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【連載小説】俺たちの朝陽[第10章]運も二度続けば何とやら

【点を取るのは難しいが、取られる時は簡単だ】
 その頃、スナック『愛』のふたりは、ヤキモキしていた。『27時』の大事な初戦が始まろうとしているのに、客がひとり帰らないのだ。ピンク映画の助監督を長年やっている風采のあがらないこの男は、桃ちゃんをお気に入りで、このところ毎晩のように通ってきている。最近の上得意なのでそうそう邪険にもできなかった。
 その日は、客の入りが悪くマー姐ぇは桃ちゃんに早く帰ってもらおうとしていた時に顔を出して5時間も粘っているのだ。今日は、いつもはサントリーの白なのに珍しく角を入れてくれたから、なおさらだ。この男、仲間からは凡太とか凡ちゃんと呼ばれていた。ママのマー姐ぇは、
「凡太、早く帰んな、また女房が家に入れてくれなくなるよ」
「大丈夫、今日は実家に帰っているから。だからさあ、桃ちゃん、これからどこか桜でも見に行こうよ。夜の桜なんかより、断然朝だよ。なんか桜がちょっとボーッとしていていいんだよね」
 ふたりは、これから野球を見に行くとは言わなかった。言ったところで、
「なんであんな棒を振り回すもの見て、何が面白いの。桃ちゃん、誰か好きな人でもいるの」と、勘ぐられるのがオチだからだ。そうこうしているうちに、
「あ、まだやっていたの。マー姐ぇ早く行こうよ」と、鍼灸院でマッサージ嬢をやっている、麻美、由実の姉妹がやってきた。

 麻美、由実も『ヒゲ』の常連客だ。男どもがなにやら夢中になっているのを傍で見ていて呆れながらも、そんなに楽しいものなら見てみようかと、マー姐ぇたちと行く約束をしていた。
「あの人たちったら、ビール1本で何時間も野球のことで言い合ってるんだよね」と、麻美。
「ひと頃、競馬に狂っていたけれど、いまののめり込み方は半端じゃないよね」と、由実。
「ほかに考えることあるだろうにと思うくらいだからね」
「マスターもいい歳して、張り切ちゃってさ」
「別れた女房を忘れようとしてんのかね」
「野球が恋人ってシャレにもなんないよね」
「老いらくの恋はヤバいっていうのにね」
 そんな彼らを冷やかしながら、
「でもさ、男が何か一所懸命ッていうのはジンとくるよね」と、意見はまとまる。
「まだ看板が明るいから開けてみたんだけれど、まだやってたのね」と、麻美。
 マー姐ぇが顎で凡児を指した。
「凡ちゃん、いつまで呑んだくれてんのさ。堅気の人ならとっくに会社に向かっている時間だよ」
 麻美が背中をせっついた。
「うるさいな、その堅気とやらなんかになりたくないから、こうしてるのにさ」
 また面倒な奴らが来た、と凡太は閉口した。
「俺なんか24時間、頭働かせているんだぜ。ここで酒呑んでるのも映画っていう仕事のためさ」
「何言ってンだか。1時間でできる仕事を24時間かけてやってるだけだろ」と、今度は由実が凡太の座っていた丸椅子を蹴った。
「うう、桃ちゃん」助けを求めたが、女4人にかなうはずもない。
「さあ、行こう」と、麻美が言うが早いか、凡太のボトルとグラスをマー姐ぇに渡した。
「何処へ行くんだよ」
「何処だっていいの。あんたには関係ないの」
「真直ぐ帰りなよ。まだパチンコ屋は、やってないからね」
「帰るよ、帰るよ。そんなに邪険にしなくたって」
 4人に追い出されるように凡太が店を出ると、碧暗い空が薄らと明るくなり始めていた。

