朝ドラらんまん 徳永教授について



徳永教授と三首の和歌について、まとめた文章を残しておこうと思う。

田邊教授ほどには(物語上)饒舌なキャラクターではなかったけれど、描写される要素や条件が語るものの多いキャラクターだった。それはまるで31字のみで書かれないものも表す短歌のように。
彼もまた、大いに時代に巻き込まれた人なのではないかと思う…

と、思うのだけれど、書き手である私が何の専門家でもなく知識が足りないため、内容に間違いがあるかもしれない。それでも書き記しておきたいという自らの欲求のためにこちらを残します。異論は大いにあると思うのですが、指摘したい方はどうか優しく指摘してください。(切実なお願い)

朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲き増さりけれ

夕顔を眺める万太郎に「源氏物語に出てくるから夕顔が好きだ、私は日本文学が好きだ」と語るシーン。

このシーンのひとつ前は、教授室での、万太郎を挟んだ徳永と田邊の会話劇。
合理的で冷徹な(学会誌のクオリティが低ければ「燃やしてしまえ」)田邊に対し、厳しいけれど情の深い(学生と歳の変わらぬ若者にそこまで負わせるのは…)徳永との対比。
徳永は田邊に「矛盾の塊」と指摘される。

徳永はどんな人間なのか。
出世を知りたく、モデルであろうと言われている松村任三についてwiki軽く見てみる。
常陸松岡藩の家老の長男。優秀だったようで、藩の項進生に選ばれている。

年表の中の「数え6歳にして、水戸藩主の前で四書五経の素読を行う」が徳永を考えるヒントになるだろうか。

幼い頃から儒教の精神を自然と身体に入れ、漢籍に親しんできたエリート。
蘭学者の親を持つという田邊のモデルとの、新旧の価値観の圧倒的な差が見える。
徳永の(階層や正規の手続きを踏むことへの)厳しさは、儒教の精神にも基づくものなのだろうか。


幼少から漢学に親しんだ彼が、源氏を好み万葉集を暗誦し、「日本文学が好きだ」と言うに至るのは、この当時(幕末〜維新)は自然な流れなのか。それともひとつ隔たりがあるのか。

個人的にはそこから本居宣長を想起する。漢心を徹底的に排除し、そこに古来のやまと心を見出した本居宣長の国学の影響なのかと。宣長は源氏の注釈書で「もののあはれ」を提唱し、万葉集や古事記などから上代語の研究をした。

ずっと考えているのだけど不勉強により、確かなことがわからないので、以下は仮説。

徳永が好む「日本文学」は、その国学に基づいた思想的な部分ではなく、あくまで言語・描かれる物語・風物・勿論植物を含む自然。例えば「もののあはれ」の感覚そのものなのではないだろうか。
その「素朴な」感情は、恐らく万太郎の植物への目線と通底している。だからふたりは、万葉集の歌で対話するのだ。

これはあくまで私の中の仮説。ドラマの設定としては、彼の根本は日本文学から始まるのかもしれない。

それでも、好きな文学を突き詰める道は彼にはなかったのだろうなと想像される。エリートの宿命(イエを背負う義務)的なものもあろうし、学問としての日本文学の当時の地位というものも考えさせられる。(不勉強なので仮説です)

・朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲き増さりけれ

朝露に濡れて朝咲くと言われる朝顔だけれど、夕方の光の中でこそ輝いて見える。
この朝顔に、徳永は、朝という正規のルート(法律)を逸し、夕方という別のルート(植物学)へ進んだ自身を重ねたのだろうか。
(この歌で言われる朝顔は、桔梗なのではないかという論もあるそうだ)

朝顔・昼顔・夕顔、ひとつだけ瓜科で「仲間はずれ」の夕顔を、彼は好きだと言った。
夕顔は、異例の出自である万太郎自身にも重なるかもしれない。




・古に恋ふる鳥かも弓弦葉の御井の上より鳴き渡り行く


万太郎が大窪と共同研究をし、ヤマトグサを発表する週。
ふたりを見守る徳永。田邊と万太郎の関係の悪化。前述の朝顔の歌の時の三者の関係が反対になっているような背景。


歌は、天武天皇の皇子・弓削皇子の作。
昔を懐かしんで鳴く鳥だろうか、弓弦葉の御井の上を鳴き渡ってゆく」
天武天皇在位の頃を偲び、もうその時には戻れないという寂しさと、鎮魂の思いも込められているのでは、というこちらの解釈を参考にする。

弓弦葉(ユズリハ)は、新しい葉が古い葉と入れ替わり出てくる性質から、家が代々続いてゆくという縁起木であるそうだ。
ドラマの中でも、ちょうど年の変わり目、大晦日を挟んだ描写・年明けのシーンと共に描かれていた。
この発見が時代を変える、というイメージ。更には、若い万太郎たちの情熱を年長者として見守る徳永のイメージも重なる。

