」と髭モジャこと荒鍋兵衛は座ったまま、ドンっと剣先で床を叩きました。

「ヒッ、ヒエエ、この通りです。謝ります。平にご容赦を。」

「言葉で詫びることなど誰にでもできる。武士ならば腹を切って詫びるところだが、商人の貴様は何を切って詫びる?」

「わたくしは武士ではございません。どうぞご勘弁を。」

「貴様が武士ではないことくらい先刻承知。馬鹿者。手前、懐にいくら持っておる?」

「は、いかほどにも手持ちはございませんで。」

「ないと言いながら、持っていたらタダでは済まさぬぞ。あるならあると正直に申せ。今のうちだぞ。」

「い、いえ、本当にないんで。」

「中吉(ちゅうきち)、検(あらた)めてみよ。」

 荒鍋が顎をしゃくり甚五郎の後ろの男に指図をいたしますと、

「ふん。」

 と鼻を鳴らし、中吉と呼ばれた男は乱暴に甚五郎が背負っている葛籠(つづら)を引ったくりました。

 実のところ、甚五郎は無一文ではありません。それどころか五百両もの大金を身につけておりました。これは布問屋の上田屋から預かった仕入れ用の金子(きんす)です。もちろん当時はすでに手形制度が発達しており、普段甚五郎のような旅の商人は、大金を持って長距離を移動するような危険なことはいたしません。ところが今回は急遽の仕入れ依頼であったがために手形を作る暇がなく甚五郎も嫌々ながら大金を身につけておりました。当然用心のためそんな大金を懐中の札入れに全て入れるような不注意はいたしません。五百金は小分けにして腹巻きや下帯、着物の裏地や脚半の裏、葛籠の裏蓋やさらには念には念を入れて褌の裏にも巧妙に縫い付け隠してありました。すなわちその時の甚五郎は全身至る所に莫大な金が隠されている生きた宝箱のようなもので、もし山賊どもがこの事実を知れば、奴らは自分を無限の財宝を埋蔵している金山と看做すだろうと甚五郎は想像しました。

「この金が見つかったら、俺は殺されて裸にされ、こいつらに全身の穴という穴をほじくられる。」

「兄い(あにい)、葛籠は空だ。こいつ本当に何にも持ってねえぜ。」

 中吉が間抜けな声を出します。

「中(ちゅう)、だからてめえは馬鹿だってんだ。葛籠なんぞ空に決まってるじゃねえか。金ってやつはな大概懐の札入れに入っているもんだ。さっさと検めろい。」

「なるほど、そういやあそうだ。やいてめえ、じっとしていろよ。」

 中吉が後ろから甚五郎の懐へ手を入れると、甚五郎はまるで自分の震えている心臓を冷たい手で握りつぶされるような気がしてゾッといたしました。中吉が懐の中をベタベタと手探りをし、札入れを握った瞬間、甚五郎の恐怖はついに限界へと達しました。全身が総毛立ち、全身の毛穴から冷たい汗が噴き出てきました。

「ぎゃあー!」

 とっさに中吉を払いのけ、甚五郎はその場から無我夢中で駆け出します。

駆け出す。

と申しましても、そこは狭い小屋の中です。悲鳴を上げ突進したすぐ目の前の先には、甚五郎の突然の発狂に驚き、呆気に取られた荒鍋兵衛と虎丸がおります。それでも恐怖のあまり我を失ってしまった甚五郎はもう無我夢中で、目の前にいる二人の大男などまったく目に入りません。実際、甚五郎は恐怖で固く目を閉じていましたから何も見えません。おそらく目を開けていたとしても怖くて何も見えなかったでしょう。ただただもう死にたくない、この場から逃れたい。ひたすらその一心だけで絶望の悲鳴をあげ、たまたま体が正面を向いていた方向へと、銃口から放たれた鉄砲玉のごとく猛然と突進いたしました。

相手が小柄でか弱い商人だとたかをくくり、すっかり油断していた荒鍋と虎丸は、突然絶叫し自分たちへと向かってくる狂った商人の突進に目を丸くしました。甚五郎が飛んで火にいる夏の虫の虫なら、この二人の大男は窮鼠猫を噛むの間抜けな猫二匹です。二人ともただただ驚くばかり、目をまん丸くするばかりで身動き一つできません。


虎丸が最後に見たのは、甚五郎の膝頭があぐらをかいて座っている荒鍋兵衛の顔面、鼻っ柱に激突し食い込んだ瞬間です。その瞬間、何かが蝋燭の火を吹き消し、辺りは再び漆黒の闇に包まれました。

ドカンッ!

 激しく小屋の壁に衝突する大きな音が響き渡り、続いて

ガタガタガタガタ!

 小屋が激しく揺れました。

「兵衛!」

「兄い!」

 虎丸と中吉が呼びかけても荒鍋兵衛から返事はありません。

「兵衛!大丈夫か?畜生!暗くて何も見えねえ!やい中吉!おめえはそこから動くんじゃねえぞ!奴をぜっていに外へ逃すなよ!」

「わかってらあ!」

虎「おい!商人(あきんど)!動くんじゃねえぞ!とんでもねえことをしやがって。タダじゃおかねえからな!ぶっ殺してやる!」

 甚五郎は思いっきり壁にぶつかり頭がクラクラしておりましたが、虎丸の怒鳴り声に怖くてうずくまり、息を殺して震えておりました。暗闇に目を凝らすと、目の前には山賊の首領、荒鍋兵衛が口から泡を吹いて倒れているのが見えました。

「虎丸!早く灯りをつけろ!」と中吉。

「待ちやがれ!火種がどっか行っちまった。商人!逃げるんじゃねえぞ。今棍棒(こんぼう)でぶっ叩いてくれる。畜生!棍棒もねえ!どこだ!」

「だから早く灯りをつけろ!」

「うるせえ!火種がねえんだ!棍棒もねえ!あ、あった!棍棒があった。」

中「棍棒なんてどうだっていい!早く灯りをつけろ!」

ミシ、ミシ、ミシ。

 突然、天井板の軋む(きしむ)音が頭上から降り注ぎます。虎丸と中吉は不安そうに天井を見上げました。何しろひどく古い壊れかけの掘立小屋です。いつ天井が落っこちてきてもおかしくはないところにもって甚五郎が激しく壁に激突しました。それが引き金となり天井が落ちてきやしないか、二人は心配になりました。もし落ちてくるなら、すぐに外へ逃げ出さないとみんな小屋ごと押し潰されてしまいます。虎丸と忠吉は不安げにじっと天井を見つめます。

 すると天井の音が止みました。

虎「ふう。びっくりさせやがる。おい!商人聞いてるか!てめえが壁にぶつかるからこんなことになるんだ。そこを動くんじゃねえぞ。おおう、だんだん目が慣れてきたぜ。ぼんやりとあたりが見えるようになってきた。ふん。商人の野郎、うずくまってやがるな。おい兵衛、しっかりしろ。うん、気を失ってるだけだ。大丈夫、死んじゃいねえ。やい中吉!」

「なんだ!」

「そこにいろよ。」

「さっきからいるよ。」

「おおう。見えてきたぜ。おい商人!動くなよ。いいか、動くなよ。動かなけりゃあ手荒なことはしねえから。」

 虎丸は言いながら、そおっと棍棒を頭上に振り上げ、頭を抱えてうずくまり震えている甚五郎の後頭部に狙いを定めました。渾身の一撃で甚五郎の頭蓋骨を打ち砕くつもりです。

ミシ、ミシ、ミシミシミシミシミシ。

 天井板が再び軋み出しました。それも先ほどより大きな軋みです。それでも虎丸はもう天井を見上げません。すでに棍棒を高々と振り上げ、あとは全力で振り下ろす。パンッ!商人はあの世行き。天井の落ちる心配はそのあとだ。まずはこいつの息の根を止めてからと虎丸は天井の方を向きませんでした。ところが、床でうずくまっている甚五郎の方が、天井の軋みを心配したのか顔を上げて上を見ました。自分が今まさに殺されようって時に、知ってか知らずか、やけに呑気な顔で甚五郎が首を回し天井を見上げたものですから、虎丸もついそれにつられて、見上げてしまったその瞬間、

バキッ!

という大きな音ともに土埃上げて天井板が裂け、

バキバキバキ!ガラガラガラ!

天井の一部に穴が空き、激しく崩れ落ちてきました。その時、甚五郎は落ちてくる天井板の瓦礫の中に一尺(三十センチ)ほどの黒い塊が落ちてくるのを見ていました。この黒い塊は真下で見上げている虎丸の顔面にゴツンとぶつかり、

ゴキ!

 木の板が落ちて床に当たる音とは明らかに違う異質な音が小屋中に響き渡りました。このゴキっという不気味な音は甚五郎の耳にも中吉の耳にもはっきりと聞こえるほど大きな音で、おそらく、虎丸本人でさえも最期に聞いていたはずです。骨の折れる音というものは本能的に人間を不快にする音で、中吉にとっては何度聞いても嫌な音でしたし、初めて聞いた甚五郎にとっても、その音がなんなのかわからないなりに背筋が寒くなる嫌な音でした。当然、自分の首の骨が折れる音は虎丸にとってもまた死んでしまうほど嫌な音だったに違いありません。実際即死でした。

 手から棍棒がボトリと落ち、力なく床に転がると、

ドサリ。

 虎丸の体が床に崩れ落ちました。崩れた天井から落ちてきた黒い塊が虎丸の顔面を直撃し首の骨が折れ、ついに虎丸は絶命したのです。

ゴロゴロゴロ。

 うずくまって震えている甚五郎の顔のそばに黒い塊が転がってきました。

「ヒエエ!首が転がってきた!」

 暗くてよく見えないために甚五郎は虎丸の頭がなんらかの原因で体から落ち、自分の所へ転がってきたのだと思ったのです。

「虎丸!どうした!何があった!」

 中吉が叫んでも虎丸は死んでいるのでもう返事はありません。聞こえてくるのはアワアワと怯えている甚五郎の息の音だけ。

「てめえ!俺の仲間に何をしやがった!」

「ヒイイ、ご勘弁を。」

「勘弁ならねえ。ぶち殺してやる!ぶち殺してやる!」

 中吉は自分の懐に持っていた匕首(あいくち)を手に握り、うずくまっている甚五郎の方へドタドタと駆け出します。

「てめえ!切り刻んでやる!」

「イヤアア!」

 こっちへくるドタドタという足音に悲鳴をあげ、甚五郎、無我夢中で手元にあった虎丸の頭だと思われる黒い塊を両手で持ち上げ、エイッとばかりに中吉へ向けて放り投げます。再び、

ゴキッ!

