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【連載小説】俺たちの朝陽[第8章]シロート野球の初戦が始まる

【お知らせ】再開しました。

【サインはF フリーだ!】

 開会式のあったその晩、ほぼ全員が『ヒゲ』に集まっていた。明日の輝ける初戦をいかに戦うかと各々が思いを廻らせていた。
 監督の地金は、アメリカのメジャーリーグのドジャースばりのブロックサインを考案していた。巨人で一時代を築き上げた監督の川上哲治と参謀の牧野茂が、その戦法の下敷きにしたというドジャース。地金は、そのチームを『ダジャース』と、通ぶって発音するくらいのめり込んでいた。それでも全員の理解力を考慮して、
「右手で帽子、胸のマーク、ベルトの順に触り、最後に手を2回叩いたらバント、3回叩いたら取り消し。左手で帽子、胸のマーク、ベルトの順に触り、最後に手を2回叩いたらヒットエンドラン、3回叩いたら取り消し。右手で胸のマーク、ベルト、帽子の順に触り、最後に手を2回叩いたら盗塁、3回叩いたら取り消し。簡単だろ」
地金は、このレベルなら理解されるだろうと思っていた。すると全員が、
「そんなもの、ややこしくて解るはずがないだろ」と、猛反対。
「単純に帽子は盗塁、胸はエンドラン、ベルトはバントでいいよ」と、綾べー。
「そんなあ、相手にすぐバレるじゃないか」
「バレたっていいじゃないか、わざと間違えたりすれば敵さんだって混乱するしさ」と、綾べー。
 それじゃサインじゃない、もう滅茶苦茶だ。
「それに、ヒットエンドランなんて、やったことないだろ」
「走ってから、打つから本当はランエンドヒットなんだよね」と、哲彌がまぜっ返す。
「それはそうだな、打ってから走るんじゃ当たり前だもんな」とは、知ったかぶりの信介。
「それにさ、俺、バントなんてやらねえよ」と、バントは難しくてできないとは言えない信介。確かに練習ではほとんど失敗していた信介を知っている地金は、お前にはやらせまいと心に誓っていたが。
「チームプレーこそ野球の醍醐味だろ。サインプレー決まると面白いぜ。それに、練習はあまりやっていないけど、実戦こそ最良の練習さ」と、地金も少々ヤケ気味だ。
「面白いのは監督だけでさ、俺は命令されるのはごめんだね。とにかく草野球なんだからもっと楽しく行こうぜ」と、哲彌。
 結局、綾べー案の安易なものに決まった。自分のことで目一杯の面々はサインなどは二の次、三の次だった。こうして地金の『ダジャース戦法』は、あえなく撃沈した。
「それより、監督さんよ、もう先発メンバーを発表してくれよ」
何人かが待ちきれず声を挙げた。
「それは、明日のお楽しみ」
「そりゃないだろ、こっちだって心の準備ってもんがあるだろ」
「オーダーは、監督の一番の悩むところでもあるし、また愉しみなんだから」と、こればかりは譲れないと地金。
「能一、相手はどういうチームなんだ」と、洋助。
「えへ、投手は、えーと右投げ右打ちで」と、まるで選手名鑑を読むような答だ。
 地金は、スコアラーの能一を偵察に送っていたのだが、人選を間違えていたのは明らかだった。相手投手が右か左かぐらい解る程度の能一に、どんな変化球を持っているかまで、求める方が無理というものである。
 相手チームのことは、ほとんど解らないまま闘うことになったが、もとより、そんなことに頓着する面々ではない。今夜こそは早く寝て明日に備えるという気持ちもなく、延々といつ終わるともない怪しい野球談義を続けるのだった。
 初戦の朝は、雲ひとつない空に月明かりが清々しく、吐く息だけが真っ白に際だっていた。まだ真っ暗だが、前日と同じ4時半に全員が集合していた。
寒い。
 が、誰ひとりウインドブレイカーなんぞ気のきいたものを着ている者はいなかった。ただ匂い立つような熱気が、揃いのユニフォームを着た彼らを包んでいた。 
 洋助は買っておいた試合用の二ューボールを2つ、道具係のコバに渡した。ようやく揃えた2本の金属バット、二ューボールの他に古くなってヤマが磨り減った練習用ボール8個を、コバは綾ベーの作った布袋に丁寧に納めた。2本のバットと10個のボール。それが『27時』チームの共有の全財産だった。