もうひとつ、この歌には大事な要素がある。「古に恋ふる鳥=ホトトギス」である。

不如帰(ホトトギス)には、復位を望んだけれど叶わなかった中国・蜀の皇帝の古事があり、歌に詠み込まれる「鳥」には、天武治世に「帰るに如かず」もう帰れない、という昔を偲ぶ思いが掛けられている、と。(上記リンク参考)

治世、時代の変化。のちの、田邊から徳永への植物学教室のトップ交替劇がここで示唆されていたのだとも読める。



この後、徳永のドイツ留学、田邊の非職と物語は続く。
徳永治政(敢えて「治世」という言葉を使うが)の植物学教室は、「田邊のやり方を否定」し、より「国益」を重要視する厳しいものであった。

実際的に日の丸国旗を背負う形で置かれた机(田邊の机が窓に向かって開かれていたこととの対比)で、「世界に勝たなければ」と言う徳永を、初めは、愛国(国学に影響を受けているのではと思っていたのもあり)と権力が合体してしまったか・・と考えていたのだけど、波多野と野宮のイチョウの精虫の発見に嗚咽を漏らす彼の姿を見て、それは少し違うのかもしれないと思い始めた。

彼の語る、留学先での日本人差別、悔しい思い。この「悔しさ」は計り知れない。

悔しさ、この人の人生に通底してきたものなのではないか。
学んでいたのは法学だけれど、植物学へと途中で道を変えた。時代の急激な変化による新旧の価値観の変容。漢籍を読みこなすエリートが、「旧いもの」として「化石」扱いされること。(田邊の「旧幕時代の化石」という言葉を思い出す。)

その間に上記二首に象徴される万太郎との和歌での対話があり、「世界を見よう」と決意した徳永が見た世界。受けた仕打ち。

このひとは思想的な愛国者ではなく、そこに縋らざるを得なかった人なのではあるまいか。
アイデンティティの揺らぎの中、(田邊のように「遅れた国」と見積もることをせず)「一等国になるんだ、見返してやるんだ」という感情で立ち上がったのだろう、と思うと、あの壮絶な嗚咽には、「愛国者」以上の気迫があったように思う。



・この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む

国益という名目と信条と、その齟齬が決定的になる万太郎と、その矛盾を感じながらも「体制側」であり続ける徳永との決別。万太郎は辞表を提出する。

この歌は、大伴家持作。
「この雪が消えてしまう前にさあ行こう。雪の中に赤く照り映える山橘を見に」というこの歌が、ドラマが描く雪の降る真冬のシチュエーションにも重なる。
大学を辞め厳しい道を行く万太郎へのエールである。
赤く照る山橘の実を見られるのは、厳しい寒さを行く者のみだ。

同時に、徳永はこの歌に自身を重ねたのではないか?と私は思う。
作者の家持は、政治に振り回される波乱の人生を送った。
政治に(体制に、国に)自らが潰されそうになっていることへの自覚。窓の外に視線を遣る徳永の目に「いざ行かな」が響いたのではないだろうか。

山橘(ヤブコウジ)は、お正月の縁起物。教授室を出た万太郎が佑一郎と歩く町は、お正月の準備をする人々で溢れている。ユズリハのあの歌の時と、シチュエーションが重なる。

「次の時代へ繋ぐ」、ユズリハの歌の時、若き研究者たちを見守った徳永を思い出す。



三首の歌と徳永。彼が、万葉集の歌に本心を隠していたことがわかる。(彼が万太郎と歌でやり取りをするタイミング)

ドイツ語での挨拶が彼を厳格な国益主義者に見せたように、やまと言葉が彼のやわらかな心の動きを引き出している。

やわらかな心。それは、「優しさ」という単純なものではないだろう。善悪の単純な二項対立でもない。一本の筋を通して生きようとする彼の厳しさが、世の中のままならなさを受け入れざるを得ないときに発露するものではないだろうか。

最終週


万太郎の博士号授与式で「最後まで世話が焼ける」と言う徳永の姿。

徳永が万太郎をずっと気にかけていたこと。国と一体化する権威でありながら、守らねばと感じていたもの。
ここには、「悪人」の登場しないこの物語において、「体制」という構造の内部にありながら、それと葛藤するひとの姿がある。その暴力性を引き受けるひとの姿がある。

「体制」に反旗を翻した万太郎の孤高と、「体制」の中で自らの大事なものを守ろうとする徳永の孤高が共鳴するようでもある。

ふたりが、和歌において対話をしたことの意味。
万太郎が万葉集を好むのは、本草学を学んできたから。徳永が日本文学を好むのは、また別の理由。それでも、その言葉はふたりを繋ぐ。
こういう「特別な言葉」も、この物語においてとても大事な役割を果たしていたな、ということを思う。



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