見出し画像

【連載小説】俺たちの朝陽[番外編1]哲彌、シベリア鉄道で日本脱出

【見渡す限りどこまでも続く草原】
 哲彌は学生時代、この国を巻き込んだ壮絶な事件に嫌気が差し、大学での単位をひとつ落として留年し、幼い頃から行ってみたいと思っていたヨーロッパに行こうと決めたのだった。その頃に読んだ小田実の『なんでも見てやろう』に影響されたこともあったらしい。なぜヨーロッパかと言われても判然とはしないが、なんとなく西への憧れだったかもしれない。
 しかしここで問題がひとつ。哲彌は極度の飛行機嫌いだったのだ。昔は横浜からフランスのマルセイユまでの航路があったのだが、彼が中学生の頃にその航路がなくなってしまったのだ。その航路は、ある作家が記した小説の中に出てくるのだが、マルセイユから希望峰を通りインド洋、南シナ海を廻り横浜港に辿り着くという、少年には何ともロマン溢れるものだったのだ。飛行機は乗りたくないし、ヨーロッパには行きたいし。

 そうだ、南回りが駄目なら北回りがあるじゃないか。シベリア鉄道があるじゃないか。 哲彌は、その旅費を貯めるため荷物の配送センターでアルバイトをし始めた。
 そうした資金と祖父が哲彌にかけていてくれた生命保険を解約した金額を合わせて、なんとか行きの旅費と滞在費を調達し、日ソ旅行社へと駆け込んだ。
 その生命保険は、哲彌が生まれた時に、祖父がかけてくれたもので、満期の30歳になってやっと30万円支払われるという酷い契約のものだった。解約して手に入れたのは20万円ほど。満期に支払われる金額は、戦後間もない時代に家一軒が建つといわれたものだったのだ。物価変動相場制などない時代だったが、それ以降、哲彌は保険に限らず、契約というものは、よく考えなければと思うようになった。
 当時外貨の持ち出し制限が500ドル(1ドルが360円の時代)。旅費を前払いした後に残った、日本円にして18万円を手に、それが尽きてしまうまで、帰らないつもりだった。
 そのシベリア鉄道へのルートはこうだ。横浜港から青函海峡を横切りナホトカまで1泊2日の船旅の後、そこからハバロフスクまで列車で行き、ハバロフスクで列車を乗り換えてモスクワまでいく6泊7日の旅程だ。ナホトカまでの船内では、夜には日本公演を終えたハンガリーのオーケストラの一団が生演奏を聴かせてくれたりして楽しんでいた。船内の食堂で、初めて本場物のキャビアなるものを食べたが、哲彌には猫に小判というか、イクラの方が美味と思ったという。世界の三大珍味も形無しである。 

 旅は、大学に入学した夏に、自転車でフラリと放浪の旅に出たくなり、東京から静岡、名古屋、京都、舞鶴、鳥取、島根、下関、広島、岡山、大阪、金沢、新潟、群馬を廻り、20歳の誕生日に帰ってきた以来になる。
 その道中は、小さなひとり用テントで野宿したり、親戚の家やお寺の本堂に泊めてもらったり、小学校の保健室のベッドで寝かせてもらったり、民宿やユースホステルに泊まったり、従兄弟がグラウンドホッケーの合宿をしている宿に潜り込んだりしての旅だった。 
 なので、日本を飛び出しても何とかなるだろうと、軽く考えていたらしい。実際は、ヨーロッパまでの情報はほとんど持ち合わせてなく、ちょっと無謀な旅だった。