 マー姐ぇたちがグラウンドについた時は、一進一退の面白い攻防戦が始まっていた。
 二回の『27時』は四番コバがセカンドに内野安打するも佐藤、哲彌、地金の3人とも内野ゴロに倒れ0点。三回は、島田、三橋が連続三振を喫し、一番の守田がファーストのファールフライに倒れ、またも先制点を奪えずに終わっていた。
 一方、三橋の簡単に打てそうなボールに相手チームの気負いが目立ち、内野ゴロとポップフライを重ね、これまた無得点。
 二回、三回とも両チームお互いに点が入らず終わったが、四回の表、先頭の勘太がデッドボールで出塁。ノーアウトからのランナーだ。
「ナリさん、初球からいこうぜ」
 ベンチは興奮状態だ。
「ま、慌てなさンな」と、ナリははやる仲間を抑えようとしたが、素振りをしたその手からバットが抜け落ちそうになるほどに手の平に汗をかいていた。滑り止めのロージンバッグなどあるはずもない。仕方なくグラウンドの土で汗をぬぐった。
 1球目は外角低めのボール。2球目はナリの大好きな内角高めのボールだったので、思いっきり振り回した。が、ストライクコースを少し外れ、身体よりだったために三塁線をわずかに切れるファールになった。
「惜しいッ」と、声が掛かった。
 ナリはボールにバットが当たったことで少しホッとしていたのだが、皆の手前それを隠して大袈裟に悔しがってみせた。
 地金はナリのそのスイングを見てヒットエンドランのサインを出した。左手でユニフォームのマークあたりの胸を触った。しかし、勘太もナリも気がつかない。見えないのかと立ち上がってもう一度やってみた。ダメだ、見ていない。もう一度出そうとした時だ。相手ベンチから、
「バッター、監督さんからサインが出ているぞ」と、教えられる始末だ。
 慌てて、ナリが監督に目をやろうとした瞬間、ボールがど真ん中を通っていった。
「卑怯もの」
 ナリはピッチャーを睨んだが、相手は平然としている。カッと頭に血が上るのを感じた。 
 すると、その気持ちを見透かすように投げられた4球目は、外角低めに落ちるカーブだった。堪らず、ナリのバットは大きく空を切った。

「ああ」
 溜め息が味方ベンチを覆った。ナリの中では三振という事実より、手玉に取られたという屈辱感で一杯だった。ランナーの勘太も動けずにいた。それを見た四番のコバは、右のバッターボックスに入り、
「よし、俺がそのカーブを打ってやる」と、狙い球を決めていた。
 初球は誘うような内角低めのストレートのボール球。落ち着いて見送ったコバは次のカーブを待っていた。しかし、相手は警戒したのか、今度は外角高めのボール球。ノーストライク、ツーボール。その時、
「コバちゃん、一発打ったれよ」と、野太い女の声。  
 由実だった。その迫力にピッチャーもギョッとして声の方を振り返ったほどだ。コバは、苦笑しながらバッターボックスを外した。ピッチャーを見ると少し憮然とした表情をしていたので、これは、もう1球ストレートで来るなと直感した。案の定、気負って投げられた球は、真ん中高めの直球だ。
「1、2、3」で振り切ると、球はきれいに三遊間を破っていた。
 五番は、アイアインマン佐藤だ。ここで一本大きいのが出れば、一挙大量点が望める。 
 地金に迷いはなかった。小細工はいらない。
「任せたよ、クリーニング屋」と、今度は麻美の力強い声。
 いかつい顔の原型を留めないくらいに表情を崩して鉄人はバットを握りしめて歩き出していた。バッターボックスの前で素振りをくれると、空気がうなりをあげた。それは、一塁コーチの綾ベーにもはっきりと聞こえるくらいだった。キャッチャーは驚いてタイムをかけピッチャーマウンドへ駆け寄っていった。
 それを見て六番の哲彌は、 
「なに、俺と勝負する気か」と、いきり立った。
 一塁が空いているわけでもないのにアイアインマンを敬遠するのか。見くびられたものだ。だが、それはどうやら相手の撹乱作戦のようだった。
 アイアンマンへの第1球、ピッチャーが投げようとする寸前にキャッチャーが立ち上がった。そして、外角高めに遠く外れるボール。
「やはり、敬遠か」
 アイアンマンは、少し納得がいかないように小首をかしげながら、右足でバッターボックスの土をならした。しかし、警戒をされたということに内心嬉しくなり、つい表情を崩していた。そこへ第2球のストレートが緩くど真ん中へ。
「なにっ」
 キャッチャーを振り返ると、彼は普通のポジションで球を受け止め、そのマスク越しにアイアンマンの顔を見て、勝ち誇ったように歯を見せた。油断を笑われたようでアイアインマンはムッとした。カッとさせることが目的とは解っていても悔しかった。
「次はカーブだぞ」と、哲彌が後から声をかけたが、聞こえてはいなかっただろう。大きなカーブボールを追いかけ、突っ込んだ姿勢のままバットは空を切った。そしてアイアインマンの息がつかぬ間に投じられた4球目はまたもカーブだった。
 そのカーブは横に曲がるのではなく、縦に落ちてくるようなボールだ。アイアンマンにとってはジャイアンツの堀内恒夫のカーブというよりも、その大先輩の堀内庄の投げた『懸河(けんが)のドロップ』のように思えた。悠々と弧を描きながらキャッチャーミットに吸い込まれて行く白球を、呆然と見送るしかなかった。

