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【連載小説】俺たちの朝陽[第11章]奇跡の三位、一体の『27時』

【つまらん、勝つためだけの野球はつまらん】
 洋助は、昔酔っぱらうとすぐ、テレビのブラウン管の向こうにいる贔屓チームの監督に怒鳴っていた親父の事を思い出していた。旅館をやっていた洋助の親父は、洋助と同じで酒に弱い。そのくせ常連客に勧められると呑んでしまい、挙げ句の果てに喧嘩をしてしまうのだった。それは決まって野球のテレビを見ていてのことだった。
 小さな旅館だったが、客商売とあってテレビが入るのは早かった。プロレスと野球のある日は、近所の連中は、みんな当然のように見るために集まってきた。集会場として誰も疑わなかった。てなもんや三度笠にも集まった。「当たり前田のクラッカー」だった。
 親父はそれこそ大得意だった。そして講釈をたれた。特に野球は彼の独壇場だった。
「杉浦は、一緒に南海に行こうといっておきながら巨人に入った長嶋を見返そうと、頑張って一年目27勝を挙げて新人王になったんだ。これを偉いと言わない奴は俺が相手になってやる」と、騒ぐのが、いつものお決まりだった。
 その杉浦忠は、2年目の昭和34年には、38勝してわずか4敗という驚異的な成績で南海のリーグ優勝に貢献し、シーズンの最優秀選手、投手五冠に選ばれ、迎えた日本シリーズでは巨人相手に第1戦から第4戦まで血豆をおして4連投して4連勝の大活躍で南海を初の日本一に導き、シリーズの最優秀選手にも輝いた。このとき記者に囲まれた杉浦は、
「ひとりになって泣きたい」と、語ったという記事が載った時のことを、洋助の親父は、我がことのように思い出して涙ぐむのだった。
「プロ野球には、大の大人が泣けるような話がなけりゃダメなんだ」と、言うのが口ぐせだった。 
 だから洋助は子供心に野球放送のある日は怖かった。贔屓チームの勝ち負けによる機嫌の具合が違うといった単純なものではなかったから、なおさらだった。いつも正座して見なければならなかったし、子どもにはよく理解できないことへの質問が飛んで来たり、途中経過の感想を述べよ、といった口撃が待ち構えていたからだ。
「ここはバントをする方が」とでも言おうものなら、 
「なぜバントなんだ」
「なぜお前はそう思うのだ」
「このバッターはそうしたいと思っているか」
「ピッチャーの考えはどうだ」など、矢継ぎ早に砲弾が飛んでくるのだった。それからは、洋助はバントなんて金輪際口にするものかと誓った。
 だから、この野球チームには、バントだけはさせまいと洋助は心に決めていた。高校野球のバントばかりするのを見たり、解説者とアナウンサーが、
「ここはバントですね」などと聞くと洋助は、つい親父の口ぐせが口を出た。

「決まったことのように言うんじゃねぇ」
 やるからには勝ちたいと思っている監督の地金や綾ベーとは、いつもそのことで論争を繰り返していた。1試合もしないうちから、作戦上の模擬試合が侃々諤々と続けられていた。
 勘太は勘太で、バントなんぞこれっぽちも頭になかった。
「1点だけ取ったって勝てるとは限らんじゃん」
「俺が決めてヒーローになる」と、決めていた。それもホームランで。
 気負いは大抵は空回りすると決まっているものだが、この時は、違っていた。その気迫に気押されたのか、初球、投じられたのは、勘太の好きな真ん中やや低目のストレート。
「貰った」と、振り抜いた勘太のバットから弾き出された白球は、一直線にレフトの金網で作られたフェンスへ向かった。
「やったー」
 誰もがそう、ホームランを期待したが、あと少しのところで、金網にぶつかり、跳ね返ってグラウンドに落ちた。そんな打球にお構いなしの守田は打球に見とれることもなく一目散にホームを駆け抜けていった。打った勘太は完全にホームランと思い拳を振り上げて自慢げにベンチを振り返っていたりしていたため、悠々と二塁ベースには行かなくてはならないところ、単打で終わっていた。
「なに、調子づいてンだか」
「ホームランなど10年早い」
「ホームに帰って来なけりゃ、交代だ」
 殊勲打もカタなしである。
 しかし、勝ち越しは勝ち越しだ。地金は、哲彌にピッチング練習を命じた。
「お、やっと出番だね」
 信介に冷やかされながら、高校の後輩の三輪田を相手にキャッチボールを始めた。
 次打者のナリは、今日、少しもいいところがなく、挽回のチャンスが来たと張り切っていた。前打席、カーブでオチョクラレていたことが、沸々と思い出されていた。
「絶対、カーブを打ってやる」
 その1球目は、大きく割れるようなカーブだった。それこそ待っていたボールだったが、あまりに狙い通りだったため、左足が極端に外側にむき身体が開いてしまいバットは空を切ってしまっていた。
 勝ち誇ったようなマウンド上の投手の表情を見て、顔の頬骨のあたりがカッと熱くなるのが解った。
「あ~あ」
 味方からの容赦のない溜め息が、よけいに我をなくしていった。次もカーブだ。解っていても今度は手が出ない。
 ツーストライク。今度は頭全体が燃えるような温度を感じた。
 その時だ。次はカーブが来ないと直感した。