 という嫌な音がして、

ドン。ゴロゴロゴロ。

 と黒い塊が床に落ち、転がる音に続き、

ドサッ。

 忠吉の倒れる音がして、再びあたりが静かになりました。偶然にも、甚五郎の放り投げた黒い塊は向かってくる中吉の顔面を直撃し、その衝撃により哀れ中吉の首の骨も真っ二つ。そのまま息絶えたのでございます。

「はあはあはあ。」

 静かになってみると甚五郎にはうるさいくらいに自分の息が聞こえました。

「はあはあ、こ、こうしちゃいられねえ、は、早く逃げねえと。」

 立ち上がると両足はガクガクと震え、うまく歩けません。

「ああ、は、早く逃げ、あ痛い!」

 何とかかんとか走り出した途端、何かにつまずいて甚五郎は転んでしまいました。

「あ痛たたた。うわー!」

 立ちあがろうと手をついたのは死んだ虎丸の冷たい禿頭。見ると口からは血を吐き、それと一緒にだらんと力無く舌ベロが伸びています。びっくりして甚五郎は尻餅をつきました。実は今さっき甚五郎がつまずいたのは先ほどから気を失って倒れている荒鍋兵衛の横っ腹。続いて今、尻餅をついた先は同じく荒鍋兵衛の顔面でした。結果、二度に渡り甚五郎によって刺激された荒鍋兵衛は、ついにようやくその意識を取り戻しました。

「う、ううん。」

 尻の下に呻き声を聞き、

「ひゃあ!」

 大慌てて甚五郎が飛び退くと、別の場所にまた尻餅をつきました。すぐに立ち上がり逃げようとしても、今度は腰が抜けて立ち上がることができません。

「うう、畜生、鼻が折れておる。一体何があった?おい!虎丸!どこにおる!中吉!おらんのか!虎丸!灯りをつけろ!何も見えん。」

 荒鍋兵衛、手探りでまず痛む自分の顔をさすり鼻が折れていることに怒りながら、続いてもう片方の手であたりを探るとまず一人の亡骸に触れました。

「うぬ。死んでおる。商人か?」

 そのまま手探りで亡骸の禿頭までたどり着くと、息を飲み、

「むう。なんということだ。虎丸、虎丸ではないか。首の骨が見事に折れておる。お主ほどの棍棒の達人がこれほど見事に殺られるとは、あの商人、人は見かけによらぬとはこのことか。いずれ柔術の手練に相違ない。しくじった。実にしくじった。虎丸許してくれ。この荒鍋兵衛、油断をいたした。」

 ブツブツと呟く荒鍋兵衛の声に怯え、甚五郎はできるだけ小屋の壁際にうずくまり、手で口を覆い、息を殺し震えております。

「ああ、あの侍、生きていやがった。このまま俺に気づかずに黙って出て行ってくれたらいいが。」

 祈りながら恐る恐る様子を伺っていると、暗闇の中に荒鍋兵衛がすっくと立ち上がるのが見えました。立ってみるとスラリと背の高い男です。右手には太刀を握っております。

「中吉!中吉はどこだ!ふ、呼んでも無駄か。虎丸が殺られている以上、中吉も生きてはおるまい。」

 やがて兵衛は小屋の中央に転がっているもう一つの亡骸を見つけ、それが自分のもう一人の仲間、中吉だとわかりました。やはり首の骨が見事なまでに真っ二つ、折れております。

「許せ中吉。俺が油断したのが悪かった。貴様と虎丸の仇(かたき)は必ず取ってやるから成仏いたせ。おい商人!貴様がそこにおるはわかっておるぞ!それで隠れたつもりか!このわしに貴様の姿が見えぬとでも思うか!」

「ヒエエ!どうぞご勘弁を!」

「ふん。そんな悲鳴を上げてももう騙されぬわ。わしが寝ている間に貴様が殺した仲間を見れば、お前が柔術の使い手だということはお見通しだ。もはや油断するわしではない!覚悟いたせ!荒鍋兵衛、今から貴様の首を獲る!受けてみよ!日月光輪剣(にちげつこうりんけん)!」

 そう言い放つと、荒鍋は両手で太刀の柄を握り、その場でやたらめったらと刀を振り回し始めました。

 

 日本裏剣術史にお詳しい方は、日月光輪剣と聞いて「ああなるほど。荒鍋兵衛はあの剣を使うか」とご納得されると思います。が、大部分の方はこのやけにキラキラした名前を持つ剣術をご存知ないかと思われます。

 この日月光輪剣ほど陰鬱で陰惨な剣術は他にありません。輝かしい名前とはまさに正反対。これは、戦国時代初期に備前国を治めた細山家から破門された影の武術家、京極斎弥山(きょうごくさいみせん)の生み出した狂気の剣術であります。すなわち、この剣の使い手は、刀を上下のみならず前後左右のあらゆる方向に高速で回転させ振り回すことにより、自らの周囲に刃の幕を張り、これにより近づいてくる者は誰であれみじん切りにしてしまうという残酷な剣術です。この暗黒の剣法はあまりにも危険なために、戦国の当時、名だたる武将のみならず名だたらない武将からもあまねくその習得と使用をかたく禁止されました。当然です。この剣術を用いる者は、近づいて来る者を、敵だろうと味方だろうと、はたまた上司だろうと部下だろうと人間だろうと動物だろうと虫けらだろうと容赦区別なくことごとく斬ってしまうのですから、こんな武士道の風上にも置けない卑劣な剣術を戦場で使われたらたまりません。そこで日本中のどの戦国大名も揃ってこの日月光輪剣を絶対的な禁忌とし、封印を命じました。ところがいつの世にも戦場で生き残りたいと願う気弱な人間はいるもので、自分さえ生き残ればよいというこの卑劣な剣術は戦場にいる卑怯者たちの間で密かに受け継がれ、江戸時代に至るまで歴史の裏側を脈々と生き延びてまいりました。

 

 荒鍋兵衛もまた若い頃にこの日月光輪剣の卑劣な使い手に師事し、密かに免許皆伝を受けた達人でありました。虎丸と中吉という仲間ができてからは、大事な仲間を失いたくはないために自ら封印しておりましたけれども、こうして二人が死んでしまった以上、もはや封印の必要などどこにもありません。周囲にいる者は誰であろうと斬る。荒鍋は迷うことなく剣を自分の体の周りで勢いよく振り回し始めました。

 日月光輪剣は、その創始者京極斎弥山の口伝に「この術を収むる者、剣、自ずから光を発す」とある通り、この剣術を習得し達人の域にまで達すると、振り回す刀がその尋常ならざる速度により周囲の空気と激しく摩擦を起こし、刀自らが光を放つようになると言われております。その光はあたかも輝く丸い太陽のようであり、また青白く光る満月のようであり、はたまた有難い御仏にさす後光のようでもあったことから、この剣術は日月光輪剣と名付けられたのであります。

 

今、小仏峠の崩れかけた雨の掘立小屋で、長年連れ添った二人の仲間を失い、太刀を振り回す荒鍋兵衛の周囲にもまた、青白い大きな死の光の玉が現れておりました。これを見た甚五郎はもう恐怖のあまり動けません。小屋の隅にうずくまり、ただただ震えております。実のところを申しますと、荒鍋兵衛は、必死に隠してはおりましたが、人一倍気が弱く、また人一倍死にたくない気持ちの強い男だったので、この剣術を教わるやいなや一生懸命に稽古を積み重ね、やがて創始者京極斎弥山をも凌ぐ達人中の達人の域にまで達していました。

 

ブーン。

 暗闇に不気味な光を放ち、荒鍋の振り回す太刀が低い唸りを上げます。

「我が剣を受けてみよ。」

 荒鍋は剣を振り回しながら静かに、そしてゆっくりと甚五郎の方へ歩き出しました。あまりにも高速で刀を振り回しているので刀はすでに一塊の光となり形は見えません。荒鍋だけがただ立ってその光の玉の中を静かに歩いているだけに見えます。しかしその両腕もまた刀と共に高速で動いているので見えなくなっています。荒鍋が前へゆっくりと歩みを進めると、その体を包む青白い光の玉も同時に甚五郎へと近づいてまいります。

ピシッ。バシッ。

 光の玉に触れた荒鍋の足元の床が時々音を立てて無惨にも砕け、裂けていきます。

「ああ、俺はもうダメだ。」

 甚五郎が頭を抱えた次の瞬間、

バチンッ!

 荒鍋の足元で激しく火花が上がり、

キュインッ!

高速で回転する刀が床に落ちていた何か固いものに当たり弾かれました。

荒「うぐっ。」

ブーンという低い音が消え、あたりが急にしんと静まり返ります。

ドン、ゴロゴロゴロ。

 何かが床に落ち、うずくまっている甚五郎の手元に転がってきました。なんだろうと手に取ってみるとそれは白目を剥いた荒鍋兵衛の切り離された頭部。

「ひゃああ!」

 甚五郎は頭を放り出すと小屋を飛び出し雨の中を無我夢中で走り出しました。もう雨だろうと夜だろうと関係ありません。ただただ助かりたいの一心で泥だらけの峠道をあっちへ転がりこっちへ転がり、よく崖から落ちて死ななかったものです。着物は破れ、全身泥だらけの擦り傷だらけになって、ほうほうの体で命からがらようやく八王子宿へと辿り着き、甚五郎は番所へ飛び込みました。

 

 翌朝、甚五郎は番所の役人や捕り方数人と共に小仏峠の掘立小屋まで戻ってきました。雨はすでに止み、山と山の間に見える雨上がりの空はどこまでも青く、雲一つありません。

番所で甚五郎は、三人組の山賊は死んでいるはずだと訴えましたが、これまで峠で散々暴れまわり幕府の法など知ったことかと悪事の限りを働いたあの三悪人が、こんな弱々しい旅の商人(あきんど)に殺されるはずはないと皆甚五郎の話を信じず、それぞれに警戒して武器を持ってまいりました。

 ところが掘立小屋までたどり着くと、やはり三人は死んでいます。役人たちが検分すると、首領の荒鍋兵衛は自らの刀で自らの首を斬り落とし、後の二人は首の骨が折れている謎の死に様。ただ明るいところで現場の様子を改めて見て、甚五郎だけには昨夜自分の身の回りで起こったことが次第次第にわかってまいりました。