 シベリア鉄道の列車の中は、日本人は15人が一緒に一両にまとめられていた。そのハードクラスのコンパートメントには二段ベットがふたつで4人同室に。共産主義体制の国なので、1等、2等というような階級差をなくそうとしたらしく、ハードクラスとソフトクラスという分け方になっていた。しかし、ソフトクラスはふたり部屋で、小さな洗面台には、2、3分くらいしか出ないが、シャワーがついていた。なんのことはない名称を変えただけだ。どこにでも格差をつけるのが人間なのだ。たぶん料金はひとり分2倍以上の差があったという。
 哲彌は一度、頭を洗うためにソフトクラスに入っているインド系のイギリス人女性ふたりにシャワーを使わせてもらった時に、ちょうど駅に停車した。そこでアイスクリームを買いに行こうとして髪を拭かず、慌てて外に出てみると、洗い髪が一瞬で凍ってしまい、ライオンのたてがみのようになっていた。なにせマイナス30℃の氷点下の土地だ。勿論アイスクリームはアイスボックスに入れてあるのではなく、直に並べてあった。その冷たくも美味しかったことが忘れられないという。
 シベリア鉄道での、外の景色は、ほぼ見渡す限りどこまでも続く草原で、嗚呼、その向こうはモンゴルか、またその向こうは、満州か、またその向こうは母親が終戦当時までいた北鮮(当時は朝鮮半島を南鮮、北鮮とに分けて呼んでいた)か、などと思いを馳せるばかりだった。

 19歳だった母親は終戦前年に、つわりの酷かった姉を助けるために北鮮に渡っていた。
1945年8月、終戦を知ったソ連軍が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻して来たため、満州との国境近くの北鮮のにいた母親は、ソ連兵から逃げるため、姉とその生まれたばかりの男の子を連れて、道なき道を他の日本人家族らとともに、あてどない行軍を続けたという。途中何人もの人が行き倒れた。あまりに多くの人の死に行く様を見たため、完全に感覚が麻痺して、死というものに対する感情を失ったという。
 なんとか奇跡的に生き延び、3人での麓の白岩区の国民学校に落ち着いた時、ラジオのニュースで日本の敗戦を知ったという。
 それからは戦前浅草で奉公していたという北鮮の洋服店の店主に匿われるようにして姉妹で住み込みとして働き続けていたという。そして最後には、いわゆる闇船、密航船で北鮮のの港から小さなスケソウダラの漁船の船底に押し込まれながら南鮮のに行き、そこから日本に帰国するという大変な経験をしていた(註)。
 

 シベリア鉄道では、一定地点を過ぎるごとに時差が生じ、そこを過ぎるたびに時計を直さなければならなかった。ソ連は、広い。ドイツが戦争を仕掛けて領土を我が物にしようとしても、そりゃ無理だ。日本が中国に仕掛けたとしても同じこと。 
 食事はというと、駅に停まるたび食料が詰め込まれるのだが、バリエーションがなく、毎日毎食同じメニュー。恐ろしく固い牛肉にスープ、ポテト、そして黒パン。
 そんな食事ばかりなので、哲彌以外の日本人のほとんどが食欲を無くしたため、余ってしまったバウチャー(食券)を、哲彌が集めてビールやウオッカの代え、コンパートメントの中で日本人以外の人々たちとも車内で居酒屋状態を楽しんでいたりした。
 朝は、車掌の副業らしく、
「チャイはどう?」と、紅茶を売りにくる。
 世界中でチャイとかチャといえば、紅茶かコーヒーか緑茶、または烏龍茶で通じるらしい。茶葉が同じだからだろう。
 二日酔いでの目覚めのチャイは格別だった。 

 モスクワからウイーンまでは旅行社によって決められていたが、その先は、行き当たりばったりの旅だった。
『男はつらいよ』で、寅次郎が「旅っていうものはさ、行き先を決めていくもんじゃねぇんだ」という台詞があったのを後で知ったが、まさにそんなような、なんとも危なっかしいものだった。
 モスクワ駅に夜遅く着くと、待っていたのは黒塗りの、初めて目にする長い車体の豪華なリムジンカーだった。なんとも落ち着かない。
 しかし、それは旅行者向けの見栄のようなのだ。そのことが分かったのは。着いたホテルが、天井高くダダっ広い居室に、等身大を遥かに上まわる鏡が何枚も部屋に張られている絢爛さにも拘らず、旅費についているはずの夕食がないというのだ。ロシアの何かの記念日で食材を使い尽くしてしまったためという。レーニン生誕百年祭ということだったが、後で調べてみるとレーニンの生誕日が違う。ソビエト社会主義共和国連邦成立50周年だということ、いわゆるロシア革命記念日だった。
 それにしても食い物がないとは。そのことは、次の日にまた思い知らされる。ウイーンまでの列車には食堂車がないということなので、食料を買いに行ったところ、大型の食料店らしきところの棚に食料がない!
 辛うじて硬くメロンパンのような形をした、大ぶりなパン一つにありつけた。あと、ビールより高い水だけで車内2泊しなければならなかった。もうすでにソビエトは崩壊していたのだ。