 ナリは思い出していた。昔、悪ガキに絡まれ、喧嘩を仕掛けられた時のことを。その仲間たちから囃され、からかわれていると、悪ガキがそれに合わせるかのように軽く頭を小突いた。それをよけられずにいると、バカにしたようにもう一度。周りの囃す声も大きくなった。ナリは顔面が熱くなるのを感じ、一瞬頭を上げると、それを狙っていたかのように、右のストレートが鳩尾に入って来た。チョンチョン、ズボッと三拍子で。ジャブの後にストレートをボディに打つボクサーの真似をして。
 悪ガキは喧嘩に慣れていた。
 投手の顔が、その悪ガキに見えてきたのだ。カーブの次は内角を抉るようなストレートだ、絶対に。そう確信したナリは、左足を開かぬように左足を球筋と直角に固定し、思いっきりバットを振り切った。
 打球は、ショートの頭をライナーで越していった。左中間を白球が一直線に飛んでゆき、勘太は三塁へ、ナリは二塁へと達していた。
 次は四番の出番だ。コバはゆっくりと打席に立った。三橋がピッチャーでは、1点のリードは無いも同然だから、ベンチにいた連中は置物呼ばわりしていたが、内心大いに期待していた。しかし、そこは『27時』の面々、素直にはいかない。
「ここで打たなきゃ、次は八番だ」
「アウトなんか取られてみろ、ベンチに入れねーぞ」と、脅すばかり。
 しかし、コバは結構冷静にピッチャーを見ていた。ナリに打たれた自慢のストレートを初球に、また投げられる度胸がある奴か。
 だが、その1球目はど真ん中のストレート。
 相手の放った右ストレートを、ボディに来ると思いガードしていたのに、顔面に喰らったボクサーのように、信じられないという顔でポカンとしていた。
「次はカーブだ。それも外寄りの」
 右のバッターボックスに入ったコバは、わざとホームベースから遠くに足の位置を決めた。内角が苦手なバッターがするように少し身体を開き気味にだ。普通ならここでは、内角を攻めてくるのだが、ナリに強烈なパンチを喰らった奴は続けたストレートを投げる気にはなれないだろう。
 案の定、外側から曲げてきたが、怖がっているのでホームベースには向かわず、そのまま遠く外れていった。続く3、4球目も外角を大きく外し、最後もワンバウンドになるボール球で、フォアボール。
「喜んでいいのやら。コバよ、男になり損ねたなあ」と、信介。
 次打者のアイアンマンは、その太い腕にバットを抱きしめながら、レフトの頭上を見つめていた。
「まあ、越せない高さじゃないな」
 マウンド上では、ひとりピッチャーが孤立していた。内野手はお互いに目も合さず、所在なげに地面をスパイクで撫でるばかりだった。控えのピッチャーがせわしなく投球練習を始めようとしていたが、まだ間に合わないのか、続投するようだった。
 早くイニングを終わらせたいピッチャーの投じた1球目は、アイアンマンの最も好きな内角高めのストレート。バットの軌道を測ったかのように投げられたそのボールは、軽やかに弾き返され、レフトの頭上高く舞い上がり消えていった。
「ボールがバットに当たって行った」

 8対3。
 全員がベンチを飛び出し、我先にとアイアンマン目がけて殺到していった。ユニフォームの紐を引っ張る者、そのゴワゴワの髭面に頬を寄せる者、頭を何度も叩く者、それぞれが精一杯の嬉しさを爆発させる。
 信介が勢い余って、相手ベンチに向けて尻を出し挑発してしまう。これが相手を怒らせた。アッという間に、ホームベース上に塊ができ、小競り合いが始まった。
 哲彌はネクストバッターズサークルに控えていたこともあり、真っ先に相手捕手に突っ込んで行った。いつもの調子で弁慶の泣きどころに思いっきりケリを入れた。その瞬間、右足首に嫌な感触が残り、力が徐々に抜けていくのが解った。相手が防具、レガースをしているのを忘れていたのだ。やってしまったかもしれない。哲彌は高校時代、何度も捻挫を繰り返し、癖になっていたのだった。 
 足首を押さえてその場にうずくまってしまった。他の連中は自分たちの目の前の敵と闘うのに精一杯で、哲彌に気がつかない。そればかりか、哲彌の上に乗っかりながら、殴り合っている。血の気ばかりは多すぎる連中なのだ。
 暫くして能一があの間延びした声で、
「大丈夫ですか、哲彌さん」と言ったので、全員がその動きを止めた。その声が場に合わなかったので気がついたのだ。哲彌は声を出せずに呻くばかりだが、それをきっかけに、審判が間に入り、ようやく騒ぎが納まった。痛み分けという訳だ。哲彌を洋助が肩を貸しベンチの内に運んだ。
 まだ攻撃は続くはずだったが、哲彌の代打で出た洋助、地金、島田は、祭りの後の空虚なふん囲気に呑まれたのか、淡泊なバッティングでフライを3つ上げてしまい、攻撃は終わった。