「ええ。そうです。そうなんです。あたしはまずこの壁に突進し、激突いたしました。」

興奮しながら甚五郎は役人たちに説明します。

「なぜ突進したかですって?それは、ええ、この人です。この死んでいる人。中吉さんってんですか。この人があたしの懐に手を入れてきたもんですから、ええ、怖くなっちまったんです。それでもってあたしは壁に突進いたしました。だからなぜと?だから怖くなっちまったんです。それ以外はよくわかりません。とにかく逃げようと突進いたしました。ええ、あたしです。あたしが逃げようと思ったんです。あたし以外に誰が逃げるんです?おそらくその時ですな。あたしのこの右の膝頭がこの生首のお方、ええ、荒鍋兵衛さんってんですか、お顔に当たりました。ご覧なさい。あたしのこの膝頭が赤くなっています。確かにここに何かがぶつかったのをはっきりと覚えておりやす。ええ?荒鍋さんの生首は鼻の骨が折れている?やはりそうですか。そこにぶつかったんでしょう。そこで荒鍋さんは気を失ってしまいました。そうしたらですな、こちらの方。こっちの死んでいる人、ええ?虎丸さんってんですか。この虎丸さんが怒ったのなんのって。おめえをぶち殺してやる!って棍棒を振り上げて、えらい剣幕で怒鳴ってくるもんですから、あたしはそこでブルブルと震えておりました。ええ、そこです。そうしたらですな。ミシミシって天井から音のするものですから、ふっと見上げると、ドカーン!天井が落ちてきたんです。その時です。天井から黒い塊が一緒に落ちてきて、」

 そこまで言って甚五郎は何やら考え込み黙ってしまいました。

「どうした?甚五郎、続きを話せ。」

 役人が促してようやく甚五郎は我に帰り、あたりを見回します。

「ええ、ええ、そうです。黒い塊が破れた天井から落ちてきて、黒い塊、ああ、これだ。これに違いない。」

 甚五郎は小屋の真ん中に転がっている小さな石のお地蔵さんを見つけ駆け寄りました。お地蔵さんの大きさは、甚五郎が手で測ってみると大体一尺(三十センチ)ばかりあります。

「ああこれです。これに違いありません。この大きさです。このお地蔵さんが天井から落ちてきて、この、ええと、そう、見上げる虎丸さんの顔にゴツンと当たったんです。それで首の骨が折れたのですな。あたしは最初虎丸さんの首がもげたのかと思いましたが、どうもそうじゃない。このお地蔵さんが、ぶつかって、転がってきたんだ。すると、今度はそっちで死んでいる、ええと、そう、中吉さんが怒ったのなんの、てめえ!この野郎!ってんであたしの方へ向かって来るものですから、もう怖いのなんのって、あたしはもう訳もわからず、」

 とここまで言って再び甚五郎は黙りこくり、足元に転がっているお地蔵さんを抱き抱えました。それほど大きなお地蔵さんではありませんでしたけれども、甚五郎が両手で抱えるとやはり石です。ずっしりとかなりの重さがありました。甚五郎はお地蔵さんを胸に抱いたまましきりにうなずいています。

「おい甚五郎、どうした?」

「ええそうです。そうです。この重さです。確かにこの重さでした。ええ、お役人さん、あたしはこのお地蔵さんを手に取って放り投げたんです。こちらの、ええと、中吉さんに向かって放り投げました。まずお地蔵さんは天井から落っこちてきて、虎丸さんの首を折り、それからちょうどあたしの手元に転がってきたんです。あたしはこいつを拾ってえいや!と襲いかかってくる中吉さん目がけて放り投げました。ええ、思い出しましたよ。ゴキッと嫌な音がしました。今にして思えばあれが首の骨の折れる音だったんですな。とにかくあたりが急に静かになりました。今だ!とあたしは思いましたね。今逃げねえともう逃げられねえってね。ところが肝心の足が動かない。ブルブル震えちまってどうにも歩けないんです。それでもなんとかこう這うようにここから出ようとすると、まあ運の悪い時ってえのは悪いもんで、こちらの生首の人、ええ、荒鍋さんがむっくりと起き上がってきたんですな。ええそうです、もちろんその時はまだ荒鍋さんの頭もまだしっかりと体にくっついておりました。こんな風に生首におなりになる前の話です。まだお元気だった荒鍋さんは、お前か、わしの仲間を殺したのは?よくも大切な仲間を殺してくれたなと怒鳴りました。その声の怖いのなんのって。あたしはそっちの隅っこでもう怖くて怖くてブルブルと震えておりました。すると、荒鍋さん、わしのなんとかかんとか剣を受けてみろ!とか言って急に手に持った太刀を、ああまだ手に持ってますね、ブンブン振り回し始めました。もう怖いのなんのって、さすがにその時はもうダメだ!もうあたしの命もこれまでだ!って覚悟を決めましたよ。すると、」

 ここでまた甚五郎は話を止め、考えに耽りました。

「おい今度はどうした?」

「ああお役人様、わかりました。これです。これをご覧ください。」

 そう言って甚五郎は赤ん坊のように抱いているお地蔵さんの顔を役人たちに見せました。

「なんだ?この地蔵がどうした?」

「ええ、ここです。このお地蔵さんの額の部分が欠けておりますでしょう。パチーンって火花が散ったのをあたしは見たんです。そこです。そこの床のところです。さっきお地蔵さんが転がっていたところで、パーンって火花が散ったんですよ。ええ、わかりました。荒鍋さんの振り回す刀がお地蔵さんの額にあたって火花が散ったんですな。そうしたら何も聞こえなくなりました。ああ違う。ああ恐ろしい。聞こえなくなったと思ったらあの恐ろしい音がしました。ドンって音がしてこれが転がってきたんです。あたしのところに、ゴロゴロゴロって。」

 そう言いながら、甚五郎は荒鍋兵衛の生首を爪先でツンツンと小突きました。

 

 甚五郎の話は、役人たちにはまだ納得のいかないところもありましたけれども、ともかくも一応辻褄の合っていることもあり、また死んだのはいずれも役人も手を焼くほどの名うての悪党ばかりということもあり、甚五郎は無罪放免となりました。

 役人たちは町から人足を呼び、深い穴を掘り、三人の亡骸を掘立小屋の裏に埋めました。その様子を甚五郎は相変わらず赤ん坊の様にお地蔵さんを抱いたままじっと見守りました。

 亡骸を埋め終わり、これまた町から呼ばれたお坊さんに形ばかりのお経を上げ野辺の送りをしてもらっている間も、甚五郎はお地蔵さんを抱いたままお経の列に参加しました。

 

「やあ甚五郎殿、まことに災難であったが無事で何よりというもの。ご苦労であったな。して、これからどうするおつもりじゃ?江戸へ戻られるか?」

 八王子宿で再び身支度を整え、甚五郎は出立の挨拶に番所へ立ち寄ると年老いた役人が通りまで見送りに出てくれました。

「まことにお世話になりました。御礼を申し上げます。いろいろに考えましたが、やはり江戸へは戻らずに旅を続けることにいたしました。大事なお得意様からのご依頼に手ぶらで帰るわけにはまいりません。ときにお役人様。図々しいようですが一つお願い事がございます。」

「願い事とな?」

 甚五郎は背負っている葛籠(つづら)を下ろし、蓋を開けると中から紫の絹布で丁寧に包んだお地蔵さんを取り出しました。

「はて?これは?」

「はい。あの峠の掘立小屋でわたくしの命を救ってくれたお地蔵さんでございます。」

「お主これをずっと持っておったのか?」

「はい。一度ならず二度、いえ三度までも命を救ってくれたお地蔵様です。わたくしと何か深い縁があるに相違ありません。どうか、このお地蔵さんをわたくしに譲ってはいただけないでしょうか。」

「譲るも何も、誰の持ち物かもわからぬ地蔵じゃ。あの小屋の持ち主がわかれば問うてもみるが、あの小屋もとうの昔に打ち捨てられたもの。誰のものかもわからぬ。その天井裏にずっとしまわれていた地蔵だからのう。お主が持って行ったとて困る者もあるまい。こうしてお主の手にあるのもまた縁というもの。どこぞへ持って行き手厚く祀られたら良いのではないか。」

 ということで、甚五郎はこのお地蔵さんと旅を続けることになりました。

 

 再び八王子宿を出た甚五郎は、恐る恐る小仏峠を越え、小原宿に着くと後はいつものように慣れた旅の空。順調に西へと向けて歩き出しました。

小原から与瀬、吉野、関野を抜けて上野原に辿り着いてその日は一泊し、翌朝夜明け前に出発すると、朝靄の中を甚五郎は後ろに一人の虚無僧(こむそう)が歩いていることに気がつきました。

「こんな早い時刻にもう歩いている人がいるんだな。」

 少しだけ訝しく思いましたけれども、特に気にすることもなく歩みを進め、しばらく経ってまた振り向くと、いつの間にか虚無僧はいなくり、代わりにお使いを言いつけられたらしい小走りで歩く商家の女中さんが歩いておりました。

「はて?あの虚無僧はどこへ行ったかな?街道をそれて山へでも入ったか?」

 

 ところで、甚五郎は気がつきませんでしたけれども、この虚無僧と商家の女中さんは同じ人物であります。甚五郎はまったく気がついてはおりませんが、この同じ人物に、甚五郎は小仏峠を下った与瀬の道標石あたりで目を付けられ、その後ずっと後を付けられておりました。甚五郎が気づかないのも無理はありません。与瀬の道標石の傍に立ち、行き交う旅人を物色していた時のこの人物は、白い顎髭を長く垂らした年老いた易者だったからです。易者は、目の前を急ぎ足で通り過ぎる甚五郎を見ると、何か気になることがあったのか首を傾げ、そのまま甚五郎の後ろを付かず離れずに歩き出しました。

やがて道が大鷲八幡神社の大鳥居の前までくると、易者は鳥居の裏へとさっと身を隠し、再び鳥居の裏から姿を現し街道へ戻ってきた時には、今度は身なりの良い若侍になっていました。若侍はやはり何か気になることがあるのか首をしきりに傾け甚五郎の様子をうかがいながら後ろを歩き、次に道が小鮒橋という小さな橋を渡る時、若侍はさっと橋の下へともぐり込み、再び出てきた時には杖をついたお婆さんに姿を変えておりました。

こんな調子で姿を変えながら後ろを歩いていたので、甚五郎には自分が後をつけられていることなど夢々気づきようがありません。吉野の一本杉で一息つき、後ろを振り向くと、この人物は杉の若木に変身しておりました。こうなるともう甚五郎のような素人に尾行に気付けというのが無理というものです。実に悪い人に目をつけられました。