出発――。
 区が主催する早朝野球の記念すべき開幕試合に『27時』が抽選によって選ばれたのだ。
 昨日歩いた道を行く姿は意気揚々としてはいたが、緊張と少々の心細さも連れて進んでいった。試合開始1時間前に到着。相手チームはもちろん、大会役員も来ていなかった。 
 待っているのももどかしく全員でラジオ体操を始めた。各自バラバラの第一体操らしきものが終わった時に、やっと役員が球場の鍵を持って現れた。
 開けられるや否や一斉になだれ込み、ボールを奪うようにしてキャッチボールを始める。ボールは8個、選手は22人。6人は余る計算だが、3人で投げ合う者、4人で廻す者、彼らは誰ひとり文句を言わない。ボールに触れあうのが楽しくてたまらないのだ。    
 相手との距離は、遠くにはならない。精々塁間の三分の二程度の位置で何度も繰り返す。遅れてき来た相手チームがどんどん距離を長めにとって行き遠投を始めても、なお頑なに、その間隔を守っていた。まず、相手の胸をめがけて正確に。
「基本を超えてファインプレイはできない」との地金の言葉に、珍しくへそ曲がりの面々が頷いたのだった。あまりの下手さ加減にようやくみんなが気がついたのかもしれなかった。遠くへ投げるのはその後だ。
 その球場は、汚水処理場の上に作られており、観客席はなくボールが飛び出して近隣の住人から文句の出ないように、刑務所の塀のごとく高い網目のフェンスが張り巡らされていた。そして外野に芝生ではなく、雑草が生い茂っているだけだった。
 それでも試合開始前に審判が石灰で引いた真っ白なラインと、これまた一度も踏まれたことのない、純白のベースが4個置かれたグラウンドは朝陽を浴びながら、たとえようもなく美しく輝いていた。グラウンドには前の日に入ってはいたものの、ラインは引いてなく、ベースも置かれていなかったのだ。新しく塗り直されたダッグアウトからの眺めもまた素晴らしかった。
「おお、後楽園みたいだな」と、あの信介が思わず叫んだほどだった。 
「トスバッティングを始めよう」
 地金の声で我に戻り、まず哲彌が打つことにした。相手が様子を窺っているので、なめられてはいかんと思ったが、哲彌も緊張のためかコバの投げた初球の高目のボールにタイミングが合わず空振りしてしまった。その後もしばらくはまともに当たらなかった。
「まずい、どうしたんだろう」
 久しぶりの実戦を前に戸惑っていた。
「おいおい、前に飛ばさなきゃ始まらねえぞ」
 茶々が入る。
「黙れ黙れ、球を見極めているだけじゃ」と、強がる哲彌。
「ラスト1球」
 ひとつもいい当たりがなかったが後に21人もいるので、早く切り上げなければと焦ってしまい、最後の1球も力なくコバの前に転がっていた。自信がもろくも崩れ去っていた。
「ひとり5球」と、綾ベーが声をかける。
 なにせ22人。ひとり5球でも優に100球は超えてしまう。二ヶ所で打っても全員にはとてもじゃないが回らない。しかもボールは8個しかないときている。打っている後ろにずらりと順番待ちが続く。交代の時間がもったいないのだ。
 打つ方もだが、投げる方も大変だ。コバは自分が打つ番になると投げ手がいない。地金はメンバー表作りに頭を悩ましていてそんな余裕はないし、哲彌はピッチング練習を始めてしまっている。仕方なく信介と綾ベーが投げる。  
 しかし、まともにストライクが入らない。バット1本じゃとても届かないところへいく球、打者の背中をはるかに遠く過ぎ去る球は数知れず。ひとり5球打って交代のはずが、投げた球が5球で終わる羽目になり、1球もボールに当てることもできないまま終える者も多数いた。
 それでも、文句は出ない。野球をやっているという満足感で一杯だった。地金のほか何人もバッティング練習ができずにいると、試合開始5分前の声が審判から掛かった。大急ぎでベンチ前に集まった全員の前で、地金はここが晴舞台とばかりに、重々しく口を開いた。が、
「頑張ろう」と、言うのがやっとだった。