 さあ、最終回だ。ここを切り抜ければ、初戦にして初勝利の快挙だ。しかし、地金は悩んでいた。抑えに哲彌を予定していたからだ。哲彌の後輩の三輪田にするか、いや、ピッチング練習さえさせていないし、かといって信介では、五点差は無いも同然。
「ええ~い、ミッチャン、続投だ」
「え、え、ええ~、本当に」
 実は三橋は、あの乱闘騒ぎにも加わらず、お役御免とばかりに麻美、由実の姉妹からマッサージを受け、すっかり寛いでいたのだった。
「しょうがないだろ。ま、5点あるから気楽にさ」
 大急ぎでユニフォームに着替え、というより、ユニフォームを被り直した。
 さすがに慌てたせいか、トップバッターをストレートで歩かせてしまう。
「何点あると思っているの。楽にいこうぜ」
 ナリが声をかける。
「あ、はい」
 応えたものの、どうも力が入らない。気持もマッサージを受けた筋肉とともに弛んでしまったようだ。
 続く一番バッターには初球をレフト前に運ばれ、ノーアウト一、二塁。
 二番にはファーストのナリの前にキレイなドラッグバントをされ、オールセーフ。
 次の三番バッターには、長打を2本打たれている。
 地金が練習の時から用心をしていた一番嫌な打者だ。
 コバは少し弱気になって、外角の低目にミットを地面に触るくらいに構えた。その気持が伝わってしまったのか、三橋の投げた1球目は、それこそど真ん中。
 思いっきり引っ張られて、打球はライトのフェンスを軽々と越えていった。
 満塁ホームラン。一挙に1点差になった。
 リリーフには誰にするか、地金の手持ち札は、投げ込み不足は解っていたが、三輪田しかいなかった。
 規定の練習球数を投げ終わった三輪田は、いきなりの四番バッターとの対決に、気負っていた。初球、あわやデッドボールになろうかという内角の高目のストレート。仰け反って避けた四番は睨みつけたが、三輪田にはその目を見る余裕もなかった。
 2球目のストレートをレフト前に運ばれ、次打者にはワンスリーからフォアボール。地金がタイムをかけ、二塁からマウンドへ駆け寄った。
「気持で負けてるぜ。まだ、こっちが1点勝ってるんだからさ、思い切って行こうぜ」
 ハッパが効いたのか、六番打者に気合いを込めて投げ込んだ球は、相手の内側にくい込み、ピッチャー前に力なくピッチャーへの小フライ。ランナーは動けず、ワンアウト。
「後は、七、八、九番。下位打者だから大丈夫」
 ベンチから哲彌が怒鳴った。
「森岡、いくぞ」
 哲彌に代わってサードに入った森岡は、グローブをプロ野球選手がセカンドバックを小脇に抱えるようにして守備位置に戻っていった。地金はちょっと緊張感に欠けているような気がして、彼に声をかけた。
「サードに行くぞ」  
 野球には妙なジンクスめいたものがあって、代わった野手のところにボールが行くということがある。代わった途端、それまで一度も飛んだことのない守備位置に、ボールがいくことは珍しいことではなかった。
「あっ」
 次の瞬間、まさにサードに強烈なゴロが襲った。
 森岡は、地金にいわれて意識してしまい、真正面の打球に対し、腰をしっかり落とそうとして、少し前につんのめった格好でボールを迎えにいってしまった。
「まずい、トンネルだッ」
 誰しもがそう思った瞬間、ボールはスリーバウンド目に地面の固い部分にあたったのか、イレギュラーし森岡の薄い胸に激突した。
 ウッと呻いた森岡の身体は前のめりになっていたお陰で、薄い胸ながらボールの勢いを吸収し、コロコロと三塁ベース上に転がって行った。慌てて森岡はボールを拾いベースを踏んだ。さすがに動揺していて一塁に投げる余裕などなかった。
 だが、まだツーアウト。
「油断するな、締めていけよ」
 三輪田は、地金の言葉にうなづきながら、セットポジションの体勢をとった。