 ほとんどの日本人は北欧方面に行き、哲彌はひとりウイーンへ向かっていた時のこと。ソビエトからポーランドへ渡る時、怖い思いをした。乗っていたコンパートメント(二段ベッドのある個室)には哲彌だけ。そしてそのコンパートメントがある1両にも誰も乗っていず、ひとりぼっちの車内で寂しい思いをしていたところ、2人の警察官が自動小銃!を向けながら入ってきたのだ。そしてやおらベッドの下やら、洗面台の中やら探し始めた。 
 旅立つ前に旅行社から、ソビエトでは外貨持ち出しは厳禁と言われていたのを思い出し、慌ててポケットにある、パンを買った時の釣り銭として受け取った小銭のコペイカを握りしめた。こんな小銭で自動小銃でやられてはたまらない。
 その一両には、哲彌の他に誰も居ないので、何をされても誰にも知られないという事になる思うと、身体に緊張が走った。密輸品でも持っていると疑われたのかもしれない。日本にいるとなかなか実感できないが、陸続きでひしめき合っている国々の間には国境があり、国境警備隊というものが厳然にいるのだ。
 初めて自動小銃というものを見たが、幸いにもそれ以上のことは何もなく、彼らは過ぎ去っていった。
 国境駅から乗り込んできたロシア人家族たちで、コンパートメントの中は、ギュウギュウ詰めになった。彼らは、食料を大量に持ち込んでいて、黒パンは勿論、牛肉の煮込み、ポテト、スープなどコッヘルのような容器に詰め込んでいた。恨めしそうに見ていたと思われたのか、牛肉の煮込みを少し分けてくれた。哲彌は恐縮したが、人懐っこい笑顔で勧めてくれた。空腹だったので有り難かった。 
 ポーランドからチェコスロバキアに入る時、真夜中にパスポートのチェックで起こされたりもしたが、ようやくオーストリアはウイーンに着き、哲彌は旅立つ前に加入していたユースホステルを探しあて一息ついた。そこは、貧乏旅行者で満杯だった。 

 一泊した後、さて、次はどちらに行こうか。
 とりあえず、友人のいるパリを目指そうとユースホステルで出されたコンチネンタルブレックファースト(ヨーロッパ大陸式朝食、紅茶にロールパンにバター&ジャム)を口に放り込み、駅に向かった。パリまではスイスを経由し、約1日がかりなので、リンゴ、チーズ、ソーセージ、ワインを買い込んだ。
 途中の駅で、来た方向と反対に列車が向かっているので、また、ウイーンに戻るのかと思い、隣の乗客にパリに向かっているのかと、慌てて尋ねると安心しろとばかりに、慌てて立ち上がっていた哲彌に笑いかけた。後で知ったけれど、険しい斜面を登り降りするために反対方向にジグザグに進むスイッチバック式だったのだ。
 ヨーロッパの時刻表を持っていこうとしたが、紀伊國屋書店をはじめ、東京の本屋にはなかったのでスイッチバックの事は解らなかった。パリに来てやっとイギリスの世界最古の旅行代理店トーマス・クック社の時刻表を買うことができたのだった。まだその頃は、ヨーロッパを鉄道で旅する日本人は、少なかったのだろう。
 モスクワからウイーン、そして約23時間かけて辿り着いた早朝のパリは、モンパルナスの駅に着いた。全く知らない街でのホテル探しは苦労の連続だった。哲彌は、なにせフランス語が解らない、話せない。ようやく身振り手振りで朝食付きの小さなホテルに泊まることができた。
 夜の夕食用の食料を買いに行った時のこと。パリの街は夜が早く、店がやっていないのだ。ようやくパンとワインを買うことができたが、赤ワインをと、店の女主人に注文すると「vin rouge」(赤ウイン)の発音を4、5回言わされたのだ。直されるたび、これは親切心から言っているとは到底思えないほど、段々と口調がキツくなっていった。
 また、駅で拙いながらも英語でキップを求めたが、聞こえないフリをされたりと印象は最悪だったが、語学力のなさを痛感、これからの旅路は前途多難を思わせた。

