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【連載小説】俺たちの朝陽[番外編2]スペイン良いとこ、一度はおいで

【とりあえず南へ】
 2年目が終わろうとすると、『27時』にも変化が。
 スペイン人が参加したいと言ってきたのだ。名はフランシスコ・ホセ・デ・アントニオ。スペイン人の名前は長い。皆は覚えられないのでホセと呼ぶ事にした。男ならホセかぺぺ、女ならマリアが定番らしい。ホセによると街中でホセとかぺぺと呼びかけると何人もが振り向くという。ま、それで済むならそれでいいかもしれない。日本ほど苗字や名前が多様な国民はいないという。皆がマリアなら万が一、恋人の名前を間違えてもバレないので便利だ、と女好きのオダチンは思った。
 スペインといえば、サッカーか闘牛しか思い浮かばない哲彌たちだ。勿論、スペイン語など誰ひとり話せる者はいない。しかし、ホセは片言ながら日本語が話せるという。だが、困ったことに野球というものを知らないし、解らない。徐々に覚えさせるしかないと洋助は考えた。こんな吹き溜まりのような場所に来るようなのだから、面白い奴に違いないし、ありがたくも思えた。

 哲彌は、ホセを見て3年前に辿り着いたヨーロッパへの旅を思い出していた。
 パリには1週間ほど川瀬のアパートにいたが、もう少し南へ行こうと思い立ち、アウストリッツ駅へと向かった。その駅は、パリの中でも最も寂れた駅のひとつのようで、これからを暗示しているようだと、哲彌は気を引き締めるのだった。
 スペインに向かう列車のコンパートメントの中は、向かい合った両側に4人ずつの8人掛けでポルトガル人一家と一緒になった。彼らは携帯用の鍋からソースに絡めた牛肉を取り出しパンに挟み、ワインをがぶ飲みしている。そして、人懐っこく話しかけてくるが哲彌の語学力では到底おぼつかない。
 その他にも、1組の男女がまた喧しい。声高に夜明け過ぎまで絶え間なく喋り続け、哲彌はほとんど眠れなかった。夜中にフランスとスペインとの国境で、車輪の交換作業が行われた。線路の幅が広軌と狭軌の違いがあるためだ。これもピレネーを超えるとアフリカだと言われる一因かもしれない。
 翌日の午後、ようやくマドリッドに着き、北駅から小一時間ほどの公園を散策した後、ユースホステルに着いた。驚いたことに日本人が巣食っていて、外人(いや、ここでは哲彌たち日本人が外人なのだが)が小さくなっている。哲彌は、そいう状況は苦手で退散しようとしたが、重い荷物とこれからの宿探しを考えて一泊する事にした。
 しかしベッドは汚く、シャワーもなく、トイレは戸が閉まらない。入口前付近には番長室なるものがあり、そこにゴロゴロしている日本人の連中とは、話す気がしなかった。日本に帰れずたむろしているのだろう。荷物が心配になり、古道具屋で買ったアンティークの角張った革製トランクケースの取手と片足首を紐でくくり、誰かが手にかけたらわかるようにして眠った。

 翌日、早々にユースホステルを出てアトーチャ駅に向かい、そこで荷物を預けてからトレド通りを抜け、マヨール広場に出かけた。ユースホステルで知り合った大阪の大学生の男は番長グループとは合わないといっていたので付き合ってみた。彼とカフェテリアでビールを飲んでいる時に、日本的な感覚について話し始めたが、どこかピント外れで1970年当時の日本にいなかったように感じたため、話が合わずやり過ごした。
 夜半過ぎに、あてはないがバレンシアに向かう列車に飛び乗った。例によって8人掛けの車内は、陽気なスペインの若者たちが4、5人ラジオをかけながら、夜通し手拍子とともにフラメンコを踊り、歌う。そして哲彌はまたも不眠状態になった。
 バレンシアに到着したが、寒い。マドリッドは内陸なので寒いのはわかるが、地中海に面しているのに、海風に当たると震えるぐらいだ。ホテルは3軒断られ、やっとペンションに辿り着いたが、5分間制限有りの共同シャワー付きで、250Ptas(ペセタ=当時日本円で1300円位)もした。貧乏旅行者には、手痛い出費だった。
 因みに、哲彌がスペイン滞在していた1972年12月に1ドル360円から308円になっていた。世界の変容を異国の地で身をもって知ることになった。貧乏旅行者の身には、少しだけ持ち金に余裕ができたということだが、宿泊代と食事の値段には敏感になった。
 後で気づいたのだが、そのペンションでは一泊三食付きだったのだ。確かめない哲彌は、乏しい語学力を後悔した。
 朝はクロワッサンとミルクコーヒー、昼は豚肉のステーキ、サラダ、スープ、とパン。そして、夜はパエリアを初めて味わった。オリーブ油で炒めたサフラン入りの米に、インゲン豆、鶏肉、ムール貝、エビなどを加え、一緒に炊きあげたバレンシア発祥の鍋料理で、こちらではパエージャとの発音していた。それを宿泊客に皿に取り分けてくれる。
 パエリア(paella)の語尾(lla)をリアではなくジャと発音していた。画家で有名なゴヤ(Goya)を冠したタバコがあったが、これも彼らはゴジャと言っていた。ヤ(ya)をジャと発音していて、初めはゴジャというので、ゴヤの名を冠したタバコとは知らなかった。それも箱売りではなく、一本ずつのバラ売りで売っていて、日本のゴールデンバットの様な香りだった。
 三食付き、これなら宿賃は格段に安い。哲彌は、着いた日の夕食を知らずに、外で買ったパン2個とビールで過ごしたことが返す返すも悔しかった。2日目に元を取ろうとパエージャをお代わりした。女主人は、気に入ってくれたかと喜んでいた。   
 外人をジロジロと見るのは世界共通、日本でも外国でも変わらない。ここでも日本人が来ることはあまり無いのかもしれない。一度なんぞは、指をさして笑われた。そこまであからさまな経験は初めてだった。差別問題は容易には解決しないだろうと哲彌は思った。