「メンバーを発表します」
 皆んなが一様に緊張するのが解った。
「一番、センター守田」
「はい」と、守田が声を上ずらせながら小さく頷いた。
『ダジャース戦法』の優等生を自認する地金らしく左バッターを一番にした。
「二番、ショート勘太」
「おお」と、勘太が満面笑みを浮かべた。小技のできるバッターを置きたいところだが、戦法はあっても、いかんせん人材難である。メジャーでもホームランも打てる打者を二番に起用することもあるということを知っていたので、勘太の腕力に賭けたのだ。脳力はいざ知らず、腕力には自信がある面々ばかりなのだ。
 本当は、つい1、2時間程前まで居酒屋で働いていた苦労人の心意気を、監督の地金としては買いたかったのかもしれない。
「三番、ファースト、ナリさん」
 走り高跳びでは1メートル30センチも跳べなかったナリだが、高校時代、哲彌と一緒に野球をやっていた時期もあったのだ。辞める、やりますを何度か繰り返して一応、夏の東京都の予選大会には在籍していた。
 ナリにとっては、野球よりも女の子に気持ちが揺らいだ青春だった。一応経験者ということで、地金はその場を納得させたかった。なにせ試合後の、将棋でいうなら感想戦が一番大変なのだ。地金は、負ければ、ラインナップのことで集中放火を受けることは覚悟していた。
「四番、キャッチャー、コバ」
「よ、置物」の声。
「五番、ライト、佐藤さん」
 ニックネームは、アイアンマン。クリーニング店を営み、重い業務用のアイロンを自在にあやつるそのパワーは、洋助も一目置く程である。40歳を優に越しながら、バットの素振りの音は、チーム随一だ。当たれば軽くオーバーフェンスだろう。ただしバットに当たればだが、確かにピッチャーには脅威を与えるだろうと思われた。
「六番、サード、哲彌さん」
「え、サード?」
 なぜだ、と言おうとしたが、あまりの予想外のことに動転して声にならなかった。
「七番、セカンド、まあ、オレ」ちょっと照れくさそうに地金。
「八番、レフト、島田」居酒屋で板前をやっている島田が抜擢された。
「九番、――」皆が息を飲んだ。誰なんだ、先発ピッチャーは。
「九番、ピッチャー、三橋」
「ええ、え――」
 声にならない唸り声も混じっていた。それもそのはず、三橋、通称ミッチャンの球といったら蠅が停まるどころか、蠅が停まったらその重さでボールが地面に落ちるだろうといわれたくらいだからだ。誰しも唖然といった表情。
 哲彌は納得できないといった表情だ。 
 だが、
「整列」との審判の声に一同グランドに振り向き、
「行くぞ」
 地金が号令をかけると一斉に応え、バッターボックスのラインを目がけて駆けて出していった。

 主審から、試合は7回制で1時間半で打ち切り、引き分けの場合は双方5人ずつの勝ち抜けジャンケンで決めるとのこと。そして後はグランド上の簡単なルール説明があった。
「監督さん、握手して先攻後攻を決めて下さい」
 地金は、勝って先攻を取ろうと考えていた。強そうな相手には先攻逃げ切りが一番だ。それにはジャンケンに勝たねばならない。慎重に相手の監督を観察した。人の善さそうな男だった。押しに弱いと見た。対策は考えていた。ジャンケンは「相拳グー」で始めるから、最初はグーを見せ合っている。そして、半分以上の人がそのままグーを出してしまうものだ、心理的統計学上そうなると地金は考えていた。理論的のように見えるが、人はグーからチョキへの手先の変化が面倒なのだと考えただけなのだが、案外的を射ているかもしれない。
 ジャンケンは運だと考えがちだが、そうじゃない。細工のないサイコロなら統計的に均一になるだろう。しかし、そこは、人間のやることだ。必ず確率の高い必勝法があるはずだ。そして、このジャンケンは、ただのジャンケンではない。同点の場合は、ジャンケン勝ちが価値ある1勝なのだ。その強さが物をいうことになるのだ。
「相拳グー、ジャンケンッ、ポンッ」と、地金は大声を出した。
 そして、間違いないッとばかりに手の平を思いッ切り開いて出した。
 案の定、敵方の監督は勢いに圧されてグーを出し、勝った地金は先攻を取った。
「打って打って打ちまくろうぜ」と、先発から外れたが威勢だけは一人前の信介が叫んだ。
 哲彌は相手投手の投球練習をずっと見つめていた。結構速い球を投げるが、どうもコントロールが良くなさそうだ。もともとピッチャーをやっていた投げ方ではない。最初はやられるかもしれないが、じっくりと見ていけば崩せるかもしれない。

 だが、問題はこちらの打線だ。ボールを見ていこうといったところで、気の短い面々だ。少々のボール球は振ってしまうだろう。どうするか。円陣を組んだ時に哲彌は言った。
「最初はツーストライクまでは、思いっきり振り回そう。バットとボールが少々離れようが構わない。渾身の力で振り切れ。なまじ当てようとするな。空振りでいい」
 ボールを見ていってあわよくば四球を狙おうなどとは考えるな、と緻密なダジャース戦法とは、まるで180度反対の戦法に地金は焦った。
「ボ、ボールは良く見て行こうぜ」
 だが、哲彌は構わず続けた。
「ツーストライク取られたら、バットをふた握り短く持て。そしてこれ見よがしにピッチャー見せつけろ。今度は徹底的にボールに当てよう。ファールで十分だ」
地金は、監督は俺だとムッとして、サインはと言いかけた時、一番の守田はもうバットも持って向かっていってしまった。
 かくして、第一回の早朝野球リーグの開幕初戦の『成子坂フレンズ27時』対『柳町ジャンプス』戦が、まだ薄暗い6時ちょうどに始まったのである。〈つづく〉

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