見出し画像

【連載小説】俺たちの朝陽[第5章]無謀にも早朝野球リーグに参加

【無謀にも早朝野球リーグに参加】
 そんな面々が、新宿の浄水池跡の通称四号地で野球の練習を始めたのは、もう暮れに近い、ある日曜日だった。ばらばらの服装なのでとても合同練習とは思えない。コバと地金は寒さに震えながらもユニフォーム上下にアンダーシャツ、そしてストッキングやアンダーストッキングなど一式を着ていて、一応野球をする姿になっている。
 しかし、亀ちゃんはGパンに同じデニム素材のカストロ帽で悦にいっているし、哲彌は高校時代のユニフォームはすでになく上下ブルーのジャージ姿、信介は高校の時のトレパンを履き、洋助は仕事着の綿パンのままだ。
 それでも、15人全員が揃い、意気込みはどのチームにも負けないつもりでいた。準備体操を始める。とはいっても、全員で鼻歌を奏でながらのラジオ体操の第一だ。深呼吸で終わると、誰彼となく勢い良く走り出した。石がゴロゴロ転がっていて、とてもグラウンドとは呼べないような場所であったが、身体を動かすということをあまりしなかった面々にとっては、とても新鮮な感情が湧いてきたのだった。しかも仲間がいる。 
 コバがどこからか集めてきたヤマのすり減った軟式のボールを我先に掴み取り、相手に向かってもどかしそうに投げつけていた。自然と笑みがこぼれる。まともにキャッチボールができずとも、ちっともバットに当たらずとも、全員で野球と格闘していた。

 陽が落ちると、その形状が「天使の滑り台」だといわれるホテルがあるだけで他に高いビルはなく、日本一の繁華街を生き生きと照らす街灯りが見えていた。 
 練習が一段落したところで、洋助から発表があった。
「来年の春から始まる、新宿区の早朝軟式野球リーグに参加することにした」
 それは、新宿区が区民の懇親を促進する事を目的にした野球のリーグ戦だ。朝6時から8時まで数カ所のグラウンドを確保して行う画期的な試みだった。
 気が早いなあ。まだ、練習さえ始めたばかりなのにと、コバは思ったがそれがまた、『27時』らしいと思い直した。
「監督は、おまえだ」と、
 生卵持参の男、地金を洋助は指名した。『27時』には珍しいサラリーマンで、野球の数少ない経験者だった。野球に対して真面目だからという理由だったが、その頑固さは群を抜いており、いつもの論争の中心にいた。そんな地金を監督にして、チームがまとまるのか哲彌は少々不安だった。
 夜ごと地金は綾ベーと、一本のビールで延々と堂々巡りの議論を闘わせていた。最初は周りもけしかけるものの、最後には呆れてしまうのが毎夜の常だった。
 しかし、目標が決まり気持ちがよりいっそう高ぶってきた。そしていつものこと、気持ちが行き過ぎてしまうのが彼ららしいところだ。堂々とポジションや打順を自分で公言する輩が続出した。四番が4人、ピッチャー、それも我こそがエースだというのが5人現れた。半数以上がチームの大黒柱である。言うだけはタダである。

 年が明けてすぐにリーグの設立準備会議があった。
 オーナーの洋助が、監督の地金、副監督の綾ベーのふたりを連れて区役所へ申し込みに行くと、すでに会場は熱気で息苦しいほどだった。多彩な参加チームは、さながら新宿の縮図のようだ。パチンコ屋、トルコ風呂、キャバレー、佃煮屋、和菓子屋、ラーメン屋、葬儀屋などの従業員たちのチームや、ゴールデン街や歌舞伎町の飲み屋の常連で作るチームなど、多士済々のチームが揃っていた。いかにも野球好きな連中から、オーナーの趣味に付き合わされて参加をしたチームまで、事情は違うが区の初めての試みにみんなやる気満々だった。いままでグラウンド確保に苦労していたチームが多かったとみえ、平日の早朝6時に試合開始するリーグ戦にも拘らず、総勢12チームの規模になっていた。
 洋助は大ガード近くのパチンコ屋と通称ションベン横丁のラーメン屋の何人かは知っていたが、大ガードから向こうの連中は、ほとんど知らなかった。会長は商店街連合会の副会長が就任し、大会の主旨と運営方法を説明していたが、気の善さそうな顔が段々紅潮していくのが解った。三月の第四土曜日が開会式に決まり、各チームがその一ヶ月前までに登録メンバーを書いた参加申込書と参加費を添えて提出することになった。