 海辺を散策していると、日本人女性に出会った。彼女は南から北上して来たという。南のマラガという港町に、日本人の画家がいると教えてくれた。フラメンコで有名なマラゲーニャのマラガである。早速、行くことにした。
 バレンシアから南下して、古都コルドバに着いたので降りてみた。フランコ独裁体制下で熱狂的な支持を集めた、闘牛士エル・コルドベス(コルドバの男という意味)の生誕地なのだ。佐伯泰英著『1969年 闘牛士エル・コルドベスの叛乱』が有名だ。
 コルドバは小ぢんまりとした趣のある旧都で、白壁の塀沿いに狭い道を伝って歩くと、また元の場所に戻ってきてしまう迷路のように造られている。襲来して来た敵を欺こうとしたのだろう。食べ物屋などはあまりないが、銀行とコダックの看板が目につくところを見ると、現在は観光業が主な 産業なのだと思われた。
 一泊した後、田園風景が続くスペイン国有鉄道・レンフェ(Renfe)に揺られながら、マラガに着いた。シベリア鉄道からポーランド、チェコスロバキア、オーストリア、スイス、フランスを経てようやくスペインの南部マラガに着いた。長かったような、あっという間のような、結構緊張の連続の旅だった。
 マラガ駅の周囲には何もないが、かといっていわゆる田舎の駅舎ではなく、少し威厳さえ感じられる趣がある。そこから街の中心までは少し歩かなければならない。
 日本人の画家がいるというペンション・スイサ(スイス人の意味)を探すが、なかなか見つからない。仕方なく、取り敢えず違うペンションに宿を取った。 
 そこは、海辺に近いせいかシャワーヘッドの穴が塩で詰まって水が出ない。細いヘアピンのような物を借りて、やっと開通したが、お湯にはならない。寒さが身に沁みる。

 あくる朝、街中をブラついていると市場が目に入り、そのすぐそばにペンション・スイサ(Pension SWIZA)の看板があるのを見つけ、哲彌は即座に引っ越しを決めた。名刺をもらうと住所の他に、Aqua caliente(熱いお湯の意味)とキャッチフレーズが印刷されている。熱いお湯が出るぞ、というアピールなのだ。そいつはありがたい。 
 この街は結構大きいのだが、このペンションは有名らしく、以前、宿泊していた日本人旅行者が、ここに手紙を送った時のこと。名刺を見て書いたのだろう。番地を書かずに、
「Spain malaga Aqua caliente(スペイン マラガ 熱いお湯)」で、届いたという笑い話を聞いたが、それほどマラガでは知られたペンションなのだ。
 ただ、哲彌たちがいた5階に水が来ないことがあって、その都度、下で門番をしているぺぺやマリアに、 
「Aqua Por favor(水をお願い)」と上から大声で頼まなくてはならなかった。
女主人のサルー婆さんの名前、サルーは健康の意味だという。乾杯の時には、サルー(salud)と言い合うが、あなたの健康を祈ってくらいの意味だという。サルー婆さんは、お年を召していたが、たいそう元気で、元大学教授のぺぺと暮らしていた。
 日本人画家は、蔦野さんといい、かの天才パブロ・ピカソの生誕地であるマラガを拠点として絵を描き続けて十数年活動しているという。
 彼は、宿代を稼ぐためにフランスの南部にブドウ狩りのアルバイトに出かけているという。その勤勉さに農場主から重宝がられて毎年行っているという。
 勿論、サルー婆さんもお気に入りだ。 
 その蔦野さんには、驚かされた事がある。マラガ湾の入江でダボハゼを釣ってきて、それを十徳ナイフで、なんと三枚におろして焼いておかずにしていたことだ。小さなダボハゼを、歯の短い、しかも切れ味がお世辞にも良いとは思えない十徳ナイフでだ。生命力の逞しさにほとんど感銘を受けた。