 甚五郎を尾行しているこの人物こそ、かつて甲州街道にこの人ありと言われた天下の大泥棒ムササビであります。ムササビとは当然本名ではなく、甲斐国甲府の与力たちの名付けたあだ名です。ムササビの本名など誰にもわかりません。おそらくムササビ本人でさえも知らなかったでしょう。夜闇を自由自在に飛び回り、盗みを働き、決して取締りの手に捕まることがないため、いつの頃からかムササビと呼ばれるようになりました。

また泥棒仲間たちはこの人物を百面(ひゃくめん)とか百声(ひゃくせい)とも呼びました。いつも違う姿形をして、声色さえも同じことがなかったために、泥棒仲間でさえも『俺は本当のムササビと会った』と確信を持って言える人が一人もいなかったからです。

「俺は昨日ムササビと会ったぜ。いや驚いたのなんのって、きれいな娘っ子だったよ。」

「馬鹿を言うな。ムササビはむさ苦しい男だ。薄汚え三十がらみ野郎だぜ。」

「そうかえ?そうじゃねえと思うな。俺の会ったムササビは全くもってそんなやつじゃなかった。あれは本当にムササビみてえな奴だったよ。四つ足で歩き、手と足の間に薄い水かきみてえな膜があってさ。夜になると木と木の間を風に乗って飛ぶんだ。」

 会う人会う人がみな違うムササビと会っています。

わたくしが先ほどから怪盗ムササビのことを「この人物」と言い、「この男」と言わないのも実はそのためです。実際ムササビは男なのか女なのかもわかりませんし、年齢もわかりません。どこで生まれたのかも、当然どこに住んでいるのかもわかりません。わかっているのは、ムササビは必ず甲州街道沿いに出没するということ。そしてもう一つ、変装できないのかあえてしないのか、ムササビはどんな風貌になっていてようとも、どうしたわけか背の高さと体格だけはいつも同じだということはわかっておりました。どんな姿に変わろうとも、ムササビはいつも変わらず小柄で痩せた人物でした。

甚五郎が吉野の一本杉で休憩していた時に後をつけてきた杉の木もまた小柄で痩せた杉の木でした。

 

 上野原宿で明け方、朝靄の中に立ち甚五郎を観察していた小柄で痩せた虚無僧のムササビは首を傾げました。

「どうもわからねえ。一体全体あの葛籠(つづら)は空なのか?」

 与瀬の道標石で目の前を通り過ぎていった甚五郎を横目で見た時、ムササビは甚五郎の背負っている大きな葛籠(つづら)は空だと見てやり過ごしました。ところが何かがムササビの胸に引っ掛かります。

「どうも変だな。」

 それは甚五郎が横を通り過ぎる時、ふと合った甚五郎の目線に警戒の色が浮かんでいることをムササビが見逃さなかったからです。

「あれは空の葛籠を運ぶ商人の顔じゃねえ。あの中には何か大事な物が入っているのか?」

 後をつけながら様子を伺うと、葛籠を背負う甚五郎の足取りは軽快で、どうも葛籠の中に何かが入っているようには見えません。実際には一尺ほどの小さな石のお地蔵さんが入っておりましたが、この程度の重さでは旅慣れた甚五郎にとってはないも同じです。

「あの身のこなし、腰の角度、どう見ても葛籠は空なんだがな。だが何かが入っているようにも見える。それにあの目だ。あの商人の警戒ぶりは腑に落ちねえ。あれは何か大事なものを運んでいる人間の目だぜ。」

 先ほども申し上げました通り、当時はすでに手形制度が発達していて商人が旅に多額の金子(きんす)を持ち歩かないことぐらい、さすがに学のないとはいえ街道筋で泥棒稼業を営むムササビもよく知っております。当然先を歩く商人の甚五郎もまた懐に二朱金を数枚転がしている程度の銭なしだろうと思い込み、それにしてはあの警戒心はおかしい、変だ、ああでもないこうでもないと勝手に頭を悩ましておりました。

 あにはからんや、甚五郎は大金を隠し持っております。それだけでも警戒しながら歩くのが当然な上に、加えて甚五郎はつい一日二日前に山賊どもに殺されかけたばかりです。警戒も警戒、大警戒、甚五郎の目にはすれ違う人が一人残らずみんな山賊のように見えておりました。実際、小さな子供が自分の前にひょこひょこと飛び出してきた時でさえ、

「ひゃあ!」

 と素っ頓狂な悲鳴を上げて飛び上がったほどです。

「怪しい。やっぱりおかしい。あの商人、空のように見せかけて、本当は背中の葛籠に何か大事なものを運んでいるに違いねえ。中の物を突き止めて盗み出さねえと甲州街道一の大泥棒の名が廃るぜ。」

 ムササビは様々に変装を繰り返しながら、虎視眈々と甚五郎の後をついて行きました。

 ご存知の通り、ムササビの見立ては半分正解で半分間違いです。甚五郎の葛籠は空ではありません。小さなお地蔵さんが入っています。これは正解。ただし中の物をお宝だと思ったのは間違い。小仏峠で甚五郎の命を救ってくれた小さな石のお地蔵さんは長いこと風雨にさらされ、風化によりほとんど石に戻ってしまっているほどの代物で、とても高値がつくようなお宝ではありませんでした。そんなこともつゆ知らず、ムササビは甚五郎の後を追い続けました。

 

 甚五郎が犬目峠の茶屋の縁台に腰掛け一休みしていると、

 快晴の空の向こうには富士の山が胸を張り、堂々たる威容を誇っておりました。

「旅の人、おめえさんは運がええ。今日ほど富士のよく見える日はねえぞ。」

 茶屋の奥から杖をついた爺さんが盆にお茶を乗せて出てきます。

甚「一休みさせてもらうよ。」

「おうおう、一休みでもふた休みでもしていくがいい。今日ほど富士のよく見える日はねえ。」

「お爺さん、手が震えてるじゃねえか。あーあ、お茶がみんな盆の上にこぼれてるよ。」

「まあ一服しなせえ。今日ほど富士のよく見える日はねえんだ。」

 茶屋のお爺さんは半分こぼれた鵜呑みを甚五郎の座っている縁台に置くと、自分もその隣に腰掛けました。

「まったく今日ほど富士のよく見える日はねえな。」

「お爺さん、客が来ると毎日同じことを言ってるんじゃねえのかい?」

「あ?なんか言ったか?」

「独り言さ。」

「まあゆっくりするがええだ。何しろ今日ほどよく富士の見える日はねえんだ。」

 そう言って茶屋の爺さんは腰を上げるでもなく、座ったまま黙って富士のお山を眺めだしました。

「旅のお人。」

「へえ。」

「おめえさん、どっちへ行きなさるだ?」

「なに信州の方へ行くつもりさ。」

「ふうん。信州ってえと大月の向こうだな。」

「そうなるね。」

「じゃあその葛籠(つづら)を背負って江戸から来なすったか?」

「ああ江戸だね。」

「商いかね?」

「商いさ。」

「こりゃあちょうどよかった。ちょうどうちの黒文字が切れてたところだで、売ってくれろ。いやこりゃあ助かった。こっから村の小間物屋まで下りるのは一苦労だでな。なに峠を下りるのはまだいい。転がっていきゃあいいんだから。だども下りたら今度は登らねえといけねえだろ。これが骨だ。旅のお人、ちょうどよかった。黒文字を売ってくれろ。」

「困ったな。お爺さん、商いと言ってもあたしは小間物屋の行商じゃあねえんだ。この葛籠は空っぽだ。これから信州へ行って反物を仕入れて入れるものだ。だから黒文字どころか何にも入ってやしねえんだよ。」

「おんや?ありゃあなんだ?」

 茶屋の爺さんが富士の方を指差しました。

「なんでえ?」

 つられて甚五郎も富士を見ます。

「あれだよ。あの富士の右側のあれ。」

「あれ?あれは何だ?はは、お爺さん、あれはトンビだよ。トンビが富士を横切っているんだ。おや?お爺さん?いない。どこへ行ったかな?」

 すると奥から杖をついて茶屋の爺さんが盆にお茶を乗せて出てきました。今さっき隣に座っていた爺さんと同じ顔をしています。

「お客さん、今日はやけによく富士の見える日で、こんな日は滅多にねえ。おや?もうお茶が出ていやがる。俺が出したのか?いやあ参った。モウロクしたな。出した覚えがねえのに、お茶が出ているときたよ。ああ、ああ、年は取りたくねえ。」

 茶屋のお爺さんは頭が捻りながら杖をついてまた店の奥へと戻って行くと、甚五郎も首を傾げ、一息にお茶を飲むとすぐに店を後にしました。

 

 甚五郎にお茶を出した最初のお爺さんはムササビです。お爺さんに扮したムササビは軽い身のこなしで茶屋から飛び出すと、一目散に離れた岩陰に身を隠し、あたりを見回して誰もいないことを確認し一息つきました。

「あの葛籠が空だと?あいつはあの葛籠を空と言いやがった。なるほど。これはますます怪しい。」

 

 その夜、甚五郎は猿橋に宿を取りました。

 続いてムササビも同じ宿に入ります。この時のムササビは甚五郎と同じような旅姿の商人(あきんど)。宿を求める旅人でごった返す宿屋では一番目立たない姿です。

 夜もどっぷりと暮れ、誰もが寝静まった丑三つ時、ムササビはパッと目を開けて起き上がると、スッと音も立てずに甚五郎の部屋を目掛けて廊下へ躍り出ました。この時のムササビは大きなネズミの姿。ネズミ色の着物を着ているのではありません。本物の動物のネズミになっていました。ネズミは真夜中に一番目立たないからです。万が一たまたま厠へやってきた寝呆けまなこの女中と出くわして、『きゃー!』と悲鳴を上げられたとしても『泥棒が出た!』と『ネズミが出た!』では大違いです。泥棒ならみんな起きてきて大変な騒ぎとなりますが、ネズミならたいてい誰も起きてはきません。

 ただ人間としては小柄で痩せたムササビであっても、ネズミとなりますとかなり大きい方のネズミとなってしまいます。見つからないように周囲に目を配りながら、四つんばいでカサカサカサと廊下を走り、甚五郎の部屋の前まで来ると、もう一度キョロキョロとあたりを見回し、器用に前足でサッと襖を開け、スッと中に忍び込むと、今度は後ろ足で器用にサッと襖を閉めました。部屋の中は真っ暗ですが、ムササビの目には目的の葛籠(つづら)がぼんやりと見えました。

