ブギウギ感想・「無縁」の原理と、「家族」について

最終回からもう時間が経ってしまった。
書きたいことが多すぎて全くまとまらず(現在進行形で考え続けていることもある)、しかしこのままだと永遠に感想をまとめることができないので、ひとまず一冊の本に即して物語の感想を書いていこうと思う。

その本とは、「無縁・公界・楽」(網野善彦著)である。
中世日本の「自由と平和」、それを担保する「無縁」の原理、遍歴する職人や芸能民たち。
この「無縁」の原理が、ブギウギの物語世界には貫かれていたのではないか。
本書を引きながら、上記テーマに即して物語について考えてみようと思う。
ちなみに私は歴史に詳しいわけではないので、五十年近く前に発売された本書の現代における歴史的な正しさについてはわからない。これはあくまで、本書の哲学を引いて、ブギウギ世界を再考しようという一感想文であることをご了承頂きたい。(その上で、訂正・異論等ありましたら優しくご指摘ください)


「無縁」の原理とは。

江戸時代の縁切寺から始まる本書。離婚権を持たなかった女性が、離婚の決意を貫くための最も有効な手段として持っていたのが「縁切寺」への駆け込みであった。

俗世との縁を断ち切るこの原理、中世の寺には江戸の頃よりもさらに強い縁切りの力があったのではないかと史料を元に論は進行する。

夫婦間だけではなく、主を持つ下人・所従・奴婢の走り入りができたということ、罪人の保護をしていたということ。

「無縁所」であった寺の持つ縁切りの原理とは、主従の縁を切ること・世俗での賃借関係を切ること・無縁所とその門前や寺域は「不入の場」であったこと。

これは、戦国大名による支配と新しい時代・「有主」の原理が否応なく浸透してゆく中世の世の、対立軸としての「無主」の原理である。

「公界(くがい)」・「楽」という言葉も、同じく「無縁の原理」を持つものとして視点を広げると、「無縁」の哲学はより深まってゆく。
公界所としての自治都市、自治都市の組織「老若」と同様の構造を持つ一揆、自治都市の商人たち・・
「無縁・公界・楽」、それは「私的隷属から解放」された、「平和領域」であり、それらを担う人々は大義の「職人」たち(職人・商人・芸能民)であった。

ざっとまとめてしまったので間違いもあるかもしれないが、これが本書で言われる「無縁の原理」であり、それは「アジール」(避難所)という概念ととても近しい。


結論を先に言うと、ブギウギという物語において、福来スズ子という歌手(中世の芸能民をルーツに持つ職業)が、彼女の歌によって、苦難の時代に作り出してきたものこそが、「無縁」の場なのではないだろうか。

戦時中の暗い世の中を照らした「アイレ可愛や」(これもまた、厳しい検閲の目をすり抜けた場所に作られた、どこか遠くの「自由の国」・アジールである。)

敗戦後の日本を大きく昂揚させた「東京ブギウギ」(全てを失った人、その中で強く生きる人。光の裏側、社会の影となる部分。パンパンガールや失意の中のタイ子のエピソードで、痛みも苦さも共にひとつの渦の中に巻き込んだ様が描かれた)

年末の歌合戦での「ヘイヘイブギー」(「あなたが笑えば私も笑う」と歌うスズ子に、自然と踊り合いの手を入れて盛り上がる観客。歌があり踊りがあり笑顔があり、平和がある。「勝ち負け」の文脈に盛り立てたこの週の物語は、スズ子の作り出す平和のステージへと帰結する。)

いずれも、「歌の力」という曖昧で、それでも現代においても尚不思議な説得力を持つパワーが作用しているのだけれど
このパワーを辿ってゆくと、歌手という職業の(俗人とは違う)聖性があり、その場の「無縁性」、誰もが誰にも支配されない・自由の空間、があるのではないだろうか。

「無縁の原理」は時代を経るごとに徐々に縮小してゆく、と本書は書く。当たり前ながら、支配層はそれを許したくはない…明治維新で壊滅したであろうことは、(本書はそこまで言及しないが)想像に難くない。
しかし、支配者が言葉で規定できなかった部分に、人の心に、それはひっそりと生きてきたのではないか。芸の聖性、歌の力。こういうことすら感じさせるような、圧巻のステージシーンの数々であった。

