日本最大の城!江戸城とその周辺を歩く①
徳川幕府の開府以来260年余りの長きに亘り政治の中心となってきた江戸城は、他の城郭を引き離し圧倒的な規模を誇る我が国最大の城郭だ。
城郭としては外堀までがこれにあたるが、他の城と同じく内堀より内側の内郭と呼ばれる区画のみが残り、この範囲が一般に江戸城として認識されている。
歴史好き、城好きの端くれとしては一度訪れてみたいと常々思っていたのだが、なかなか実現できずにいた。
その理由は、江戸城が東京の都心部に位置することによる。
私はプライベートにおいては原則として車移動しかしないので、東京の都心部へ行くとすれば交通渋滞と多額の駐車料金を覚悟せねばならないのだ。
せめて他にも行きたい場所がいくつもあればいいのだが、あいにく都心部で私が行ってみたいと思える場所は無かったので、先送りし続けていたのである。
今回そんな江戸城に訪れるきっかけとなったのは、またしてもラブライブだ。
江戸城を訪れる前日にお台場でライブ(UNIT LIVE! ~R3BIRTH R3VOLUTION~)があり、東京に行く用事が出来たのだ。
それだけならば自家用車で行くところなのだが、あいにく時期は1月半ばという東京では降雪のおそれがある時期だったことから、新幹線を利用することにしたのだった。
以前に記事でも書いたことがあるが、私の車は年中サマータイヤを使っているので、降雪などに見舞われたら忽ち足止めを食らうのである。
去る令和5年1月15日のことだった。
皇居
江戸城の内郭が現在は皇居となっていることは周知の事実であるが、実は内郭の敷地内が全て皇居とされているわけではないのだ。
皇居の敷地にあたるのは江戸城西の丸及び吹上御庭(現在の吹上御苑)にあたる区域であり、江戸城の一部に過ぎない。
かく言う私もここを訪れるまではそんな事は知らず、江戸城内郭の敷地内全てが皇居なのだと思いこんでいた。
本当に世の中は知らないことばかりであり、自身の無知を実感した瞬間だった。
現在の江戸城内郭は、皇居、皇居東御苑、皇居外苑及び北の丸公園から構成されている。
このうち、前者2箇所は宮内庁が、後者2箇所は環境省が管理しているそうである。
皇居東御苑
本丸、二の丸及び三の丸がある江戸城の中心部が、皇居東御苑だ。
同心番所や百人番所、大手門等の遺構が多く現存しており、大部分が公園として一般開放されている。
北の丸公園
道路を挟んで北側の区画で、日本武道館や科学技術館、東京国立近代美術館分室などがある。
江戸城の遺構としては田安門と清水門が現存しているほか、田安門の外には靖国神社が位置している。
大手門
城の南側に位置する江戸城の正門で、東京駅から徒歩で来た場合はここから入ることになる。
この大手門の手前の事は下馬と呼ばれていたのだが、これは下馬と書かれた札が掲げられていた事に由来する。
大名などが江戸城へ登城する際、騎乗した者は大手門の手前で馬から降りなければならなかったのだ。
また、大名行列は大勢の家臣を連れているが、これらの家臣のうち大手門より中に入ることが出来る人数は制限されていた。
そのため、下馬には主君たる大名が下城するのを待つ家臣で溢れかえっており、ここから下馬評という言葉が生まれたという。
なお、大名は大手門を駕籠に乗った状態で通過することを許されていた。
下馬では待機する大勢の家臣のほか、大名行列を見物する庶民が集まり相当賑わっていたようで、こうした需要に目をつけた商売人が出店などを出店して酒食を提供していたそうだ。
いつの時代も商売人は目ざとく、そして商魂たくましいものだと感じる。
なお、ここから先は宮内庁が管理する皇居東御苑であるため、警備は皇宮警察が行っている。
そのため江戸城各門には皇宮護衛官の詰所が設置され、出入りする者に対する手荷物検査を実施しているのだ。
同心番所
大手三の門跡を出た所にあるのが、江戸城の警備派出所とも言うべき番所の一つ、同心番所だ。
警備にあたっていたのは百人組と呼ばれる組織に属する同心で、詳しくは百人番所の項目で後述する。
なお、この大手三の門では大名も駕籠を降りなければならなかったのだが、例外として御三家のみは駕籠に乗ったまま通過することが許された。
かつてはこの門付近にも濠があり、下乗橋と呼ばれる橋が架橋されていたそうだが、濠は埋め立てられ往時の面影がないのが残念でならない。
同心番所も本来の位置である門の外から、門の内側へ移設されたのだそうだ。
百人番所
江戸幕府には百人組と呼ばれる鉄砲隊が組織されており、主に江戸城の警備の任についていた。
その百人組が配置されていた江戸城最大の検問所こそが百人番所で、中之門の手前にある。
この中之門を通過すると本丸へ通じることから、極めて厳重な警備がされていたものと思われる。
なお、中之門から先については、たとえ御三家の大名といえども駕籠を降りなければならなかった。
百人組とは、伊賀組、甲賀組、根来組、廿五騎組という4組から構成されており、その名前から分かるように伊賀組と甲賀組は忍者の末裔である。
泰平の世において忍者は単なる武士となり、江戸城の警備要員となっていたようだ。
百人組は一組が百人で構成されており、昼夜問わず警備にあたっていたという。
そのため建物自体も非常に大きく、先程の同心番所と比べると遥かに横長の建物となっていることが分かる。
大番所
中之門を通過した所にある番所であり、本丸へ向かう最後の砦だ。
そのため、位の高い与力や同心が警備にあたっていたという。
江戸城の警備を担うと言い思いつくのは五番方だが、このいずれかが警備にあたっていたのだろうか。
ちなみに五番方というのは、幕府の常備兵力として組織された5つの軍事組織のことをいい、書院番、小姓組、大番、新番、小十人のことを指す。
いずれも平時は将軍の警護や、江戸城を始めとする要地の警備にあたっていた。
なお、この大番所のみは戦後に復元されたものであり、当時の建物ではない。
大番所までで一区切りとする。
江戸城は極めて広大であり、来訪した箇所も多いので記事を分割することにした。
次回の記事は本丸から始めることとしたい。
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