「ふふ。やっぱりそうだ。葛籠は枕元にありやがる。枕元に置くのは大事な物が入っている証拠だ。俺の見立ては間違ってなかったってことだ。」

 さあお宝をいただこうと葛籠へ歩き出してすぐ、ネズミ姿のムササビはぴたりと動きを止めました。甚五郎の瞼(まぶた)の開く音が聞こえたからです。

瞼が開く時に音なんかしないとおっしゃる方もいらっしゃると思います。ところが夜の夜中というものは本当に静かで、昼間には決して聞こえないような音でも夜中となるとはっきり聞こえるようになるから不思議です。夜中というものはあまりにも静かすぎて、動く物であればたいていどんなものでも音を発するようになります。試しに夜中に目を覚ました時、どうぞ耳を澄まして聞いてごらんなさい。月が夜空を移動する音だって聞こえます。

 ましてやムササビは泥棒の達人。人間の瞼の開く音くらいは簡単に聞こえます。パッ。暗闇に甚五郎の目が開くのをムササビは聞き、部屋の隅に身を寄せるとススッと屏風の後ろへ隠れました。

『ちくしょう。起きてやがったか。』

 

「喜助どん。いるんだろ?」

 甚五郎は布団に入ったまま声をひそめ暗闇にささやきました。

『しまった。見つかったか。』

屏風の後ろでネズミ姿のムササビは身を硬くします。

「喜助どん。ずっと俺についてきていたんだろ?」

 布団の中の甚五郎はささやきます。もちろん返事はありません。ムササビはじっと息を殺し隠れています。

『ちくしょう。見つかっちまった。それもただ見つかっただけじゃねえ。俺がずっと後を付けてきたことも、こいつはすっかり見破ってやがった。商人(あきんど)の形(なり)はしているが商人じゃねえな。こいつは忍びの者に違いねえ。それも相当な腕利きだ。』

 屏風の後ろでネズミのムササビはタラタラと冷や汗を流しました。

『下手をすると俺は殺される。』

 ムササビには自分の心臓の音がうるさいほど聞こえていました。

『きっとこいつにも俺の心臓の音が聞こえてるはずだ。』

 もうムササビは生きた心地がしません。

「なあ喜助どん。いるんだろ?いるなら何か言ってくれてもいいじゃねえか?」

 相変わらず甚五郎は布団の中でささやいています。その声は落ち着いていて、とても部屋に忍び込んだ曲者(くせもの)を捕まえようとする声には聞こえません。

『待てよ。俺はキスケなんてえ名前を名乗ったことはねえぜ。』

 次第にムササビも落ち着きを取り戻してきました。

『すると妙だな。この部屋にはもう一人いるのか?いや。そんなはずはねえ。ここにいるのは商人と俺の二人だけだ。ふう。びっくりさせやがる。寝言か。商人のやつ、寝言を言ってやがるんだ。』

 さあ仕事を再開しようとしたその瞬間。再びムササビはサッと縮こまり身を固くしました。甚五郎が枕元の燭台に火を灯したからです。小さな蝋燭(ろうそく)の火がゆらゆらと部屋を照らします。

『ふう。屏風の後ろに隠れていてよかったぜ。』

 ムササビは額の汗をネズミの後ろ足で拭いました。

 一方、甚五郎は布団から起き出すと、葛籠の前に正座をし、そおっと蓋を開け、中から布に包まれたお地蔵さんを取り出しました。その様子をムササビは屏風の後ろから隠れ見ます。

『ついにお宝を出しやがったな。』

 甚五郎は丁寧に布を解き、自分の前に例の小さなお地蔵さんを立たせました。

「お地蔵さんよ。お前さんは喜助どんなんだろう?だから俺を助けてくれたんだ。」

 隣室に聞こえないよう小声で話しかけますが、もちろんお地蔵さんは石でできていますから答えてはくれません。それでも甚五郎はめげません。

「何も言わないつもりかい?お前さんがそのつもりなら俺だって喋らないよ。石に話しかけるなんざ、頭がいかれているからな。だけどどう考えてもお前さんが俺を助けてくれたのは偶然とは思えねえんだ。だからこうして恥を忍んで話しかけてるってわけだ。ええ喜助どんよう。そうだろ?」

 と言うと、甚五郎はお地蔵さんが何か気の利いた返事を返してくれるかと耳を傾けましたが、お地蔵さんは何も言いません。

「そうかい、そうかい、そうゆうつもりかい?だったら俺も言わせてもらうぜ。喜助どん、おめえさんはいいぜ。先に死んじまったからな。あの世にゃあおめえさんの家族もみんないるだろうさ。だけどよ。俺はどうだ?ずうっと一人だ。家族も友達もありゃしねえ。これからもずっと一人で旅を続けるだけだ。だったら、喜助どん、助けついでに何か一言言ってくれてもいいんじゃねえか?アでも、ウでも構わねえ。何か言ってくれてもバチは当たらねえぜ。」

 そう言って甚五郎はまたお地蔵さんに耳を傾けました。返事はありません。

「ふん。どうしたって喋らねえつもりだな。だけどおめえさんが喜助どんだってことはわかってるんだ。何しろ体を張って俺を助けてくれたんだからな。額に刀傷まで付けちまってさ。そんなところを切られた日にゃあ人間だったらとっくにあの世行きだ。おめえがお地蔵さんだから助かったんだぜ。まあとにかく礼だけは言っておくぜ。ありがとう。こんなことはおめえさんが生きている頃にゃあ恥ずかしくってとても言えなかったんだ。こうやって地蔵になったから言えるみてえなもんだ。実のところを言うとな、俺はおめえさんには本当に感謝しているんだ。なんで生きている時にもっと言っておかなかったかなと思うけど、俺は馬鹿だからおめえさんが生きている頃にゃあわからなかったんだな。まったく馬鹿みてえに憎まれ口ばかり叩いちまってさ。本当に後悔しているんだ。まだ年端もいかねえ俺を引き取ってさ、親となり、師匠となり、親友となり、いつも俺のそばにいて俺を育ててくれたのにさ、俺ときたらおめえさんに『ありがとう』の一言も言ってこなかったんじゃねえかな。ああいやだ。なあ、それだけじゃねえ。俺はずっとおめえさんみてえな寂しい大人にはならねえなんてふざけたことをずっと思ってきたんだ。本当に恩知らずな馬鹿野郎だ、俺はよ。ああ、まったくだ。喜助どん、俺はおめえさんよりももっと寂しい大人になっちまったよ。」

 

 ブツブツ、ブツブツ、甚五郎が話すのを屏風の後ろで聞きながら、ネズミに扮したムササビは考えました。

『はて?あのお地蔵さんは盗んで金になるのだろうか?』

 この点、ムササビは専ら金銭を盗むのが専門で、美術品の良し悪しにはまったく目が効きません。それでも、甲斐国一円を仕切る泥棒の総元締め、鬼武蔵(おにむさし)親分からは、

「いいかムササビ、金ばかり盗むのはまだコソ泥よ。泥棒もな、書画骨董、刀剣の類を盗むようになってはじめて一流と呼ばれるようになるのよ。なんでもいいから盗んで俺のところへ持って来い。」

 と言われて、書画や骨董品や刀剣もなるべく盗むようにしていましたが、一向にその良し悪しがわからない。この壺は綺麗だから高い値が付きそうだと、盗んで親分のところへ持って行くと安く買い叩かれ、この刀は錆びているからたいした値が付かないだろうと、それでも盗んで持って行ったら、意外と高値で買ってくれたりと、さっぱり相場がわからない。だからもう書画骨董刀剣の類を盗むのは止めようと思うと、鬼武蔵の親分に相談すると、

「馬鹿野郎。一日二日で目利きになれると思ったら大間違いだ。とにかくなんでもいいからコツコツ盗んで、コツコツ俺のところへ持ってきやがれ。そうやってこれはいくらになった、あれはいくらになったと、十年二十年とやってるうちに、いつの間にか目が肥えて、物の良し悪しがわかるようになるってもんだ。そうやって泥棒の目っては鍛えるもんよ。俺くらいになるとな、いいか、今では見ねえでも匂いを嗅いだだけでそれがいくらになるかパッとわかるんだ。おめえも百年泥棒をやりゃあ、俺の足元くれえにはなれるだろうよ。わかったか!」

 と一喝されてしまいました。ただこの時に鬼武蔵の親分は一つだけお宝を見抜くコツを教えてくれました。

「いいかムササビよく聞け。おめえにはまだお宝を見抜く目はねえ。だからおめえがこれから盗もうと思うモノをただぼうっと眺めていたって何にもわかりゃあしねえんだ。だがよ、ここが大事だ。おめえはお宝じゃなくて、その持ち主の方をようく見ろ。いいか、そいつが物(ぶつ)を大事に扱っていたら、その物は宝物だ。宝物をぞんざいに扱う奴はいねえからな。お宝かどうかは持ち主の態度を見りゃあすぐにわかる。わかったか!」

以来、ムササビは持ち主の態度を見て、これはやけに大切に扱っているから金になるだろうと盗み、買い取ってもらうために鬼武蔵親分の元へ持っていきました。ところが、相変わらず親分の値の付け方はよくわからない。高かったり、安かったり、さっぱりわからない。そのため自分もいつまでもお宝の目利きができない。唯一わかったのは、ムササビが男の姿で行くと親分は安く値を付け、女の姿で行くと高い値をつけてくれることぐらいで、最初のうち、ムササビは自分を立派な泥棒に見せようと、石川五右衛門の姿で行ったり、歌舞伎の児雷也(じらいや)の姿で行ったりしていましたが、そういう時はどうも親分の機嫌が悪く、買取り値も安い。ところが、ある日たまたま町娘の姿で親分の元へ行くと、その時に盗んだ古びたかんざしに驚くほど高い値をつけて買ってくれました。その上珍しく親分の機嫌もいい。もしやこれは、と思ったムササビが次も町娘で行くと、その時もまた親分の機嫌がよく、買取りの値も悪くない。その次は町娘よりも少しばかり色っぽい年増(としま)姿で行くと、親分はさらに機嫌が良く、盗品もさらに高く買い取る。今度はもっと色っぽい芸者姿になると、親分はもっと機嫌が良くなり、さらにもっと良い値が付く。それならばとムササビは豪勢な花魁(おいらん)の姿になって親分の元を訪ねると、もう親分は涎を垂らして大喜び、高い値をつけるどころかムササビの言い値で買ってくれる始末。