そもそも「ステージ」という場(=芸を行う場)こそが、「市」に起源を持つ「無縁」の場そのものである。


さて、鈴子が確保してゆくそうした「無縁」の場は、しばしば「有縁・有主」の場と対立し、脅かされる。
以下、物語に沿って、「無縁」と「有縁」の対立を考えてみたいと思う。


始まりの「はな湯」。
これは鈴子にとっての理想郷なのだ。
職業・性別・年齢を問わず誰もがどんな時にも集い楽しく過ごす場所。

湯屋という場所そのものが持つアジール性については、本書でも指摘されている通りである。ひとつの平和領域であり、一種の広場の性格を持ち、入浴によって穢をきよめ、清浄を回復する場でもある。


そして梅丸少女歌劇団。
先輩から受け継がれる「芸」。先輩の誰かひとりが「権力」を掌握するわけではない。人気者や金を儲ける者が、そうではない者を支配するわけではない。
そこにあるのは身分の上下ではなく、芸歴の上下。
「強く、逞しく、泥臭く、そして艶やかに。」ひとつの哲学の元、切磋琢磨し芸を磨く少女たち。ここにあった秩序は、本書の書く「老若」という自治組織の秩序に似ているようでもある。

「…自治都市、一揆に共通して見られた「老若」という組織についてである。「老者」「老名」「年寄」と「若衆」「若者」とからなり、ときにその間に「中老」をおくこの組織は、石母田正氏も指摘しているように、年齢階梯的な秩序原理の上に立ち、「本来階級社会以前の、または未開社会の身分的分化様式であり、性別とならぶ自然発生的分業の秩序」であった。
(中略)
これこそ「公界」「無縁」の場における秩序であり、「公界者」たちに特徴的な組織形態と、私は考える。
下人・所従に対する私的な所有、従者・被官に対する主の私的な支配を軸とする秩序・組織と、それは本質的に異質な秩序原理であったといわなくてはならない。」

無縁・公界・楽

芸人たちを多く含む「公界者」の秩序と、芸を育てる場である梅丸の組織の秩序原理が似通うのは、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。時代はこんなに変わっているけれど、現在の芸能界においても「芸歴」はひとつの指針として大事にされているなと思ったりする。

しかし、この「老若」の秩序体系は、会社という「有主」の論理と対立する。これが桃色争議のエピソードであり、大和さんと橘さんが退団せざるを得なくなった結論へつながるのではないだろうか。


そして戦争が始まり、「国家」がますます力を持ち始める。

そんな中、運命的に出会い恋に落ちた鈴子と愛助。愛助の部屋(たくさんのカルチャーに溢れた夢のような!)は、「敵性文化」「敵性音楽」と様々なものが抑圧されてゆく社会における、まさにアジール(避難所)であったように思われる。


戦時中の地方巡業は、日本中世の遍歴する旅芸人を彷彿もさせる。広義の「職人」たちには、土地を行き来する許可が与えられていた。
彼らが行き交う場所こそ「無縁」の場。そこには市が立ち、その土地には無い商品が運ばれ、歌や踊りや説教があり、旅する人々のもたらす、知らない土地の物語があった。
苦しいときに、人々は何故音楽を求めるのだろう。音楽の楽しみと、自由とは。そんなことも考えさせられる、繰り返し歌われる「アイレ可愛や」であった。


愛助との結婚を巡る、村山興行社長トミとのエピソードは、まさに「無縁」/「有縁」の対立から始まったと思う。個/家の対立とも言い換えられるであろう。
秘密裡に同居を始めた三鷹の家、闘病しながら、恋人を甲斐甲斐しく世話する鈴子の愛の生活。そこには歌と踊りが溢れている。これも初めはアジール(避難所)的な場であったように思う。


さて、ずっと書いてきた「無縁」と「有縁」の関係性についてここで改めて考えてみたいと思う。ここからは少し、ブギウギ本編から脱する。

網野氏は、本書において、西欧の研究におけるアジールの発生の論理を引きながら、「無縁」/「有縁」について書いている。

西欧の学者はアジールについて三つの段階を考えており
①聖的・呪術的な段階
➁実利的な段階
③退化から終末に至る段階
と分けられる。
さらに、最も未開な社会にはアジールは存在しない。(族長・呪術師がかなり強力な機能を持つようになった段階で初めて明確になって来る。)