 翌日、哲彌は友人の川瀬のアパートを訪ねる事にした。地図を見ると凱旋門近くモンソー公園あたりと見当をつけて行った。呼び鈴を押すと返答があって彼が降りてきてくれた。長い螺旋階段を登り、着いた先は、趣のある小ぢんまりとした屋根裏部屋だった。いかにも川瀬らしいと哲彌は思った。
 彼からの注意が1つ。それは、夜中にトイレの水を流さない事。屋上から水洗の水が音を立てて下に落ちて行き、その轟音で階下からクレームが来るからだとか。何処でも近隣トラブルはあるのだ。
 哲彌は川瀬の好意に甘えて1週間ほど居候させてもらう事になった。持つべきものは、友だと実感した。
 あくる朝、フランス風アンドーナッツとバゲットとコーヒーの大陸式朝食をご馳走になっていると、ラジオからNina Simoneの♪Here Comes the Sun♪が聴こえてきた。パリの屋根裏部屋から流れてくる、BeatlesはGeorge Harrisonの名曲を聴くという、その感動は忘れられないと哲彌は思った。
 川瀬がソルボンヌ大学に通うというので、哲彌は秋の終わりの、落ち葉舞うモンソー公園を散歩する事にしたが、人影もまばらで焼き芋売りが暇そうにしていた。 
 パリの市内は犬の糞だらけでお世辞にも花の都とは言えず、また公衆電話はほとんどが壊れていたし、駅のトイレはトルコ式とやらで平面のところに便器が埋まってあり、日本式のようにしゃがんで用を足すのだが、用を足した後、水が猛烈な勢いで後ろから足元を通り越して流れてくる。驚いたが、郷に入りては郷に従えだ、素早く水を避けることを覚えた。
 しかし、モンソー公園は、その広さと静寂な佇まいは、パリの公園にふさわしく、さすがという印象だった。
 その日の夜は、哲彌は川瀬の案内でソルボンヌ大学の大学食堂に出かけたが、4~5種類の惣菜と、バゲット、デザートを一緒にプレートに取るという初めて経験するセルフサービス方式で、少し面食らった。

 翌日は、ナホトカ航路の船中で知り合ったふたりの女性と待ち合わせ、また、大学食堂で昼食を摂り、彼女らのホテルでの嫌な経験話を聞き、そのホテルからの引っ越しを手伝った。何事も生活習慣が違うと揉め事が多くなる。その後、ビュッフェでハンバーグとビールの夕食を摂った。旅の思い出は、哲彌でなくても食べ物が中心になる。
 次の日の夕食は、パリでも有名なフランス料理店に川瀬に連れて行ってもらった哲彌は、日本の格式ばったフランス料理屋とは違い、店先には新鮮な魚介や野菜が並び、販売もしていて何か庶民的な雰囲気でもあったのには少し驚いた。
 しかもふたりともモンパルナスの駅にある20分間だけ出るシャワーを浴び、その洗面道具をクロークに預けてから入店したのだった。勿論、ジャケット着用などの正装を要求されるドレスコードなるものは無かったのだ。
 学生時代に銀座のソニービルで川瀬たち数人と札幌から空輸されたトウモロコシを販売するアルバイトをしていた時、その地下にあった『マキシム・ド・パリ』に、いつか正装が似合う歳になったら行こうと、川瀬が哲彌に言っていたのを思い出した。正装ではなく普段着のふたりが、パリで有名フランス料理店の椅子に座っているということに感慨深いものを感じていた。〈つづく〉

註)この間の事情は、昭和二十一年、北鮮からの脱出行『生還』谷内田洋子著(国立国会図書館蔵)に詳しい。http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000008144365.php

#俺たちの朝陽 #連載小説


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?