「ははん。こりゃあ本当は親分も物の価値なんぞ分かってねえんだ。」

 そう思って、以来ムササビが親分に盗品を買ってもらう時にはいつも花魁の格好で行っていました。けれども、ちょうど前回盗品を売りに行った時、ついに親分のなけなしの理性がもろくも崩れ去り、花魁姿に激しく欲情した鬼武蔵親分は目を血走らせムササビを手込めにしようと襲いかかってきたのです。

「ま、待ってくれ、親分、俺は男だ。男なんだよ。」

 言われてようやく鬼武蔵親分もハッと我に帰り、

「お前、男だったか?」

「ああ親分。俺は男だ。忘れたか?」

「すまん。おめえがいつもそんな格好しているからすっかり忘れちまったよ。おめえ、本当に男か?女じゃねえのか?」

「ああ男だ。花魁の格好はしているが確かに男だ。」

 

 そうは言ってみたものの、自分が男なのか女なのか、実のところムササビ本人にも確信は持てなくなっておりました。あまりにも毎日毎日違う姿で暮らしているうちに、ムササビは自分の性別すらわからなくなっていました。年齢だって、自分がどこでいつ産まれたかも知らないのでわかりません。その上、性別もわからなくなってしまったのでムササビには自分が泥棒だという以外、自分のことがすっかりわからなくなっていました。確かに、裸になって確かめると、股の間にはドジョウの頭みたいなものがかろうじてくっついております。果たしてこれが男の証明なのか、はたまた女の何かなのか、気の毒にムササビのそれは小さ過ぎて自分では判別がつきません。胸も触ってみると、ふくらんでいるようないないような。これもよくわからない。悩んだ結果、ムササビは自分の性別を考えるのをやめにしました。

「ええ?男だの女だの?俺にいってえ何の関係があるってんだ?いいか。俺はムササビ様だ。変幻自在の大泥棒だ。男だろうと女だろうと、俺は好きな方に好きなだけなれるんだ。それでいいじゃねえか。」

 

さて、男でもなく女でもなく人間ですらない今はネズミのムササビは、甚五郎のお地蔵さんを盗むことに決めました。蝋燭の明かりに浮かぶお地蔵さんを屏風の後ろからよくよく見てみると、とても高価な石仏には見えません。それどころか、長年の風雨で摩耗しほとんど石に戻っていて、とても値がつくようには見えませんでした。けれども、これを持ってまた花魁の姿で鬼武蔵親分のところへ行けば、こっちの言い値で買ってくれるとムササビは知っていましたし、それ以上に、目の前いる甚五郎が非常に熱心にお地蔵さんに話しかけ、まるで天子様のお宝のようにとても大切にしているので、その様子を見ていると、どうももしかすると価値のあるものかもしれないと思えてきたからです。

『この商人がこれほど丁寧に扱ってるんだ。俺にはわからねえが、これはもしかするともしかするぜ。とんでもねえお宝かもしれねえ。』

 

『さあどうやって盗むか。それが肝心よ。』

 ネズミのムササビは腕を組んで考えました。

『一番簡単なのは、商人(あきんど)が寝ついてからお地蔵さんをこっそり盗むことだが、これだと朝盗まれたことに気がついた商人が騒いで、街道一帯が封鎖されちまうとしばらくは身動きが取れなくなっちまう。一番いいのは、商人が盗まれたことに気がつかずに盗むことだが、こんなに大事にしているものを気づかずに盗むなんてできるだろうか?うーん。』

 ムササビは目を閉じ、ネズミの細い腕を組んでしばらく考えておりましたが、やがてパッと目を開き、

『うん。これでいこう!』

 と小さなネズミの手を叩きました。

 

「さあ喜助どん。もう夜がふけた。俺は明日も旅を続けねえといけねえ。おめえさんの命日に墓参りができねえで申し訳ねえが、この旅が終わったらすぐに墓参りへ行くから勘弁してくれろ。けどよ、おめえさんはやっぱりこうして俺と一緒にいるんじゃねえのかな?どうも俺にはおめえさんがあの墓の下にいるようにはどうしたって思えねえんだ。やっぱり前とおんなじように一緒に旅をしている気がするぜ。どうだい?そうなんだろ?喜助どんよ、おめえさんは今お地蔵さんになって俺と一緒にいるんじゃねえのかい?」

 そう言って甚五郎はまたお地蔵さんに耳を傾けますが、やはり何も聞こえてはきません。

「どうしたって喋らねえつもりだな。まあいい。おめえさんがそのつもりならずっと喋らなねえがいいさ。おめえが喜助どんの生まれ変わりだって俺さえ分かってりゃあいいことだ。だけど喜助どんも喜助どんだぜ、なんだって石なんかに生まれ変わってきたんだ?まったく馬鹿みてえだ。俺一人で石に向かってくっちゃべってさ。ああわかったよ。もう寝るよ。明日は早えんだ。おやすみ。」

「おやすみ。」

「ああ、おやすみ。まったく寒い晩だ。こんな煎餅布団で寒さがしのげるかね。ん?おやすみ?今誰がおやすみって言った?」

 布団に入りかけた甚五郎は起き上がり、再びお地蔵さんの前に膝をついて向かい合いました。ところが今度の甚五郎はお地蔵さんを見つめるだけで何も話しかけません。人間というのは勝手なもので、さっきまであれほど話しかけていたのに、いざ返事がもらえると思うと、今度は怖くなり半信半疑になってしまいます。甚五郎はただジロジロとお地蔵さんを眺めていました。

 甚五郎に『おやすみ』と言ったのはもちろんムササビです。ただムササビはお地蔵さんの姿をしてはいません。お地蔵さんになるには時間が足りないので諦めました。代わりにネズミ姿のまま屏風の後ろに隠れ、甚五郎に声をかけました。

『ええと、こいつの名前はなんだっけな?昼間宿帳で見たんだがな。ええと、そうだ。甚兵衛だったけ。』

ム「甚兵衛。」

甚「ジンベエ?」

『違うか。ああそうだ。こっちだ。』

「甚左衛門。」

「ジンザエモン?」

『ああこれも違うか。ええと、何だっけなあ?そうだ!思い出した!甚五郎だ。』

「おい!甚五郎!」

「やっぱり喜助どんか!おめえさんは生きてる時もそうやってよく俺の名前を間違えて呼んでからかってきたもんだよ。喜助どん!死んでも全然変わらねえなあ。」

「ふう。助かったぜ。」

「何だって?」

「おお甚五郎。わしを恐れるでない。」

「別に恐れちゃいねえ。何で俺がおめえさんを恐れる?」

「おめえ俺が怖くないのか?あの世から帰ってきたんだぜ。言ってみりゃあ幽霊よ。幽霊がお地蔵さんに乗り移っておめえに話しかけてるってえのに怖くねえのか?」

「怖えもんか。俺とおめえの仲じゃねえか。親子と親友と相棒を足して二を掛けたような仲だ。幽霊だってバケモンだってかまわねえよ。よくぞ出てきてくれましたってなもんだ。」

「そうなの?」

「そうに決まってるぜ。で?どうなんだい?」

「どうなんだって、何が?」

「ずっと心配してたんだぜ。あの世では元気に暮らしているのかい?」

「ああそうだな。元気にやってるよ。」

「それはよかった。安心したよ。じゃあ病の方もすっかり治ったんだね?」

「病?ああ治った。もうどこも何ともねえ。いたって元気だ。」

「ああよかった。本当によかった。それだけがずっと気がかりだったんだ。何しろ、ほら、おめえさんが死ぬ時は本当に気の毒だったからなあ。体が火みてえに熱くなってさ。血の咳も止まらねえし、食えねえからガリガリに痩せちまうし、水を飲んでも吐いちまう。滝のように汗をかいてさ。体中が痛えから布団の中でのたうち回って、辛そうにウンウン唸ってるばかりだったな。」

「ああ本当に辛かった。」

「でも今は元気なんだな?」

「ああ元気だ。」

「無事なんだな?」

「あああの世で楽しく暮らしている。」

「それが一番だよ。それが一番だ。俺とおめえさんが離れて暮らすことになってもよ。お互いに元気なのが一番だぜ。」

「ああそれが一番だ。」

「喜助どんよ。」

「何でえ?」

「一つ聞きてえことがあるんだが、聞いてもいいか?」

「ああ、なんだ?聞いてみろ。」

「うん。おめえさんが、あのう、病に倒れてな、布団の中で苦しくてのたうち回ってる時だがよ、思い出したくもねえとは思うが、今は元気だって言うから聞くぜ。おめえさん、のたうち回りながらも時々さ、うっすら目を開けて俺のことを悲しげな顔で見てなんか言おうとしてたじゃねえか。声に出して何か言おうとするんだけどよ、そのたんびに咳き込んじまってさ。口も歯も血で真っ赤になっちまうんだ。あん時おめえさん、いったい何を俺に言おうとしていたんだい?」

「俺かい?俺、何か言おうとしてたか?」

「ああ、何か言おうとしていた。」

「それはたぶん、そうだな、あんまり覚えちゃいねえが、たぶん、水をくれとか、用が足してえとか、そんなことを言いたかったんだと思うぜ。」

「そうか、そうだな。いやすまねえ、喜助どん、つまらねえことを思い出させちまった。だいたい俺ってのは勘が鈍くていけねえや。おめえさんが何を言いてえのか、相棒なら言われなくってもわかってやらなきゃならなかったのにな。あん時の俺はオロオロするばかりでさ。何の役にも立てずに本当にすまなかった。」

「まあ。かまわねえよ。」

「うん。それはそうと、こないだの晩は本当にありがとう。」

「こないだの晩?」

「おめえさんが助けてくれなかったら俺も今頃は小仏峠で本当の仏になっていたよ。まあ、仏になったらまたおめえさんと会えたかもしれねえがな。だがあそこで死んじまったら大事なお得意さんはしくじっちまう。上田屋さんだよ。懐かしいかい?覚えてるだろ。もう十年になるかな?上田屋さんの頼みで上毛野国へ仕入れに行った時だ。あの時は大雪に降られちまってさ。一週間も山ん中で足止めだ。するとおめえさん、身支度を整えて『山を下りる』って言い出したな。『上田屋さんを待たすわけにはいかねえ』ってさ。あの時は俺も宿屋の親父も必死に止めたな。『こんな雪の中へ出て行ったら死んじまうぞ!』ってな。まああれから何年かしたらおめえさん本当に死んじまったんだけどさ。まあいずれ死ぬとしてもだ、あの雪で死ぬことはなかったぜ。上田屋さんだって誰かを殺してまで布切れを仕入れてえわけじゃねえからな。」