 三輪田は、高校時代は野球をやらなかったが、中学時代は少し投手の経験があった。
だが、彼には中学二年生の頃、苦い思い出があった。初めて練習試合に投げさせてもらえると思ったその日、試合前の守備練習の時にそれは起こった。先輩が脚を痛め、代わりにショートの位置に入りノックの球を捕りに行ったその瞬間、鈍い音がして右手中指に激しい痛みを覚えた。 
 慎重になり右手で左手のグローブに添えようとしてイレギュラーしたボールが当たったのだった。爪の根から血が噴き出してみるみるうちにそのまわりが赤く染まった。指が痛いということより、今日は投げられなくなったという事実に、泣きたくなるほど悲しかった。
 その痕跡をとどめるかのように、三輪田の中指の爪は二枚爪になってしまい、いまだ直っていない。爪は伸びてその二枚爪はなくなるものと思っていたが、なくなる直前に思い出したように割れて元のままになってしまうのだった。忘れるなよ、と何かボールに言われているようだ。
 それから三輪田はライバルに3番手投手の地位を奪われたのだった。あの時のボールの感触がいつも襲ってきて野球が怖くなり、情熱が手からスルリと抜けるように野球を辞めてしまっていたのだった。
 高校を卒業後、幼なじみの染井とバンドを組み、ボーカルとして今は芸能界を目指している。
 しかしまだ売れず餃子屋『ヒゲ』の店の前で染井とアカペラで夜な夜な練習していた。 
 ジャクソンファイブの『ダンシング・マシーン』やローリングストーンズの『悲しみのアンジー』なんかを結構なリズム感で歌っていた。
 そんなところへ、地金に強引にチームに引き入れられたのだった。
 三輪田は、中学二年の時に果たせなかった初陣の思いをぶつけるように、次の打者に向かって行った。ストレートを内角一杯に!
 その気迫に押されてか、相手打者は力なくセカンドゴロに倒れた。ウイニングボールが地金からナリへと渡りゲームセット。

 初戦勝利!
 地金は塁審がアウトを宣告するのが、とてつもなく遅く感じてイライラした。
 だが、ほかの面々は勝って雄叫びをあげるということはなかった。負けることは全然思ってはいなかったが、さりとて不思議に勝つということが面々には解らなかったのだ。
勝つということはどういうことなのか。チームが勝つということとは。だから、主審がゲームセットをコールした時も、みんな気が抜けたようにポカンとしていた。 
 無理もない。大部分が団体競技というものをやったことがない面々なのだ。守備位置につこうとまでする奴までいた。
 しばらくして、ホームベースを挟んで相手チームと向き合い、主審が8対7で『27時』の勝ちと告げて、やっと実感が湧いたらしく、お互いの身体、頭、腕、脚などを思いっきり叩き合い喜びを爆発させていた。  
 凡太のおかげで一睡もできなかったマー姐ぇや桃ちゃん、そして麻美も由美も応援席に残っていた新聞紙で作った紙吹雪を思いっきりグラウンドにぶちまけていた。
 そんな中、足の痛みに耐えながら、哲彌はひとり喜びを噛み締めていた。
 この初戦勝利の波に乗り、その年の成績は、何と誰にも予想できなかったことに、8勝3敗の好成績で三位になってしまったのだった。

 哲彌は、大学を出てすぐにラジオの広告枠を企業に売り込むことを主にした、小さな広告代理店に就職していた。仕事は、慣れない飛び込み営業で、受付には「押し売りと広告屋はお断り」と書かれた紙が貼られていたこともあったという。なんとか企業に取り入ったはいいが、なかなか契約には至らず、そのうち紙媒体の製作を希望していたのに、その部署を閉鎖すると言われ、半年余りで退社してしまったのだ。辞めた後で担当していた2社との契約が決まったと、後で知らされたというが。
 悪いことに辞めたその年の秋にオイルショックに見舞われ、新聞の求人欄が3分の1になってしまっていた。その後、ずっとプータロー生活を送ることになリ、沖仲仕、ホテルの社員食堂の調理補助、皿洗い、調査会社のアンケート収集、百科事典の訪問販売、赤ペン先生の添削、世界の木の実の店頭販売、新聞社の編集整理部、ビールの運搬助手、ドーナツチェーンやスーパーマーケットのコピーライターなど様々な仕事や、パチンコで稼いだりして糊口をしのいで来た。
 草野球とはいえ3位という成績は、哲彌にはそうした鬱屈とした時代の中で、一筋の光に包まれた気分だった。 
 表彰式の夜、哲彌は「奇跡の三位、一体の27時」の文字を筆で書き上げ、『ヒゲ』の店に貼り、みんなで夜遅くまで飲み明かしていた。〈つづく〉

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