 ツーアウト、ランナーは一塁、二塁。次打者の哲彌は、両手に持った金属バット2本を同時に振り回し、擦れあって響きあう音をバッテリーにアピールした。アイアンマンの空気をつんざく振り切る音とは違う不気味な圧迫音をさせていた。その音を聞こえないというように無視したキャッチャーを横目で確認した哲彌は、
「必ず初球はカーブで来る」と、確信した。
 相手は俺たちの事を力任せなバッターだと舐めてかかっているのだ。だったら、それを利用しない手はない。哲彌は、晩年の長嶋がしたように投手が投げると同時に、するするとバットの握りを滑らせて一握りほど短く持ち、一、二塁間に照準を合わせ思いっきり叩きつけた。打球は文字どおり一直線に糸を引くようにライト前へ跳んで行った。
 しかし、あまりに当たりが良すぎて二塁ランナーの勘太は、三塁を回るのがやっとで、ホームへはもどれず、満塁どまりだった。
「勘太、走れ、走れ」と、由美からヤジが飛ぶ。
「いくらなんでも、無理でしょう」
 勘太が大げさに手を広げる。
「いや、ライトが後逸したり、暴投するかもしれないじゃん」と、今度は麻美。
皆嬉しくてしょうがないのだ。ツーアウトながらも大チャンスだ。
 次は地金だ。
「監督、いいところにいるね」
「打てば名采配、ダメなら監督失格だね」と、容赦がない。
 地金は、自ら作った打順とはいえ、できすぎだと思っていた。野球は三番、四番、五番が中心で、得点や打点が多い中心打者と思われがちだが、草野球では案外、六番、七番あたりにチャンスが回ってくることが多く、ここが打つか打たないかで勝負が決まることが多い。だからと地金は責任上、自分をここに置いたのだった。
 ピッチャーを見ると明らかに動揺していた。コバにストレートを、そして哲彌にはカーブをものの見事に打ち返されているのだ。

「彼奴は何を考えるだろうか」
 地金は、自分だったら、いま打たれたカーブよりはストレートを選択するだろうと読んだ。そして1球目は予想通り真直ぐだったが、力み過ぎたのだろう遠く外れた。 
 ワンボール。
 内野の守備体型を見ると満塁ながらツーアウトなので普通の守備位置より少し深めだった。それを見て勘太が大きくリードを取り、2球目をピッチャーが振りかぶると同時にホームスチールを試みるかのように猛然とダッシュした。今度は内角寄りの高めストレート。
 またもボール。
 勘太の威嚇ダッシュを見たキャッチャーは取るや否や鋭く三塁へ投げた。勘太は慌てて戻りかけたが、右足を滑らせてしまった。
「マズい」
 勘太はこのままホームへ突っ込んだ方がいいと思ったが、身体が動かない。
 万事休す。
 それでも挟まれてすり抜けようと覚悟した瞬間、味方の大歓声。キャッチャーの投げた球は、三塁手の遥か上を通り過ぎて行ったのだ。体勢を立て直した勘太はニガ笑いを浮かべながらホームベースを踏んだ。
 待望の先取点、記念すべき1点だ。
 きれいな点の取り方ではないが、『27時』らしいと洋助は思った。ランナーもそれぞれ進塁して、ツーアウト二塁、三塁。三橋がピッチャーだからあと何点でも欲しい。
 地金は、次打者の島田を見た。最近の青年にしてはとても素直で人が善く、いつもニコニコ笑っているこの男が、緊張のあまりか顔がこわばっている。
「俺が歩かされて島田と勝負されたらアウトだな」
 地金は多少のボール球でも打っていこうと覚悟を決めた。心定まらぬ相手ピッチャーの投じた初球は、外角高めのボール球。飛びつくように叩くと見事右中間を切り開いた。コバと哲彌が相次いでホームイン。新聞紙を切り刻んだ、マー姐ぇたち応援団からの紙吹雪がベンチの前を舞った。島田がフォアボールを選んだが、三橋が内野ゴロで追加点は取れなかった。しかし、思いがけずこの回3点を先取。
 その裏。
 点を貰って気負ったのか、三橋は先頭打者をストレートのフォアボール。次のバッターにカーブを狙い撃ちされ、左中間にツーベースヒットを喰らう。レフトの島田とセンターの守田が譲り合い、モタモタする間に一塁ランナーがホームイン。あっさりと1点を取られる。 