 

『まずいな、商人が昔話を始めやがった。俺はキスケのことなんて何にも知らねえぜ。これは何とか別の話題で切り抜けねえと。』

「なあ、甚五郎。」

「ん?」

「思い出したよ。」

「上田屋さんのことかい?」

「違う。俺が布団の中でのたうち回りながらおめえに言いたかったことだ。」

「いいんだよもう、あんなつまらねえ時のことは思い出さなくたって。」

「いや。思い出したんだ。甚五郎、聞いてくれ。あの時に俺がおめえに言いたかったことはな、」

「言いたかったのは?」

「ただ一言、」

「ただ一言?」

「そうだな、おやすみって言いたかったんだ。」

「そんなこと、そんなことかい?」

『ふふ。うまいこと話題を変えてやったぜ。』

「ああそうだ。おめえはずっと寝ねえで俺の看病をしてくれたから、もう寝てくれって言いたかったんだ。」

「なんだ、そんなことだったのか。」

「まあそういうことだ。」

『ふう。何とかここまではうまくいった。』

 ムササビは屏風の裏でネズミの額の汗を拭いました。

『さて。ここからが本題だ。しくじらねえようにやらないとな。』

「甚五郎。」

「何だい?」

「甚五郎よ。」

「何でえ?何がして欲しい?おめえさんがそう石みてえになっちまうと、俺には何がして欲しいんだかさっぱりわからねえや。何でも言ってくれ。水をかけて欲しいか?それともお日様に当てて欲しいか?」

『なるほどいい線いってきたな。』

「おめえがそう言ってくれると話が早え。実はな甚五郎。」

「おう。」

「俺は何しろこんな形(なり)になっちまった。どこからどう見てもすっかり地蔵だ。」

「そうだな。」

「そうなるとどうにもどこかで祀(まつ)られたくって仕方がねえんだ。」

「なるほど。確かに地蔵さんは祀られねえといけねえな。で?どうしたらいい?」

「良いか甚五郎。この猿橋宿を出て、三里ほど西へ歩くと道が二又(ふたまた)に分かれる。左へ行くと大月だが。おめえにはちょっと寄り道をして、二又を右へ行って欲しい。ああそうだ。右だ。右へ行くと道は山道になる、しばらく歩くと、そうだな一里もないくらいだな、道の右側に小さな祠(ほこら)があるんだ。今はもう何も祀っていない空の祠だ。そうだ。祠だ。仏様もお地蔵様もいない。空だ。そこにわしを祀ってくれ。」

「そこにおめえさんを祀ればいいんだな。」

「そうだ。祀ってくれ。」

「で?」

「で?なんだ?」

「そのあとは?」

「そのあととはなんだ?」

『そのあとは、てめえ決まってるじゃねえか、てめえがお地蔵さんを置いて元の道を戻って姿を消し、俺は地蔵を手に入れて、花魁姿で鬼武蔵親分のとこへ持って行って高値で買ってもらうのよ。なんて口を滑らすとでも思うか?』

甚「お地蔵さんを祠へ置くのはわかった。そのあと、おめえさんはどうやって俺と一緒に旅を続けるんだ?」

「なんで俺がおめえと一緒に旅へ行く?」

「だってそうだろう?そうやってあの世から戻ってきてくれたんだ。これでお別れってことはねえだろ?ええ?この先またどこで追いはぎに出くわすかもわからねえ旅だ。喜助どんよ、おめえさん、これからもずっと俺に付いてきてくれるんだろう?また前みてえに一緒に旅をしてくれるんだろ?」

「いや、無理だ。」

「無理ってのはなんだ?」

「おめえとは旅に行けねえ。」

「行けねえってのはなんだ?」

「行けねえのは行けねえんだ。おめえとは一緒には行けねえ。」

「どうして!」

「どうしてもだ。とにかく俺の言った所に俺を祀ってくれ。それでおめえとはお別れだ。」

「じゃあ祀らねえ。」

「わかんねえことを言うな!俺は地蔵なんだぞ。地蔵を祀らねえでどうするってんだ?」

「背中に背負って連れていくよ。おめえさんだってその方が楽しいだろう。ええ?そうだろ?だいたい喜助どんよ。おめえさんも生粋の江戸っ子じゃねえか。こんな甲斐だか甲州だかわらねえような山奥で狸や狐相手に祀られたってつまんねえぜ。心配するな。俺が背負ってどこまでも連れて行ってやるよ。気にするな。地蔵の一つや二つ背負って音を上げるような俺様じゃねえや。この先もずっと背負ってやらあ。」

「なあ甚五郎、そうじゃねえ。そうじゃねえんだ。」

「俺とまた旅がしたくねえってえのか?」

「いやそうじゃねえんだ。いいか甚五郎よ。俺はな、前はなんだったにせよ、今はこの通りの地蔵だ。地蔵には地蔵のお役目ってのがあるんだ。だいたい喜助ってのはもう死んじまってるんじゃねえか。こうやっておめえと喋ってるかも知れねえけどよ、どうやってもやっぱり死んじまってるんだ。だからこうやって地蔵の姿でおめえの前に出てきてるんだぜ。まったく何を言ってやがる。ええ?とにかくだよ、俺はおめえとくっちゃべってはいるけれども喜助じゃなくて地蔵なんだよ。だからおめえも観念して、俺を俺の言った所に祀ってくれ。いいな。」

「おめえさんは喜助どんじゃねえのか?」

「喜助だ!だからおめえの前に現れたんじゃねえか。」

「なのにもう一緒に旅はできねえって言うのか?」

「死んでるからな。死んだら旅はできねえ。」

「それで俺におめえを祀れって言うんだな。」

「そうだ。やっとわかったか?」

「おめえさんの言った場所におめえさんを置いて行けば、おめえさんは浮かばれるってことなんだな?」

「ああその通りだ。」

「またあの世へ行っちまうってことだ。」

「ああ行っちまう。」

「喜助どんよ、おめえさんはそれでいいのか?」

「ああそれでいい。それでねえといけねえ。何しろ俺は死んじまったんだから。この世じゃなくてあの世が俺の居場所だ。」

「そうか。そうだな。おめえさんは死んじまったんだ。それは俺もようく知ってる。俺が看取って、俺が坊さんを頼んで野辺の送りまでしたんだ。だからこそ、おめえさんはこんなお地蔵さんになっちまったんだ。」

「ああ祀ってくれ。」

「そうだな。」

 甚五郎とりあえずは納得し、明朝は早く宿を出て言われた場所に喜助どんのお地蔵さんを連れて行くと約束し、すでに夜も遅いので泣く泣く眠りにつきました。その様子を見て、ネズミ姿のムササビもようやく部屋の外へと音も立てずに出て行きました。

 

 翌朝、甚五郎は早くに宿を出、前の晩、喜助のふりをしたネズミのムササビに言われた通り、二又を右へ取り、急な山道を一里ほど登り、少しだけ森の開けた平らな場所にたどり着くと、果たしてそこには小さな祠(ほこら)がありました。

ついさっき山の向こうから頭を出した朝日が、古く朽ち果てた祠を神々しくも明るく照らしております。

「ああここだな。喜助どんの言った通り、確かにありやがった。おお、本当に空の祠だ。何にも祀ってねえ。」

 本当のところ、ここにはすでに別のお地蔵さんが祀ってありましたけれども、あらかじめ先回りしたムササビがそのお地蔵さんを祠から取り出して山の中へ放り捨てていました。

「それにしても、」

 古びた小さな祠を見下ろして、甚五郎はため息をつきました。

「とんでもなくでっけえ狛犬(こまいぬ)だな。驚いたね。こんなにでっけえ狛犬は見たことがねえ。善光寺さんだって芝の増上寺さんだって、どれほど立派で大きなお寺さんへ行ったって狛犬さんってえのはやっぱり狛犬さんで、大きさだって少しばかりでかい犬の大きさだ。立派なお寺だから狛犬もでかいってえことは日本中どこへ行ったってねえんだ。それがどうよ、ここの狛犬ときた日にゃあ、ええ?こんなボロっちい祠のくせして狛犬だけは、日本中のどこの狛犬よりもでけえときていやがる。なんてえでけえ狛犬だ。犬じゃなくて人間がお座りしているくらいはあるぜ。」

 確かに人間がお座りをしておりました。人間にしては小柄で痩せてはいましたが、狛犬にしては大きい。言うまでもなくこの狛犬はムササビです。若気の至りとはこのことで、変装の名人ムササビは時として自分の腕前を過信してしまうことがあります。昨夜のネズミといい今朝の狛犬といい、普通に考えれば大き過ぎです。ところが、そこが天才ムササビのまさに天才たる所以というものでもありました。他の人が変装したら大き過ぎて、もしかしたら人間が化けているのではないかと思われてしまうのが普通の場合でも、名人ムササビが化けるとそうはなりません。甚五郎は目の前の狛犬を人間が化けているとは露とも思いませんでした。おそらく、昨晩ネズミのムササビと出会(でくわ)したとしても、それをネズミの被り物をした人間だとはやはり誰も思わなかったでしょう。恐ろしく巨大な本物のネズミと思ったはずです。それほどムササビの変装は見事なものでした。

「しかし変だな。」

それでも甚五郎は狛犬を見て首を傾げました。狛犬の変装の下でムササビの額に一筋の汗が伝います。

「ここの狛犬が一匹しかいねえってはどうにも変だ。たいてい狛犬ってのは二匹で一つ。一匹はどこかへ逃げちまったか?なあ喜助どん。」

背中の葛籠(つづら)に甚五郎は話しかけました。ただ昨晩と違い、もう背中の葛籠の中に背負っているお地蔵さんは喋ってはくれません。

今朝起きてすぐ甚五郎は「おはよう、喜助どん」と枕元のお地蔵さんに声をかけてみましたが、もうお地蔵さんは何も言ってはくれませんでした。その後も祠の前に来るまで時折、人目がなくなると話しかけてみましたけれども、お地蔵さんが一言も発することはありませんでした。すでにムササビは先を行っていてお地蔵さんのそばにはいなかったからです。

「まあいいや。」

甚五郎は背中の葛籠を降ろし、恭しくお地蔵さんを取り出すと、厳かに祠の中に安置して、手を合わせました。長い時間目をつぶり、手を合わせ終わると、甚五郎は袋から徳利を取り出します。