これらを踏まえて、日本の「無縁」について著者は、
・アジールとは、「無縁」の原理のひとつの現れ方である
・未開社会において、「無縁」の原理は存在しないわけではなく、潜在する。人類が自然に圧倒されている状態であるこの段階(「原無縁」と呼べるような)においては、「無縁」「有縁」は未分化である。
と前提して論を進行する。

「無縁」の原理は、その自覚化の過程として、自らを区別される形で現れる。要するにそれは、対立物としての「有縁」の出現を伴うということである。
このとき「無縁」の原理は聖なる場として出現する。(上記の、①聖的・呪術的段階に当たる)

さて、対立物として出現した「有縁・有主」の原理は、「無縁・無主」の原理をも取り込み活発化してゆく。(あたかも、人類が自然を取り込み力強くなってゆくように)
そうして「有縁・有主」の原理の下、それが組織化されたとき「国家」が出現する。
(上記の➁実利的なアジールの段階に当たる。自覚化された「無縁」の原理は、様々な宗教として組織的な思想形成を開始する。古代から中世前期までがこの段階では、と本書は書く。)

こうして「有縁・有主」の原理が強固になってゆくことで、上記の③退化から終末の段階へと進む。
「有主・有縁」の世界を固めた戦国武将による「無縁」の原理の取り込みの進行、国家権力の人民生活への浸透がますます根深いものになってゆく。

ここから論は、西欧における市民革命と、王権との対決なしに始まってしまった日本の近代の問題へと進むのだけど、ただでさえ脱線していたテーマが変わってしまうのでここでは立ち入らない。


長々と、ブギウギと関係のないことを書いたのは、「無縁・無主」の原理は「有縁・有主」の原理と分かりやすく対立しているわけではないという前提が必要だったからである。
「無縁」の場が起こり得るのは、「有縁」の場が同時に起こるから。逆もまた然りであり、「有縁」の原理が社会を支配するには、前提として「無縁」の場がそこにある必要がある。

ふたつは単純な対立構造にない。
それは、ブギウギにおける「イエ」が、「家制度」(有縁の原理)と拮抗し対立しながら、最終的に無縁の原理に基づき、鈴子の「家族」として現れるということを理解するのに必要な前提なのだと思う。

本書には、「アジールとしての家」についての記述がある。

「イエ」は、専ら、家父長権に由来し、「私的所有」の原理が貫徹した場として捉えられる。それはまさしく、上記で書き続けていた「有縁・有主」の原理そのものである。
ブギウギにおいては、時代として近代的な家制度が背景にあり、それは国家権力にも繋がる。「無縁」の人・鈴子/スズ子に対して立ちはだかるたくさんの「力」はまさに「有縁」の原理であったと思う。

しかし、最愛の人を亡くし最愛の娘を得た鈴子は「家族」を・「イエ」を作ることを志向した。
それは矛盾しないのか?

こう考えたときに、本書の「アジールとしての家」という論が立ち上がって来る。
鈴子の「イエ」は、「家制度」とはまた違う、「無縁」の原理に基づいたものなのではないだろうか。


「家」「屋敷」という場は、一方で、社会から独立した不可侵性を有する場でもあった。
「卯花垣」で区画された「農民屋敷地・園・垣内」は、「一種の聖域としての不可侵性」を持っていた。いくつかの史料から、権力の介入を排除し得る場であったのでは、という推論を前提に、著者は、家という場は「無縁」の本質を持つ場なのではないか、と書く。

なんともわかりにくいので(私の文章もわかりにくいのだけど、本書が展開する論もかなり抽象的でわかりにくいと個人的には思う)、補論を参照しながら、鈴子の「家」についてもう少し考えたいと思う。

私的な所有権がまずそこを神の住む場、だれのものでもない「無所有」の場として囲いこむことによってはじめて形成されてくること、

無縁・公界・楽

まずその場を「聖地」として、誰のものでもない・神の場として考えることからスタートする。中国やゲルマンにおいて、「家の中は平和領域である」と広く認められていたのも、竈の神の支配する場とみなされていたからである。
「私的所有」(「有縁」の原理)が成立するのは、そもそもまずそこが、誰のものでもない「無縁」の場、であるからである、という論理。これは、上記のアジールの発生において見て来たことと同質である。