 続く打者は、三橋のソフトボールのようなスロウボールに幻惑され、ファーストへのファールフライに倒れワンアウト。助かった。
 しかし、次打者にそのスロウカーブをじっくりと引き付けられレフト島田の頭上を越えられまたもツーベースヒットされ、2点目を献上。その次にも三遊間を破られ、はや同点に。
 そしてまたフォアボール。さすがに地金も落ち着かなくなって、マウンドへ。すると案外平気な顔をしている。それを見て、
「ま、ミッチャン、この回は任せるよ」
 と、哲彌の視線を無視して守備位置に戻った。
 フォアボールの後の初球は狙え、の格言通り、バッターは真ん中低めに落ちそうな半速球を思いっきり叩いた。打球は真直ぐ三橋を目がけていった。
「危ない」と、誰もがそう思った時、ボールは広げた三橋のグローブの中に吸い込まれていった。その打球の速さに押され、グローブが閉じられていった。まるでパチンコのチューリップに球が飲み込まれていくかのようだった。これで二度目のピッチャー直撃のラッキーライナー。一、二塁の走者はダブルスチールを仕掛けて一斉に走り出していたため塁に戻れず、ダブルプレイ。アッという間にチェンジとなった。
「まだ、運があるね」
「運も二度続けば何とやらじゃないの」
 珍しく伊勢のお父がヨイショして戯けた。
 お互い初試合のため思ったより時間がかかっている。四回を終わって1時間はゆうに過ぎていた。規定は1時間半過ぎるようなら新しいイニングに入れない。だから、次の五回の表裏で勝敗を決めなければならない。おあつらいむきに打順は一番からだ。
「守田、何が何でも塁に出ろよ」
 洋助がドスを効かせた声で脅す。
 初球、守田は何度も頭の中で描いてきたドラッグバントを仕掛けた。しかし、気が急いてしまい足の方が早く出てボールに当てることができず、空振り、ワンストライク。
 続く2球目は、一塁手と三塁手が猛然とダッシュしてくる中、辛うじてバットにかすることができたが、ファール。
 こうなりゃ、意地だとばかりに3球目も無謀なチャレンジ。
「あっ」
「言わんこっちゃない」 
 低めのワンバウンドのボールに当てることすらできなかった。
 空振りはもちろん、ファールでも三振なのだ。
 だが次の瞬間、次打者のウエーティングサークルにいた勘太が精一杯叫んだ。
「走れ」
 キャッチャーが後ろにはじいたのだ。
「振り逃げだ」 
 相手のベンチから大声がした。ボールはバックネットの下あたりで大きくはね転々と転がっていった。懸命に守田が一塁を走り抜けていった。
「よーし、チャンスだ」
 こっちのベンチ前では、代打志願者が勢ぞろいしてバットを振り始めた。誰もが頭の中ではヒーローだった。ただひとりを除いては。

「マスター、振り逃げの記号は何でしたっけ」と、気の抜けた声。
 俄スコアラーの能一だ。
「俺が解るわけないだろ」
「誰か知りませんか」
「お前、そんなのも解らないで東大へ行くつもりなのか」と、コバ。
「じゃあ、コバさん教えてください」
「じゃあ、てか。それが人に物を尋ねる態度なの」
「振り逃げって書いとけよ」
「書く場所が小さくて」と、能一。
 あまりの煩さに、一塁の審判が、
「英語のKの字を左右反対に書くんだ」と、教えられる始末。
「Kの字の反対って」
「頭、ほんと悪いんだな」
「えへ。だって」
「だってじゃねえよ。Kの字の左に鏡を置いてみろよ」
「あ、そうか」
「こりゃダメだ」緊迫した場面が弛んでしまった。
 ノーアウト、ランナー一塁。地金が勘太に聞く。
「どうする、送るか」
「いや、打たせてくださいよ。三、四番が打てるとは限らないじゃないですか」
「アウトひとつ、相手にやることはないか」
 勘太は、それより守田が単独スチールをやりはしないかが心配だった。一塁をみるとゲイトインした競走馬が、そのゲイトをいまにも蹴破って出ていきそうな格好をしている。 足下の地面をすり潰さんばかりに力が入っている。
「気をつけろよ、走るな」
「絶対走れよ」
 同時に声がかかる。
「どっちかにしろ」

 しかし、指示などは意味がなかった。勘太もすぐに諦めた。走るな、といっても無理なことはベンチにいるものは全員が知っていた。そして守っている方もそれは承知の上だった。二度三度と執拗に牽制球が守田を襲う。もう何度もされているので、結構余裕が出てきている。習うより慣れろだ。
 勘太は勘太で、守田が走るんだったら、手助けしかできないと思っていたので、するつもりのないバントの構えをした。キャッチャーのマスク越しの目の位置を確かめた。そして目の高さに合わせてバットを横にして構えた。目線を覆い隠すのだ。キャッチャーが見えにくそうにしているのを横目で確認してから、さらにバットを上下に動かした。たまらずキャッチャーは立ち上がった。
 それを見たピッチャーは、高目にボールを外すウエストボールの要求だと思い、慌てて投げた。ボールは遥か上を通り過ぎていく。暴投だ。守田の思いっきりの良さが幸いして、バックネットに当たったボールが跳ね返ってキャッチャーの下へ来た時には悠々とセーフになる位置まで走り込んでいた。ノーアウト二塁。
「よし。勘太行けよ」
「思いっきりぶっ飛ばせ」
 高校野球なら絶対バントだ。〈つづく〉

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