 帰りの道すがら、パチンコ屋『MIYAKO』の店員のヨッちゃんに店に誘われので、洋助は他のふたりと打つことにした。
「ここは出ますから」と台を教えられ、打ってはみたが一向に入らない。出るはずと言われれば言われるほど入らない。まず、天クギからしてはじかれる。ヨッちゃんに変だなあと、首を捻られるほどに背中がこそばゆくなり、いたたまれなくなる。あっという間に持ち金がなくなり、3人とも外に出た。
「何か幸先が悪いなあ。ま、いいけどね」と、地金は珍しく弱気になっていた。今日集まってきた他のチームを思い出し、いかにも野球やってましたといった連中がいるチームと、我が『27時』を比べて少々不安になってきたのだった。
「なあに、人数だけは負けないからな」と、洋助。
 噂を聞きつけ、俺も参加させろと『ヒゲ』の常連客が押しかけ、20人を超える勢いになっていた。野球の先発メンバーは9人、区の野球のルールは7回まで、そして1時間半で打ち切りなので、丸々7回までやれたとしても5人を替えるのがやっとだろう。必ず6、7人はせっかく朝早起きして来ても出られないのだ。ましてや、勝ちたいとなれば、全員出場させるのは、なおのこと難しいことになる。多ければいいってものじゃない、監督は辛いぞ。 
 だが、メンバー集めに苦労しているチームからみれば、贅沢な悩みなのだ。そして、当然のことように洋助は、受け入れ続けた。
「やりたいってもの、断るのはおかしいだろ」
 この分では、チーム名は『27時』ではなく『27人』になってしまう。まあいいか、その時はその時だ。地金は考えるのをやめることにした。

 亀ちゃんは、なんとかバスケットボールの時の汚名を晴らしたいと、メガネがすっぽりと隠れるくらいの長髪を手で梳きながら考えていた。野球はやったことはないが、球技には違いない。
 バスケットボールの大会の前によく練習していた、リンクがひとつだけある小さな公園のブロック塀を前にして、ひとつだけ買ってきた真新しい軟式ボールを取り出して眺めていた。白い粉が手の平にまぶしく光る。このボールをビシッとグローブの中で掴んでみたい。そう思い、ほろよい加減の手から手へ放ってみた。右手から左手へ……。渡ったはずの、真っ白なそれは、左手をかすりもせずスルリと、ところどころ剥げ落ちてしまったコンクリートのコート面を転がっていった。
 あっ、俺の処女ボールが……。もったいないと、すぐにボールを追いかけたが、すでに土にまみれ夜露にも濡れていた。 
 こうやってすべては穢れていくんだ感傷的になり、行きつけの沖縄料理屋でしこたま呑んだ泡盛の酔いがぶり返して来て溜め息をついた。
 だが、取れなかったのは酔いのためばかりではない。亀ちゃんの頭の中では、ファーストベースを左足で踏み締めながら、ファーストミットをはめた左手で、ウイニングボールをしっかりと手にしていたのだった。しかし、ボールは縦に長い空想のファーストミットを抜け、手の平ひとつ分の上を通っていったのである。簡単に夢の中に入ることのできる人なのだ。

 洋助は、言い出しっぺの手前、なんとか大会の前までには格好をつけたいと、やったことのない野球と格闘していた。哲彌が高校時代に使っていたという竹のバットを貰い受け、店が終わってから深夜に路地の板塀を前に振っていた。根元にヒビが入ってはいるものの、一応は硬式用に作られた1キロに近い棒である。
 普通の人は振れない。しかしながら、洋助は毎日の粉練りと餃子の皮を型抜く力仕事のお陰で腕力だけは人並みはずれていた。哲彌が、そばで見ていてその振る音を耳にして恐ろしいと思ったほどだった。しかし悲しいかな素人だ。力任せで振るばかりで、まるでなっちゃいない。 
 見かねた地金が、コーチをかってでた。教え魔でもあるが、こちらも教えることは残念ながら素人だ。
「う~ん、そうじゃない、そうじゃない。バットが外から出ているんだよ、マスター」
「え、外からってどういうことさ」
「う~ん、なんて言ったらいいんだろ。右の脇が開いてしまって横殴り状態なんだよね」
「え、え、脇が開くって何さ」
「え~えと、具体的に言うとさ、右の二の腕でさ、右のおっぱいをすり潰すように上から絞り込んでさ、来たボールを叩き潰すように打つんですよ。その時、左手を……」
「そんな一遍に言われても解んないよ」
 人間の動作を口で言い表わすことは難しい。しかも、お互いの感覚、経験、理解度が違えばなおさらだ。教えている本人でさえ自分が行っている時は、精々ふたつぐらいしか意識できないのだから。いや、零コンマいくつかの間に誰だって解って振ってはいないだろう。
 いや、例外な人はいる。かの天才、長嶋茂雄である。
「ほらね、腰をグッと溜めて、来た球をバーンと打てばいいんだよ」
 誰もが長嶋にはなれないってことだ。

 そこで、地金は洋助を店の前にある板塀の30センチ位前に立たせた。
「マスター、この塀にぶつけずにバットを振ってみてください」
「え、そりゃ無理よ」
 洋助は、ぎこちなく腰を引きながら恐る恐るバットを振ってみる。
「思い切って、居合い抜きのように」と、居合い抜きをやったことのない地金が言う。
 洋助は、中学、高校と剣道を習っていた。豪快に胴を決めるのが好きだった。その要領を思い出して一気に振り抜いた。その時、洋助の身体を鈍い悪寒が突き刺した。壊れかけていたボロボロの板塀の、息抜きのように開いた通し窓の中へ竹のバットがめり込んでいったのだ。板塀は、その通し窓を中心に崩れ落ちポッカリと穴が開いていた。竹のバットは見事に真っふたつになったが、塀をも打ち抜いていたのだった。痛みを忘れて呆然としている洋助を、地金はただただ見つめるだけだった。〈つづく〉

#俺たちの朝陽 #連載小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?