「喜助どん、おめえさんは酒が好きだったからなあ。もうちっと量を減らしてくれりゃあ長生きもしてくれたのにと思うよ。さあ、今朝宿の女将さんを叩き起こして売ってもらった上等の酒だ。ええ?女将さん、眠い目を擦ってぶうぶう言いながら樽から徳利に酒を移してくれたよ。」

『しめしめ。今日はついていやがる。高価なお地蔵さんが手に入るだけじゃねえ。上等な酒まで呑めるじゃねえか。』

 狛犬のムササビはつい『ゴクリ』と喉を鳴らしました。

「おや?今喉が鳴ったような。気のせいか。」

 甚五郎は耳を澄ませましたが、風の音と鳥のさえずり以外にはもう何も聞こえません。

「さあ、喜助どん、飲んでくれ。」

 と言って、徳利の酒をお地蔵さんの頭からじゃぶじゃぶと浴びせました。

『ああ、ああ、酒が、酒が、』

 狛犬のムササビは微動だにしませんが、心の中では全身をねじらせてもんどり打ちました。

 甚五郎は最後まで酒をお地蔵さんに注ぎかけると、徳利の底に残った数滴を自分の口に全部落として飲み干しました。

「別れの盃(さかずき)だ。喜助どんよ。今度こそ今生の別れだ。」

『はあ。』

 これで終わったと心の中でため息をつく狛犬のムササビは、甚五郎が去るのを待っておりましたが、甚五郎は一向に立ち去る様子がありません。その場にじっと佇み、じっとお地蔵さんを見つめています。

「はあ。」

 今度は甚五郎がため息をつきました。

「なあ喜助どんよ。もう喋ってくれねえのかい?」

甚五郎は言い、お地蔵さんに耳を傾けました。狛犬のムササビはもう一度話そうかどうしようか迷いましたけれども、話せばまた話が長くなるだろうし、見ず知らずの喜助の役をやってどこでボロが出るかもわかりません。狛犬のムササビはじっと息を殺して甚五郎の去るのを待ちました。ところが甚五郎は一向に去る様子がありません。

「なあ、喜助どんよ。喋らねえってことはもうおめえさん、すっかりこの寂しい山ん中に腰を落ち着けちまったんだな。頭の先から足の先まですっかりお地蔵さんになっちまったんだ。ああそうかい。それはいいよ。俺だってわがままを言っておめえさんを困らす気はねえ。何しろ今のおめえさんは商人(あきんど)じゃなくてお地蔵さんだ。もうお客さんのためにあくせく汗を流すこたあねえんだ。ここに突っ立って旅人の無事を祈るのがおめえさんの仕事だ。ああ立派な仕事だ。死んじまってからこんな立派な仕事を見つけたおめえさんには俺も鼻が高えよ。たいていのやつはあの世へ行ったって、やれ天国だの、それ地獄だの、閻魔様だのとギャアギャア大騒ぎしているのに、おめえさんは死んでもこうやってまたこの世に降りてきて、こうして立派な仕事をしているんだからな。ああさすがは喜助どんだ。だからもうおめえさんはこんな山奥に一人でいたってちっとも寂しくはねえんだろう。ここに突っ立って、お天道様がこっちの山から登り、あっちの山へ沈むのを毎日毎日眺めているだけで、もう十分幸せなんだろうよ。俺もおめえさんが地獄みてえな馬鹿なところに落ちて、苦しんでねえと知って安心したよ。まあおめえさんが地獄へ行かねえのは最初からわかっていたけどよ。おめえさんはな、ずっといいやつだったからな。たった一度だけ悪いことをやったがな。ふふ。覚えているだろ?木曽で拾った五文を猫ババしちまったのをお前さんずっと後悔していたな。そんなもん、おめえさんが生きているうちにやってきた良いことの数に比べたら大したことはねえ。『五文なんてもらっておけよ。猫ババしたっておめえさんを責める奴はいねえ』って俺は言ったな。ああ本当だよ。おめえさんは本当に親切ないい人間だったよ。俺もおめえさんを見習って誰かに親切にしようと思うんだけどな、何しろ親切にする相手がもういねえときていやがる。困ったもんだよ。

 地獄へ行くのは俺の方かもしれねえな。

なにしろおめえさんに猫ババしちまえって言ったのは俺だ。あの時俺は酒を飲んでたんだ。だからあんなことを言っちまったんだな。」

 ここで甚五郎は何事かを考え、言葉を置きました。

 

五文というのは今の価値で五百円くらいでしょうか。これまでにムササビが盗んだ金品の百万分の一にもなりません。今のムササビにとっては目の前に転がっていたとしても見向きもしない端金(はしたがね)です。それを拾い、届けるべきところへ届けずに自分たちの懐に入れてしまったことを目の前の男はクヨクヨと思い悩んでいる、またこの男の相棒は死ぬまでずっとそのことを悔やんでいた。生まれながらの泥棒のムササビにはそれが信じられません。

『ふん。五文で地獄行きなら、俺はどこへ行くんだ?ええ?地獄の一番底か?地獄に底があるなら行ってみてえもんだ。』

 

「やっぱりもう喋ってはくれねえか?喜助どんよ、さあこれがもう最後だ。俺は行くよ。これから信州へ行って、また江戸へ戻るんだ。帰りにまたここに寄るよ。上田屋さんが待ってるからあんまり長居はできねえが、でもこの仕事が終わったら江戸からまたここへ戻ってきて、この祠をもう少しきれいに建て直してやろうと思う。狛犬だって一匹じゃあ座りが悪いからな。もう一匹必要だ。ともかく、喜助どんよ、ありがとう。小仏峠で助けてくれたことだけじゃねえ、他にもいろいろ全部、ありがとう。本当にありがとう。」

 最後にもう一度だけ、喜助どんが何か言ってくれるかと期待して、甚五郎はまた一つ間を置き耳を傾けました。

 

 ところで、人から心を込めて『ありがとう』と言われて無視できる人はいません。たいていの人なら、誰かにありがとうと言われると、『どういたしまして』とか『こちらこそ』とか『お礼なんてとんでもない』などと何かしら言わなければ気がすまないものです。これはおそらく、助け合って生きる人間の本能のようなもので、赤ん坊が飲み方を教えられなくても母親のおっぱいを自然と飲むように、他人から『ありがとう』と感謝されると、言われた人間は何か返事をしなければならないよう人間というものは生まれながらにしてできているのだと思います。実際、私はありがとうと言われて何も言わずに無視している人間をこれまでに見たことがありません。

 ところが、ムササビはその日狛犬に化けるまで生涯に一度も他人から心を込めてありがとうと言われたことがありませんでした。もちろん甚五郎は狛犬にありがとうと言ったわけではありません。あるいはお地蔵さんに言ったわけでもありません。ただお地蔵さんを通してあの世にいる喜助に対して心を込めて生涯のお礼を述べました。ところが変装の名人ムササビは知らず知らずのうちにこの時すっかり喜助となっておりました。ムササビは変装の達人であるために、かえって自分自身をムササビではなく本当のお地蔵さんの喜助だとすっかり信じ込み、思い込んでしまっていたのです。そのため、ムササビは甚五郎の『ありがとう』を直接自分自身への『ありがとう』として受け取りました。

ところが悲しいことに、生涯に一度も誰かから本気でありがとうと言われたことのないムササビは、喜助となっていたとしても何を言っていいのかわかりません。何か返事をしたい、何か言わなければという激しい思い、強い衝動が心の奥底からこんこんと湧き上がってくるのに、何を言っていいやら肝心の言葉が見つかりません。どうしても何かを言いたい気持ちがあるのに、何を言っていいいのかさっぱりわからない。甚五郎から心を込めて『ありがとう』と言われたことで、ムササビの心の中には大きな大きな穴がぽっかりと開きました。それはどこまでも暗く、恐ろしいほど辛く悲しい穴でした。

 

「うん。わかった。何にも言わなくったって、喜助どん、俺にはおめえさんが何を言いてえのかわかるぜ。ともかく、帰りにまた寄る。またな。」

 甚五郎はようやく重い腰を上げ、心残りを引きずりながら歩き出しました。

「待ってくれ。」

 狛犬のムササビがお地蔵さんの声で甚五郎の背中を呼び止めます。

「待ってくれ。」

 甚五郎は誰が自分を呼んだのかと、キョロキョロと辺りを見回しますが、誰もいません。やがて嬉しそうにお地蔵さんを振り向きました。

「喜助どんかい?」

「ああそうだ。俺だ。キスケだ。なあ甚五郎。」

「喜助どん、よく戻ってきてくれた。」

「甚五郎。」

「おお喜助どん。」

「俺を連れて行ってくれ。」

「おめえさんってことは、お地蔵さんを連れて行くってことか?」

「ああそうだ。その通りだ。」

「どうした喜助どん、ここが気に入らねえのか?もっと賑やかな場所がいいか?確かにここは街道からも外れているし、寂しい場所だからな。さあ言ってみろ、どこがいい?どこにおめえを祀(まつ)ればいい?」

「そうじゃねえ、そうじゃねえんだ。」

「じゃあなんだ?」

「俺も一緒におめえと旅がしてえんだ。旅へ連れて行ってくれ。」

「旅にか?」

「地蔵なんて真平ごめんだ。どこにも落ち着きたくはねえ。」

「おお、それでこそ喜助どんだ。さあそうと決まりゃあ話は早え。これから楽しくなるぜ。なにしろ俺はもう一人じゃねえ。どこへ行ったってまたおめえさんと一緒だ。まあ形(なり)は昔とはだいぶ違うがな、そんなことは大した問題じゃねえ。石になっても喜助どんは喜助どんだぜ。だけど喜助どんよ。」

「なんでえ?」

「石になって旅をするのは楽じゃねえかもしれねえぜ。何しろ酒は飲めねえし、うめえものも食えねえ。温泉だって入れねえしな。旅の醍醐味は何一つ味わえねえぜ。それでも俺と旅がしてえかい?」

「とにかく俺は旅をしていろんなものを見てみてえんだ。どこにも行けねえ地蔵より、この世の地獄がまだマシだ。」

 嬉々として甚五郎は再びお地蔵さんを布で包み葛籠に収めると、よっこらしょと背中に担ぎ山道を降りて行きました。

 

 そのあとを狛犬から出たムササビが気づかれないように追いかけます。現れたムササビは、この時ばかりはまだなんの変装もしていない本当の姿のムササビです。小柄で痩せた、歳の頃二十一、二の色の白い優男。

これがのちに江戸へ出て、怪盗鼠小僧と呼ばれる大泥棒となるきっかけの一席でございます。

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