著者は、「無縁」「無主」の特質を持つ「家」における、「家長」自身がつねにこの矛盾そのものを体現してきた。と続ける。

家長と言えば、すぐに家父長的な支配者の風貌のみを考えるのは、一面的な見方に堕するものと言わなくてはならない。(中略)それ自身の性に「無縁」特質を持つ女性が、家女・家主・家長と表現されている事実を想起しなくてはならない。
家長は私的所有者として私的欲望を追求するだけでなく、「無縁」の原理を否応なしに主張し、前面に押出す場合も、大いにありえたのである。

無縁・公界・楽

鈴子の「家」は、こうした像にとても近しいのではないだろうか。

度々映される、亡くなった家族たちの遺影(母・弟・愛助・父)。彼らは鈴子の神様であるのだよな、とずっと感じていたのだけれど、「聖なる場」としての「家」の文脈に当てはめるととてもしっくり来る。

娘・愛子の誘拐未遂事件を起こした犯人である小田島。彼を受け入れる鈴子の「家」は、(未遂ではあれど)「罪人」の「走入り」が認められた「不入」の場としてのアジール性を大いに有している。また、彼の職業が庭師であるというのは、上記の「聖域」としての花垣も思わせる。


遠回りをして色々とややこしいことを書いたけれど、
近代的「イエ」の文脈を前提としながら、そうではない「家族」の在り方を探る、というのが、ブギウギの大きなテーマのひとつだったのではないだろうかと感じる。その論理としてあるのが、上記のような、古代の「家」・「無縁」の原理に基づいた「家」の在り方なのではないだろうか。


多くの人々を救う「歌」という「無縁」の場。
しかし、現代において、そこは瞬間的で永遠ではない。

「家」・転じて「家族」という存在が(それは血縁に基づいたものでなくたって構わないのだ、という力強いメッセージと共に)、「有縁」の原理の悪だけではなく、「無縁」の場として機能する可能性について、物語のクライマックスは私たちに示してくれた気がする。



本書の説く「無縁」の原理も、ブギウギの持っていた「平和と自由」の哲学も、現代においてははなはだ古くさく現実的でない部分も多いのかもしれない。しかし、高度な論理や哲学を得、歴史に学んできた今私たちが、今なお「歌」に惹かれ(惹かれるこころはとても原初的な欲求である気がする)、「芸」に聖性を見出すのは何故なのだろう。
そもそも、私自身が(私たち、なんて主語で思考することに慣れていない私そのものが)、この「無縁」の哲学に心底惹かれ、それをブギウギという物語の根底に見てしまうのは、一体何故なのだろうか。


その「正解」はわからないのだけど、最後に本書の最後の言葉を引用して、この論考を終わりにすることにする。
ブギウギが持っていた生命力をまさに書き当てたような一文ではないだろうか。
「正解」に硬直する現代において、「無縁」の哲学は、「家」の論理をも乗り越えて自由であり得る。これは、もしかしたら、令和の今だからこそ、再評価できる哲学なのかもしれない。

読みづらい文章に最後までお付き合い頂きありがとうございました。長々と書いてきたけれど、書けば書くほど物語そのものから遠ざかってしまい、ああもう一度ステージシーンを観たいなあ、という気持ちになった。「物語」を享受する歓びに溢れていたドラマだったなあ、と心底感じる。

原始のかなたから生きつづけてきた「無縁」の原理、その生命力は、まさしく「雑草」のように強靭であり、また「幼な子の魂」の如く、永遠である。「有主」の激しい大波に洗われ、瀕死の状況にたちいったと思われても、それはまた青々とした芽ぶきを見せるのである。
日本の人民生活に真に根ざした「無縁」の思想。「有主」の世界を克服し、吸収しつくしてやまぬ「無所有」の思想は、失うものは「有主」の鉄鎖しかもたない、現代の「無縁」の人々によって、そこから必ず創造されるであろう。

無縁・公界・楽



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