 このペンションには、スペインで一番有名な日本人フラメンコ・ダンサーの小島章司さんも泊まっていたという。さらにヨットで世界一周をしている「ひねもす二世号」の國重さんたちも立ち寄っていたとのことだった。
 後に哲彌がカナリア諸島を船で訪れた時、テネリフェ島のラスパラマスで小島章司さんのフラメンコを間近で堪能したり、停泊していた「ひねもす二世号」を訪れた時には、彼らがもう要らなくなったアラジン社製の石油ストーブを貰い、スイサに持ち帰ったりしていたこともあった。
 このカナリア諸島は、主に北欧などの人々の避寒地になっており、哲彌が飛び込みでホテルをあたったところ、どこも貧乏旅の哲彌に与える部屋など無いといった具合で、なんと20件ほど断られた。やっと安宿のペンションの、それも窓もない狭い使用人部屋に泊まることができた。宿探しにはいつも苦労していた。
 スイサの部屋は5つの小部屋に分かれているが、団体客用にはドアを開け放つと、一つの大きな部屋になるような造りにもなっていた。哲彌はモロッコからの一族が来た時には、自分の部屋を追い出され、台所の奥にある物置部屋に追いやられたこともあった。泊まりに来たのは陽気なジプシーの一団だった。毎年のように来るという。スイサにとってのお得意様なのだ。 
 哲彌は、港のそばにあるスイサがとても気に入り長居を決め込むと、情報がどこからともなく集まるらしく日本人が色々と来るようになった。スペイン語を勉強にしに来た夫婦、食文化を追究しに来た料理好きの男、蔦野さんとは違った画風の若い画家、退職した大手印刷会社の営業マンなど様々な人たちだ。
 また、蔦野さんの知り合いで中本誠詞という彫刻家の流政之を仰ぎ見る抽象画家や、その友人で国際会議通訳のフランス人のミシェル・ブルジョさんらと、マラガから電車で1時間ほどのところにあるアロラという素朴な田舎町に遊びに行ったりもしていた。
 大体二日酔いなので朝食は抜きで、昼は近くの、みんなで一流食堂と呼んでいた大衆食堂に行くと、我々と見るやいなや、注文をしないのにケチャップ入りのチャーハンと目玉焼きが出てくる。チャーハンが出て来るところは、中国人だと思われたかもしれない。
 哲彌は以前、
「お前は日本人か、俺は去年日本に行ったけど、上海は良かった」と、言われた事があった。日本も中国も彼の頭では一緒なのだろう。哲彌だって、この間通ってきたポーランドとチェコスロバキア、どちらから先にソ連から入国したかもわからなくなっているのだから、おあいこなのだ。
 その目玉焼きというのがスープ用の深皿に大量の油の中に卵が浮かんでいるというシロモノ。最初はびっくりしたが、まあ、味はそこそこの上、安いのでほとんど毎日通っていた。

 スペインの夕食は、大体夜の8~9時から始まり、夜更けまでが普通だ。そのため、昼食からの夕食までの時間が長いので、夕方のおやつとしてチュロスという揚げパンを売る店があちこちに立つのだ。
 小麦粉に水と砂糖・塩を混ぜた生地を細長い棒状にし、油の入った大鍋の中に、円を描くように放り込み、揚がったものをハサミで切ってくれる。 
 それとミルクコーヒー(Café con leche=カフェ コン レチェ)。conは英語でいうならwith、lecheはミルクで、ミルク入りコーヒーとなるが、ここの人たちはよくこれを飲む。通になるとミタ(mitad=英語でいうならhalf)といっているので、何かと問えば、コーヒーとミルクが半々、ハーフ&ハーフのことだという。それを覚えてからは哲彌たちも、いっぱしにミタというとすぐに持って来てくれる。ミルクが新鮮で美味しい。 
 夜はみんなで近くの大きな倉庫のようなバールから、1リットル12Ptas(60円=1Ptasは日本円で5円)の白ワイン(vino blanco)を、5リットル(300円分)入るプラスティック容器に入れて持ち帰り、哲彌はペンションの住人たちと宴会三昧。
 たまに日本酒が呑みたくなり、近くの中華料理屋で値段を見ると、『白鷹』だったか『白鶴』だったか、1合50Ptas(日本円で250円)もしたので躊躇したが、1本だけ呑んでしまい、ちょっと後悔した。
 中華料理屋は、世界中どこにいってもあるらしいが、哲彌が行った先々では日本の料理屋は、ほとんど見かけなかった。 日本の味が恋しいとはあまり思わなかったが、カナリア諸島のラスパラマスの漁港で、日本のマグロ漁船のスピーカから都はるみの『アンコ椿は恋の花』が大音量で流れてきていた時は、ちょっと刺身が食べたくなった。
 哲彌は横浜を出航してから、シベリア鉄道を経てオーストリア、フランスを回り、たどり着いたスペインはマラガの地で、存分にその生活を謳歌していた。〈番外編了〉〈本編につづく〉

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