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才能への挑戦

私はアイシールド21という漫画が好きだ。
そして久しぶりに読んでみた。
いやめちゃくちゃ面白いやないかい。
いまだにアメフトのルールよく分からんけど、こんなに面白いのは傑作すぎる。

多くの人は感じたことがあるはずだ。
自分はヒーローにはなれない。
ナンバーワンにはなれない。
この世界には、絶対的な才能というものが存在する。
残酷で圧倒的な力量差は、いかなる手段を用いても覆すことはできない。努力をどれほど積み上げようと、敵わないものは敵わない。

100m走の決勝はほぼ黒人選手である。
黄色人種が100m走においてナンバーワンになることは今後ほぼないと思われる。
そこには根本的な力の差がある。生まれ落ちたその瞬間から、トップオブトップになれないことは決まっている。人を規定するのは可能性ではなく、不可能性である。

それでは、日本人短距離走者の挑戦は、彼らの努力は、果たして無駄なのだろうか。
競技という勝利を指向する戦いのなかで、結果が最も重んじられる残酷な世界のなかで、彼らの戦いは無意味なのだろうか。

アメリカンフットボールに敢闘賞はない。
努力を讃える文化は存在しない。
勝者のみが栄光を手にすることができる。
その世界観のなかで戦う男達の生き様を描いた作品がアイシールド21である。 

この作品には明確なテーマがある。
それは才能への挑戦だ。
持つ者、持たざる者。
持たざる者の挑戦には、どのような意味があるのか。
アイシールド21が問いたいことはそこにあると私は考える。

私は雲水と桜庭推しだ。 

雲水は凡人だった。
彼には天賦の才を持ち、比類なき実力を示す弟がいた。
雲水は才能という絶対的な力の前にひれ伏した。己が凡人であることを受け入れ、弟を至高の選手にすることに全力を注いだ。

桜庭も凡人だった。
同じチームには最強の疾さと強さを持つ天才がいた。しかし桜庭は才能という名の絶望的なまでの実力差があることを受け入れられなかった。理想と現実の乖離に苦しみながらも、彼は足掻いた。選手として、到達できない高みがあることを知りながらも足掻き続けた。

そして物語の終盤でも、桜庭は足掻きつづけた。
一方雲水はフィールドの外で、自分と同じ凡人が天才達と同じ戦場で戦っている姿を見て、激しく後悔する。
なぜ自分はあのフィールドにいないのか。
どうして自分は戦っていないのか。
力の差がありながらも、覚悟をもって戦い続ける男達を見て、雲水は慟哭する。

私は競技の世界から降りた人間だ。
心情的には雲水の気持ちがハイパー理解できた気がした。
自分は一流には決してなれない。
一流になれないなら戦うことはないのでないか。

しかし戦いたい気持ちがあるなら、戦うべきなのだ。
戦うか戦わないかの判断に、勝つか負けるかの計算は必要ない。
頂点への道を見つけたら、ただ登る。自分に向いているかどうかは関係がない。
それがアメリカンフットボールが教える雄の生き方である。

やりきって納得して終えるのならそれでいい。
私は納得していないままに競技を終えてしまった。終えた先で得たものも確かにあったのだが。
私は現在おおむね幸せである。
だが戦い抜けなかったという点においては後悔は少しある。

きっと一生敵わない。
それでも戦う。
0.01パーセントでも可能性があるなら、挑み続ける。
無様でみっともない。
スマートじゃない。
かっこ悪い。利口ではない。
しかし負けると知りつつ戦えばこそ勇ましさもひとしおだ。
敗軍の将にも勇者はいるものだ。

戦い挑む人の姿は魅力的である。
魅力的な人間でありたい。

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